日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
セカンド・サマー・オブ・ラブ
せかんどさまーおぶらぶ
Second Summer of Love
1980年代中期以降、イギリスではハウス・ミュージックの爆発的な流行が起こったが、そのピークの時期を、1967年サンフランシスコでのヒッピー・カルチャーの絶頂、サマー・オブ・ラブの再来と捉える視点から指し示す語。
80年代、ロンドンのダンス・クラブではヒップ・ホップを流すところが大半だったが、86年ころからシカゴの新たなダンス・ミュージックであるハウスがイギリスに上陸し、徐々に流行のきざしをみせる。クラブDJ、ポール・オークンフォルドPaul Oakenfold(1963― )らは、夏のリゾートで訪れたスペイン、バレアレス諸島のイビサ島で体験したハウスをベースに、さまざまな音楽をミックスするDJプレイをロンドンで再現しようと、87年末に新たなクラブをオープンする。そこで流されたサウンドはバレアリック・サウンドと呼ばれ驚異的な勢いで広まり、クラブ・シーンは熱狂的な盛り上がりをみせる。
しかし騒ぎや騒音問題、あるいはドラッグ問題もあって、警官によるクラブへの取り締まりもまた厳しくなる。それを逃れるため、クラバー(クラブイベントのプログラム情報などを多様なコミュニケーション・ネットワークを利用して入手し、クラブに集う人々)たちは空き屋や倉庫、野外の空地などを占拠し、非合法に行うウェアハウス・パーティーへと流れ込むようになる。88年の夏になるとウェアハウス・パーティーは多数の客を集めるようになり、エクスタシー(メチレンジオキシメタンフェタミン、MDMA)という多幸感を増すドラッグと、シカゴ発祥のアシッド・ハウス(幻覚的なベース音を特徴とするハウス・ミュージックの一種)の流行によって、一大ムーブメントに発展する。
このムーブメントは「ニュー・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたが、翌年の89年夏にはさらに規模を増し、8月に飛行機の格納庫で行われたウェアハウス・パーティー、「サンライズ・ミッドサマー・ナイツ・ドリーム」は1万2000人を動員するまでに至る。このころには大規模なウェアハウス・パーティーがレイブと呼ばれるようになり、大規模レイブは以後イギリスの大衆娯楽として定着することになった。
この89年のレイブ流行を指し、前年の「ニュー・サマー・オブ・ラブ」の再来という意味でセカンド・サマー・オブ・ラブという語が初めて用いられたが、その後両者の区別は曖昧となり、88年から89年にかけて、イギリスでクラブ・カルチャーが大規模化した時期の総称として用いられることが多い。
[増田 聡]
『野田努・『宝島』編集部編『クラブ・ミュージックの文化誌――ハウス誕生からレイヴ・カルチャーまで』(1993・JICC出版局)』