日本大百科全書(ニッポニカ) 「セダンの戦い」の意味・わかりやすい解説
セダンの戦い
せだんのたたかい
プロイセン・フランス戦争中の1870年9月に、フランス軍が敗れた戦い。セダンSedan(スダン)は北フランスの都市名。フランスのマクマオン将軍の率いるシャロン軍は、メス(メッツ)で敵軍の包囲下にあるロレーヌ軍の救援に向かったが、モルトケ将軍の率いるプロイセン軍に迎撃された。とくに8月30日のボモンの戦いで大打撃を受け、セダンに向けて退却したが、9月1日セダンの近郊で捕捉(ほそく)され、壊滅的な打撃を受けた。ナポレオン3世は病躯(びょうく)をおしてパリからセダンにきていたが、この敗北を知ると士気を阻喪し、使者を送って降伏の意を伝えた。翌2日、フランスのビムプフェン将軍は、モルトケ将軍とビスマルク首相のいるベルビュ宮に赴き、8万人以上の兵士を捕虜として引き渡すという降伏状に署名した。3日には、ナポレオン3世も捕虜の身としてドイツに送られた。翌4日、パリでは臨時政府の樹立が宣言され、ここに第二帝政は崩壊した。
[本池 立]