日本大百科全書(ニッポニカ) 「スピバク」の意味・わかりやすい解説
スピバク
すぴばく
Gayatri Chakravorty Spivak
(1942― )
インドのカルカッタ(現、コルカタ)に生まれ、おもにアメリカで活動する文化理論家。1959年にカルカッタ大学卒業後、1961年にアメリカ、コーネル大学に留学。ポール・ド・マンに学び、W・B・イェーツに関する論文で博士号を取得。同論文はその後書き直され、1974年に『強いて自分を組みかえて』と題して出版された。1976年にジャック・デリダの『根源の彼方に――グラマトロジーについて』(1967)を英訳し、その序文で展開したデリダ論によって一躍脚光をあびる。その後コロンビア大学で英文学を教えると同時にインドのベンガル地方で読み書きの教育活動も行う。国籍はインドのまま、アメリカではグリーンカードをもつ在留外国人という立場に身をおく。脱構築的な手法を用いながら、マルクス主義、フェミニズム、ポスト・コロニアリズムの交差する地点から批評活動を行う。
これまでに発表した論考のうち、主要なものは論文集としてまとめられている。1977年から1987年に執筆された論文を集めた『文化としての他者』(1987)では文学批評、教育をめぐる問題を扱う。インドの西ベンガルの作家デビMahasweta Devi(1926―2016)の小説の翻訳と論考も刊行。また1984年から1988年オーストリア、カナダ、インド、アメリカ、イギリスで出版、放送されたさまざまな政治思想家との12回の対談とインタビューを収めた『ポスト植民地主義の思想』(1990)、さらにアメリカの大学教育制度批判、クレイシHanif Kureishi(1954― )の映画、ラシュディSalman Rushdie(1947― )の小説など現代の文化の諸相を扱った論文集『教育機関の外に出て』Outside in the Teaching Machine(1993)が刊行されている。いずれの論考においても、他者にかわって表象=代表する知識人、批評家の発話の位置が、政治的、歴史的、制度的な構造の側面から深く問われている。
スピバクの論考のなかでもとりわけ中心的な位置を占めるのは、『サバルタンは語ることができるか』(1988)である。スピバクは、1980年代初頭からインドの歴史家によって旗揚げされたサバルタン・スタディーズ(植民地支配下、脱植民地化における民衆の歴史を解き明かす研究プロジェクト)のメンバーでもあり、その活動を論評してきた。同書では、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシが用いたサバルタン(従属的地位にあるもの)という概念やデリダの概念を援用しつつ、サバルタンの女性について語ることの(不)可能性について考察している。そこでは、インドのサティ(寡婦殉死)を例に、サバルタンの女性の抑圧をめぐる二重の起源――一方にはインドの女性を男性から保護すべき客体とみるイギリスによる寡婦殉死の慣習廃止、他方にはインドの女性は主体的に自ら死ぬことを望んでいたと唱えるインドの土着主義者らの議論――を描き出した。そしてこの錯綜(さくそう)を前にしてスピバクが挑んでいるのは、フーコー、ドルーズの言説に滑り込んでいるヨーロッパ的主体における自民族中心主義に陥ることなしに、ポスト・コロニアルの女性知識人はサバルタンという他者を、どう認知することができるかという課題である。そしてサバルタンの女性という、歴史的に沈黙させられてきた主体のことばに耳を傾けたり、自ら女性であることの特権をわざと忘れ去ってみる(unlearn)ことの必要性を提起している。
1999年に発表された『ポストコロニアル理性批判』では、サバルタンの問題は、「ネイティブ・インフォーマント」(フィールドワーク調査における現地の情報提供者)と重ねられ、哲学、歴史、文学、文化といった言説や出来事のなかでの抵抗のあり方を脱構築的に問うことにつなげられている。同書の「歴史」と題する第3章は、事実上『サバルタンは語ることができるか』の内容を更新したものである。また第4章は「文化」と題してデザイナーの川久保玲(1942― )を取り上げ、ファッション産業や、そうした産業構造のなかで児童労働に従事する少女たちを手がかりに、多文化主義やグローバル資本主義において、ネイティブ・インフォーマントとしてジェンダー化されたサバルタンの姿を考察している。
知識人の発話の位置を問い直しながらスピバクが一貫して探求しているのは、ローカルな構造とグローバルな状況との共犯関係であり、従属的立場におかれた者たちの抵抗の可能性を脱構築的に編み直して国家横断的に交渉の場を拓(ひら)いていくことである。
[清水知子]
『鈴木総他訳『文化としての他者』(1990/復刊版・2000・紀伊國屋書店)』▽『清水和子・崎谷若菜訳『ポスト植民地主義の思想』(1992・彩流社)』▽『上村忠夫訳『サバルタンは語ることができるか』(1998・みすず書房)』▽『ラナジット・グハ、ガヤトリ・スピヴァック他著、竹中千春訳『サバルタンの歴史――インド史の脱構築』(1998・岩波書店)』▽『本橋哲也・上村忠夫他訳『ポストコロニアル理性批判』(2003・月曜社)』▽『Outside in the Teaching Machine(1993, Routledge, New York)』▽『Gayatri Chakravorty Spivak, Donna Landry and Gerald MacLean eds.The Spivak Reader; Selected Works of Gayatri Chakravorty Spivak(1996, Routledge, New York)』▽『大池真知子訳『スピヴァクみずからを語る――家・サバルタン・知識人』(2008・岩波書店)』