日本科学史(読み)にほんかがくし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本科学史」の意味・わかりやすい解説

日本科学史
にほんかがくし

はじめに

19世紀なかば、数隻の黒船に驚いた日本の社会は、その後、大きな変貌(へんぼう)を遂げ、今日に至っている。その変化の基軸の一つとなるのが、科学・技術の社会における制度的確立であることはいうまでもない。

 私たちが今日、自らのものとしている現代科学・技術は、明らかに西欧社会にその起源をたどらなければならない。歴史上、日本が西欧文明に接した大きな画期が二度ある。一度はペリー来航・明治維新期であり、いま一度がその約3世紀前の鉄砲伝来である。前者は日本における近代社会樹立にとって決定的な意味をもつものとなった。一方、後者は織豊(しょくほう)政権から徳川幕藩体制という統一的封建社会成立への重要な契機となった。鉄砲伝来の年、1543年(天文12)は世界科学史上の観点からすれば、コペルニクスの『天球の回転について』およびベサリウスの『人体の構造について』(『ファブリカ』)が刊行された画期的な年である。その年に日本は西欧文明・技術の成果、しかも火器という形のものに直接、接したのである。鉄砲伝来から鎖国期に至る間のキリシタン文化移入および江戸時代中期以降の蘭学(らんがく)の勃興(ぼっこう)とその展開は、幕末期のシーボルトの来日とその影響などを含めて、明治期の欧米科学・技術の本格的導入、国内における近代科学・技術成立の重要な前提条件となった。

 鉄砲伝来が、社会的・歴史的大事件としての意義をもつのは、その後の迅速な普及があってのことである。それを可能にしたのは当時の刀鍛冶(かじ)を中心とする優れた鍛工技術であった。また蘭学の代表的事業である『解体新書』刊行(1774)は、それを成功させた杉田玄白(げんぱく)ら蘭医の力量と努力があって可能となった。さらに幕末期、物理・化学などの分野の蘭書翻訳を行ったのは、青地林宗(あおちりんそう)、宇田川榕菴(ようあん)ら蘭医であった。西欧における近代科学・技術成立過程においても、医師・高級職人たちがその一翼を担ったことはよく知られている。日本での一部類似した状況は、はるかに遅れた歴史的時点において生じた。

 西欧で近代科学・技術成立にあたって先駆となったのは力学である。17世紀におけるそれへの社会的前提として運輸(船舶・運河など)、鉱山業ほかの産業の発展が要求する力学上の諸問題が存在した。弾道学はそのまま力学の課題である。当時の日本の社会における生産力発展は、少なくともそうした問題を提起しうるまでには至っていない。さらに思想面でみるとき、西欧においてはギリシア哲学、キリスト教的世界観、およびそれらへの対抗的思想の発展が近代科学成立への契機として大きく作用したのに対して、日本では儒学その他が思想として存在はしたが、以上のような意味での契機とはなりえなかった。かくして封建時代にあっては、近代科学樹立へ向けての日本社会の力量は、部分的に発揮されることはあっても(たとえば前述の事例や和算の関孝和(たかかず)、建部賢弘(たけべかたひろ)ら)、体系的に示されることはありえなかった。それは、幕末・明治期の西欧科学・技術の導入・移植の過程以降において試されることとなる。

[荒川 泓]

近代日本の科学・技術

近代科学の揺籃期(1853~1885)

日本における近代的かつ体系的な科学・技術の成立は、明治維新政権の成立(1868)から第二次世界大戦の終結(1945)までを画期とする約80年間に欧米のそれの導入・移植をもって始まった。その最初の拠点となったのは、徳川幕府が創立した長崎の海軍伝習所(1855)、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(1856)、沼津兵学校(1868)などである。蕃書調所はのちの東京大学に、長崎海軍伝習所の修理工場として誕生した長崎製鉄所はのちに三菱(みつびし)重工業長崎造船所となる。幕末・明治初期に欧米科学の急速な導入・移植を可能にした第一の前提は、18世紀以降の蘭学(らんがく)者たちの存在である。実験・観察を重視する近代科学の精神と方法は蘭学を学んだ者たちによって開拓された。

 日本の開国後の貿易相手国の中心はイギリス、ついでアメリカで、オランダは競争力を失っていた。そして開国後約10年間で蘭学から英学への転換は決定的になった。幕末から明治にかけて欧米近代文化の移植に大きな力を発揮したのはお雇い外国人たちである。その人数が多かった時期は1870(明治3)~1880年の約10年間である。アメリカ人、イギリス人が多く、ドイツ人、フランス人がそれに次いだ。1877年、開成学校と東京医学校が合併して東京大学が成立したとき、理学部教授は外国人が化学のアトキンソン、地質・冶金(やきん)のナウマン、動物学のモースら12人であり、日本人は数学の菊池大麓(だいろく)、植物学の矢田部良吉(やたべりょうきち)ら3人であった。9年後、東大が帝国大学となったときは菊池・矢田部のほか、物理学の山川健次郎(1854―1931)、化学の桜井錠二(じょうじ)、古生物学の原田豊吉(とよきち)ら日本近代科学建設を担った人々が理科大学の中心となっており、外国人は化学のダイバーズ、物理学のノットのみであった。

 明治初期、殖産興業の中枢となったのは1870年設置の工部省で、その下に技術者養成を目的に工学寮が置かれた。これは1877年工部大学校と改称、1879年第1回卒業生23名を出す。うち11名は海外に留学、そのなかに化学の高峰譲吉(じょうきち)、電気の志田林三郎(しだりんざぶろう)、造船の三好晋六郎(みよししんろくろう)(1857―1910)、建築の辰野金吾(たつのきんご)らが含まれている。この時期は日本産業革命のいわば前段階にあたるが、その機械制紡績業の先駆となったのは、幕末・明治維新期に創設されたいわゆる始祖三紡績(鹿児島・堺(さかい)・鹿島(かしま)紡績所)である。政府による綿紡績業の保護育成は1870年ごろから積極的に進められ、1880年代なかばにかけて紡績機払下げ工場として岡山・三重・佐賀・山梨・大阪・長崎・静岡・栃木の府県にいわゆる十基紡が成立する。最初から民間紡績会社として大規模生産を開始したのは大阪紡績会社である。1883年ごろからミュール紡績機1万0500錘の大規模生産を蒸気動力で開始、綿紡績業として昼夜二交替制を初めて採用し、そのために1886年に工場としては初めて電灯を設備した。大阪紡績はのちに東洋紡績となる。一方、生糸製糸業のために政府は群馬県富岡に富岡製糸場を設立し、1872年開業した。

[荒川 泓]

日本産業革命展開期における近代科学・技術体系の成立(1886~1913)

日本資本主義成立の前提としての本源的蓄積は地租改正(1873)から松方内閣によるデフレ政策に至る間に集中的に遂行され、その最終段階である1885年末~1886年に日本の産業革命は本格的に始動し、ほぼ1900(明治33)~1910年の間に達成されて産業資本の確立をみる。国民経済の資本主義的編成が軌道にのると、日本資本主義はその確立が同時的に帝国主義への転化の過程となるという世界史上例のない道を歩み出す。この過程に、教育・科学・技術の側面で直接に呼応するのが、初代文部大臣の森有礼(ありのり)により着手された諸教育改革である。1886年帝国大学令公布とともに、東大は法・文・理・工・医の各分科大学よりなる帝国大学となり、同年、師範学校令、小学校令、中学校令なども公布された。また、この年、現役陸軍大佐が東京師範学校長となった。

 日本への西洋数学の移入は長崎海軍伝習所などを経て始まった。日本には和算の伝統があったが、1872年に小学校教育での洋算の全面的採用が決まり、1886年教科書検定実施に対応して、菊池大麓、藤沢利喜太郎らによる中学校数学教科書が現れ、1889~1897年には全国の中等数学教科書は菊池・藤沢らによる教科書に画一化された。学会組織としては東京数学会社が1877年に設立され(最初の学会の東京医学会社は1875年)、1884年東京数学物理学会に改組された(日本化学会は1878年、日本地震学会は1880年設立)。この年、東大数学科の第1回卒業生が出ている。東大最初の物理学教授は山川健次郎で、彼を助けて物理学教室を建設したのは田中館愛橘(たなかだてあいきつ)と長岡半太郎である。田中館は1891年教授となり、1880~1890年代日本各地で地磁気測定を行った。長岡は1887年に大学を卒業、1888年ニッケルの磁気歪についての研究を発表する。化学分野では桜井錠二がイギリス留学から帰り、1881年松井直吉(なおきち)とともに東大初の日本人化学教授となり、以後、熱化学、分子量測定などについての研究成果を発表する。ようやく日本の近代科学各分野の研究が起動し始めたのである。この時期、とくに日本人の研究成果として名を高からしめたのは、北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)(破傷風菌についての研究、1889~1890)、志賀潔(きよし)(赤痢菌の発見、1897)、池野成一郎(ソテツの精虫発見、1896)、大森房吉(地震学・大森公式、1899)、木村栄(ひさし)(緯度変化z項発見、1902)、高峰譲吉(アドレナリン結晶単離・1901、タカジアスターゼ・1909)、長岡半太郎(有核原子模型、1903)らの業績である。

 産業革命の過程における工場制工業は紡績工業を中心に発展するが、技術的にみて重要な点は、ミュール紡績機から新鋭機リング紡績機への更新が急速に行われ、1889年にリング機の総台数がミュール機を上回った。先進国イギリスではなお主流はミュール機であった。豊田佐吉(とよださきち)は1897年に独創的な小幅綿織物用の力織機を完成、これは国内および満州・朝鮮での需要に適合して急速に普及し、日本資本主義の満州市場支配のための有力な武器となった。最大の輸出産業であった生糸製造業は農村工業として展開したもので、器械製糸が座繰り製糸を凌駕(りょうが)し飛躍的発展をみせるのは19世紀末以降になる。

 近代的製銑技術の誕生は、釜石(かまいし)鉱山の払下げから出発した田中製鉄所が、1894年夕張(ゆうばり)炭を原料とするコークス製銑に成功したときである。このとき技術指導にあたった野呂景義(のろかげよし)は、1901年、操業を開始した八幡(やはた)製鉄所が技術的困難から操業を中止した際、それを解決し、1904年操業再開を成功させるうえで重要な役割を果たす。そうした能力をもつ技術指導者がようやく育ってきていたのである。1913年(大正2)の官営八幡製鉄所の鋼材生産高は約22万トン(全国比85%)に達する。そして日露戦争から第一次世界大戦直前期に至るこの時期、住友鋳鋼場(1901年設立、のち住友金属)、神戸製鋼所(1905)、日本鋼管(1912)など民間財閥系鉄鋼企業が登場する。また池貝庄太郎(いけがいしょうたろう)は1905年、旋盤2台をフランシスの指導の下に自ら設計し、初めて完全製作に成功する。電気機械工業では、三井・芝浦製作所が1894年ごろ、交流発電機の製作を開始した。電気技術者の養成は工部大学校―帝大工科大学で行われ、工部大学校出身の志田林三郎、藤岡市助、浅野応輔(おうすけ)、中野初子(はつね)の4人は日本の電気工学・電気事業の先駆者としての役目を果たす。志田・中野は教育・研究・民間技術指導に尽力、浅野は1891年電気試験所初代所長となって電気事業の育成・指導に努めた。藤岡は日本最初の国産発電機の製造を成功させ、1886年東京電燈(でんとう)の技師長となり、1890年白熱舎を創立、東京電気株式会社に発展させ(のち東芝)、電球国産化に尽力、また水力発電・送電事業に貢献した。1907年東京電燈(現、東京電力)は駒橋発電所(山梨県大月市)を完成、東京まで75キロメートルを5万5000ボルト送電に成功した。造船技術では、三菱合資会社(現、三菱重工業)の長崎造船所が1898年常陸(ひたち)丸(6172トン)を建造して日本造船技術史上に画期をなし、さらに1908年、最初のタービン船天洋丸(1万3454トン)の竣工(しゅんこう)がその水準を示した。日本の機械工業は、この時期なお脆弱(ぜいじゃく)性(たとえば工作機械)をもちつつもいちおうの確立の見通しを得たのである。

 かくして日本産業革命は1900~1910年代に達成されたということができよう。そしてその完成期に、東北帝国大学(1907)、九州帝国大学(1910)などが相次いで設立され、日本の科学・技術の拠点が広がり始める。

[荒川 泓]

第一次世界大戦より第二次世界大戦終結までの科学・技術(1914~1945)

1913年アメリカから帰った高峰譲吉は産業開発のための大規模な研究所の必要を説き、第一次世界大戦勃発による原料・薬品の輸入困難が契機となって、化学だけでなく物理学をも含む研究所設立の気運が生まれた。政府への建議、財界からの資金援助を受けて、1917年理化学研究所(理研)が設置された。1921年大河内正敏(おおこうちまさとし)が所長に就任、運営に手腕を振るう。理研は発足当初から、大学の中心的研究者を兼任の主任研究員として研究を進めた。1920年代初期の中心的メンバーは、物理学では長岡半太郎、X線回折の西川正治(しょうじ)、金属・磁性物理の本多光太郎ら、化学では「味の素(もと)」発明(1908)の池田菊苗(きくなえ)、オリザニン(ビタミンB1)発見(1911)の鈴木梅太郎、ウルシオール発見(1912)で知られ日本の有機化学を育てた真島利行(まじまりこう)、物理化学の片山正夫、無機・放射線化学の飯盛里安(いいもりさとやす)らで、当時の日本の第一級の科学者を網羅している。1930年代には仁科芳雄(にしなよしお)らが加わる。菊池正士(せいし)の雲母(うんも)単結晶薄片の電子線回折実験は理研西川研究室で行われ(1928)、電子の波動性の実証として世界的に高い評価を受けた(寺田寅彦(とらひこ)・西川らのX線回折研究の成果がその土台にある)。日本の科学研究の先進部分がようやく世界の科学の第一線にたどり着いたのである。

[荒川 泓]

物理学

1920年代以降、日本の実験物理学の発展に重要な役割を果たした研究機関として、理研、各大学の物理学教室に加えて、東北帝大附置研究所の金属材料研究所がある。これは本多光太郎の業績(KS磁石鋼の発明、1916)を軸に、住友財閥からの資金援助を受けて発展、成立した(1922)。本多は所長として研究指導を進め、同研究所は1920~1930年代には世界的にもその分野の一つの中心としての位置を占めた。1933年(昭和8)本多は、増本量(ますもとはかる)、白川勇記(ゆうき)とともにさらに強力な磁石鋼、新KS鋼を発明した。前後して三島徳七は1931年にMK鋼を発明している。

 1930年代、理研では仁科研究室が開設され(1931)、日本の新しい物理学の中心となり始めていた。仁科芳雄は1920年代ヨーロッパでの量子力学成立期の激動に接して帰国、それを日本に伝えた(電子による電磁波散乱についてのクライン‐仁科の式、1928)。仁科研究室では自由な雰囲気のなかで理論的研究、宇宙線実験などが進められた。さらに1930年代後半から1940年代にかけて当時としては国際的にも一級の水準を目ざしたサイクロトロンが建設され、日本の核物理学の水準を引き上げるうえで大きく貢献するものとなった。

 日本における理論物理学の系譜は、1910年代東北帝大における石原純(あつし)をもって始まる。石原は国内で先駆けて相対論・量子論の研究を手がけるが、それはなお孤立的なものであり、仁科は個人としてみれば本質的に実験物理学者であった。今日の意味での理論物理学者ということになれば、湯川秀樹(ひでき)、朝永振一郎(ともながしんいちろう)、坂田昌一(しょういち)らをもって始まるというべきであろう。湯川・朝永はともに1929年に京都帝大を卒業、1932年湯川は母校の講師として量子力学の講義を始め、朝永は同年に仁科研究室に入った。ちなみに、1932年は中性子・重水素・陽電子・宇宙線シャワーなどの発見、加速器による初の原子核の人工的壊変と、世界の物理学史上、大発見の年である。湯川は1933年大阪帝大に移り、1935年中間子論第一論文を発表、1937年、宇宙線中に電子の約200倍の重さの粒子が発見され、湯川中間子論は俄然(がぜん)注目を浴びた。湯川は、坂田、武谷三男(たけたにみつお)、小林稔(みのる)(1908―2001)らの協力を得て第二~第四論文を発表(1937~1938)、1939年に母校教授となり、終生そこで研究を進めた。朝永は1937年から2年間ハイゼンベルクの下で研究、1941年東京文理科大学教授となり、東京に場の量子論を中心とした理論グループをつくる。かくして京都大学・東京文理大・理研を中心として素粒子論研究の拠点が生まれた。1940年代に入って、宇宙線中の中間子と核力の原因としての中間子とを同一視することへの疑問が出され、1942年坂田、谷川安孝(やすたか)(1916―1987)、井上健(たけし)(1921―2004)らによる二中間子論が発表された。π(パイ)中間子(核力の場に湯川が導入したもの)の人工的生成による確認は第二次世界大戦後の1948年(昭和23)のことである。朝永は1943年超多時間形式の相対論的量子力学を完成した。1930年代末~1940年代にかけて日本の理論物理学は世界の第一線に躍り出た。

[荒川 泓]

化学

化学分野では、この時期、結晶X線解析の仁田勇(にったいさむ)、誘電吸収の水島三一郎らの物理化学領域の研究が目だつ。仁田の業績は有機結晶のX線解析として、水島の研究はアルコールなど有機液体の電波吸収として、当時の世界における先駆的な仕事である。仁田は1933年以降大阪帝大教授として、水島は終始東京帝大にあって、ともに後継者を育て日本の構造化学分野を確立する。無機化学領域では、柴田(しばた)雄次の錯塩の分光化学的研究(1914)があり、有機化学領域では、真島およびその門下らの研究、たとえば真島・星野敏雄(としお)(1899―1979)のインドール誘導体(1926)、黒田チカ(1884―1968)のベニバナの色素の研究(1930)など多面的に広がる。1941年の野副鉄男(のぞえてつお)のヒノキチオール(トロポロン誘導体)の研究はとくに著しい業績としてあげられよう。

[荒川 泓]

数学

数学では、高木貞治(ていじ)の類体論(1920)が世界の数学界に日本の数学を位置づけた。この業績は物理学の湯川の業績と並ぶ日本科学史を代表するものといえる。高木はヒルベルトらに師事して代数的整数論を専攻、1904年東京帝大教授となり、1920年133ページに及ぶドイツ語の大論文を発表、「高木の類体論」が誕生した。1922年第二論文を発表、アルティンによる補足を含めて高木‐アルティンの類体論が1927年ごろ完成する。林鶴一は高木や微分方程式論の吉江琢児(たくじ)(1874―1947)とともに藤沢利喜太郎門下で、1911年東北帝大数学教室開設に際しての中心メンバーとなり、解析の藤原松三郎(1881―1946)、微分幾何の窪田忠彦(くぼたただひこ)、数学史の小倉(おぐら)金之助、解析・積分方程式論の掛谷宗一(かけやそういち)(1886―1947)らを集めて1920年代東北帝大の数学黄金時代をつくった。林鶴一は数学研究の組織者として大きな役割を果たした。1920~1930年代、東京帝大では高木、吉江、関数論の竹内端三(たけのうちたんぞう)(1887―1945)らの下で、解析的整数論の末綱恕一(すえつなじょいち)(1898―1970)、関数論の辻正次(つじまさつぐ)(1894―1960)、幾何・位相解析の彌永昌吉(いやながしょうきち)(1906―2006)らが活躍した。同時期、京都帝大の中心になったのは、代数学・イデアル論の園正造(そのまさぞう)であり、1921~1946年教授として後進を指導、その下から多変数関数論の岡潔(おかきよし)、代数学・代数幾何学の秋月康夫(やすお)(1902―1984)らが出る。1931年創設の大阪帝大数学教室には代数学の正田建次郎らがおり、その下に解析の南雲道夫(なぐもみちお)(1905―1995)、トポロジーの寺阪英孝(ひでたか)(1904―1996)、位相解析の吉田耕作(1909―1990)や角谷(かくたに)静夫(1911―2004)ら、現代の数学の中心となる人々が集まった。正田は日本の抽象代数学の育ての親としての役割を果たした。この時期大阪帝大は、数学教室のみならず、菊池、湯川、坂田、統計力学の伏見康治(1909―2008)らのいる物理教室、真島を中心として有機化学の小竹無二雄(むにお)(1894―1976)、仁田、反応論の千谷利三(ちたにとしぞう)(1901―1973)の活躍する化学教室と活力に満ちていた。

[荒川 泓]

生物学・地質学

日本の生物学は農学と結合して発展する。1915年ごろから農事試験場でコメ・ムギの品種改良が軌道にのり始め、遺伝学講座が大学に開設された。京都帝大での研究の中心となった木原均(ひとし)はコムギについて研究を進め、ゲノム分析に関する最初の論文を1930年に発表した。

 地質学分野では日本地質構造論の発展が目だつ。19世紀末、ナウマンと原田豊吉(とよきち)の論争に始まるこの問題は、小川琢治(たくじ)らの研究を経て、小沢儀明(よしあき)による秋吉台での大反転構造の発見(1925)を契機として研究が発展した。1941年、小林貞一(ていいち)(1901―1996)は日本列島の地史(構造史)を初めて全般的に体系づけた。東京帝大に地震研究所が創設されたのは1925年である。岡田武松(たけまつ)(当時の中央気象台長)らの努力で、全国的な地震観測網が整備され、その結果、和達清夫(わだちきよお)は深発地震の存在を確認した(1927)。

[荒川 泓]

技術基盤の整備

1914年に一部完成した猪苗代(いなわしろ)発電所は翌1915年、東京への高圧送電に成功し、1920年代から1930年代にかけて今日の全国送電幹線網が形成された。また八木秀次(やぎひでつぐ)・宇田新太郎の電波指向方式アンテナの発明(1926)、丹羽保次郎(にわやすじろう)・小林正次(こばやしまさつぐ)(1902―1975)のNE式写真電送方式の発明(1929)、岡部金治郎の磁電管による電気振動の発見(1927)と大阪管の発明(1937)といった技術的な発明・発見が出始めるのもこのころである。そして大容量・高圧電力機器などの製作技術は、1930年代満州事変後に本格的に確立された(鴨緑江(おうりょくこう)水豊発電所、10万キロVA発電機、1939~1940年)。1934年に至って官営八幡製鉄所を中軸に日鉄大合同が行われ、日本製鉄トラストが成立した。第二次世界大戦終結までの国内生産量の最高は粗鋼ベースで1943年の756万トンである(戦後最高は1973年約1億2000万トン)。また化学工業に関しては第一次世界大戦後、硫安の輸入途絶対策としてアンモニア工業が急速に発展し、1920年代~1930年代、住友化学工業(現、住友化学)、三菱化成(現、三菱ケミカル)、昭和電工など今日の有力化学資本がそろって空中窒素固定法による生産に進出した。

 かくして1930年代なかばまでには、全国送配電幹線網形成、重化学工業の本格的成立と、日本資本主義の重化学工業化―軍事化が進む。その最大の指標が日鉄トラストの形成であった。日本の科学の自立は、日本資本主義の確立、同時に進む帝国主義への転化と軍国主義への傾斜の過程のなかで進行したのである。

[荒川 泓]

現代日本の科学・技術

現代科学・技術体系の確立と展開(1945~)

敗戦と戦後改革が明治維新以来最大の歴史的画期であることは、今日異論のないところであろう。戦争による破壊のなかで物的条件は劣悪であったが、科学者たち、とくにその先進部分の立ち上がりはむしろ迅速であった。軍国主義の抑圧からの解放感が大きく、その動きの先頭にたったのは素粒子論領域を中心とする理論物理学者らであり、1949年(昭和24)湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞はそれを象徴するものであった。これを契機に京大に基礎物理学研究所が設置され、理論物理学の拠点として今日に至っている。理論分野の動きに比べ、物的条件に直接支配される実験的諸科学の回復は遅れた。その本格的立ち上がりは朝鮮戦争(1950~1953)を契機とする日本資本主義の復活期以降である。1955年原子核研究所(1997年高エネルギー加速器研究機構に改組)、1957年物性研究所が東大に設立されるという状況がそれを物語っている。1950年代後半以降、日本の科学とくに基礎的諸分野の発展のために一定の役割を果たしてきたのは、前記の諸研究所をはじめとする共同利用形態の国立大学附置研究所(阪大蛋白(たんぱく)質研究所、名古屋大学プラズマ研究所、東大海洋研究所・宇宙航空研究所、京大数理解析研究所・原子炉実験所など)である。これらは1958~1963年に集中的に設立された。同時期(1960~1962)、民間企業では中央研究所設立ブームがおこる。1950年代末期には民間企業に働く研究者数が急速に増加、絶対数で大学、国公立研究機関のそれを上回るようになる。

 今日の日本の科学を支える社会的・物的条件はほぼ1960年前後に確立されたといえる。江崎玲於奈(れおな)のトンネルダイオードエサキダイオード)の研究(1973年ノーベル物理学賞受賞)はそうした状況を反映した形で、当時の新興企業ソニーで行われた(1957~1958)。1960年代前半には、とくに技術研究の主導性は質的・量的両面において大学・国公立研究機関から企業研究所に移る。

[荒川 泓]

素粒子論

素粒子論分野は敗戦時以前に高い水準の業績を集積しており、1946年から発行された『Progress of Theoretical Physics』誌によってそれらの業績(坂田昌一らの二中間子論、朝永振一郎の43年論文など)は世界に知られた。木庭(こば)二郎(1915―1973)・朝永のくりこみ理論も1948年に同誌に掲載され、1949年の湯川のノーベル物理学賞受賞と相まって日本の素粒子論の名を高からしめた(朝永は1965年ノーベル物理学賞受賞)。宇宙線観測は1950年代に入って開始され、このころから世界的に多数の新粒子が発見され始め、中野董夫(ただお)(1926―2004)、西島和彦は、新量子数(ストレンジネス)を導入して、中野‐西島‐ゲルマンの規則を与えた(1953)。これをもとに坂田は素粒子複合模型を提案(1956)、これはSU(3)対称性の理論を経て、ゲルマン‐ツワイクのクォーク模型(1964)へと発展する。一方、南部陽一郎は物性論における超伝導理論をグリーン関数により、場の量子論的に再定式化し(1960)、フェルミ場の系に適用した(南部‐Jona-Lasinio(イオナラシニオ)の理論・1961)。これを契機に場の量子論は新しい局面に入り今日に至る。

[荒川 泓]

統計力学

量子力学とともに現代物理学の基本的手法となる統計力学分野での戦後における主要な課題は非平衡統計力学・熱力学理論の建設である。久保亮五(りょうご)の線型応答理論(1957)、森肇(もりはじめ)(1926―2011)の揺動力の理論(1965)は世界のこの分野の発展に一つの基軸を与えるものとなっている。また松原武生(たけお)(1921―2014)は温度グリーン関数の方法を初めて提起し(1955)、川崎恭治(きょうじ)(1930― )らによる臨界現象のモード・カップリング理論の展開(1966、1972)も注目される。

[荒川 泓]

固体物性論

固体物性論は、第二次世界大戦後著しい発展を遂げ、半導体物性論など戦後技術発展の柱となるエレクトロニクス・コンピュータ技術の土台としての役割をもつものとなった。エサキダイオードはその代表的なものの一つである。磁性物理を研究し反強磁性共鳴理論(1951)などの業績をもつ永宮健夫(ながみやたけお)の日本における固体物理の理論指導者・組織者としての役割は大きかった。1960年代なかばごろまでに核・電子スピン磁気共鳴(NMR、ESR)、メスバウアー効果、中性子回折など新しい実験手段が確立され、広く適用されるようになる。1950年代のエサキダイオードの発見に対比して1960年代を代表する業績をあげるとすれば、近藤淳(じゅん)(1930―2022)による磁性稀薄(きはく)合金に関する近藤効果の発見(1964)となろう。本多光太郎に始まる日本の磁性物理は、固体物性論のなかでも独自の位置を占めて今日に至っている。

 コンピュータ開発に向けての初期段階における日本の貢献として、高橋秀俊(ひでとし)(1915―1985)、後藤英一(1931―2005)らによるパラメトロン計算機の開発がある(1954年、後藤は非線形素子パラメトロンの製作に成功)。パラメトロンはスピードの点でトランジスタに劣ったため、結局、IBMのトランジスタ計算機が世界に広がったが、この開発が日本のコンピュータ技術の出発点となり、今日、質量ともアメリカに次ぐ位置を占める状況をつくりだす素地となった。

[荒川 泓]

化学

化学分野の研究は、基礎と応用・開発が一体となる面が強い。1948年、日本化学会・工業化学会は合同して日本化学会として出発、2003年(平成15)現在会員数は約3万6000人である(日本物理学会は約2万人)。第二次世界大戦後の化学分野の進歩の最大の特徴は、石油化学・高分子化学・生化学分野の確立・発展である。戦前の1930年代末以降、すでに桜田一郎らによるポリビニルアルコール系合成繊維の発明、また東洋レーヨン社(現、東レ)におけるナイロン合成・製造研究などの成果があり、国内の戦後の高分子化学・技術発展の基礎となった。1951年には高分子学会が設立され、会員数1万2000人を超える規模の学会に成長する。1955年ごろからナフサを分解してエチレンを取り出すナフサセンター中心の巨大な石油化学コンビナート群へと化学工業の様相は一変する。国内のエチレン生産量は、ゼロから出発して30年後には、世界全体の生産量5300万トンの約12%を占めるに至った(第1位のアメリカは約30%)。1960年代以降、石油化学・高分子化学製品の急増は国民生活を大きく変えた。同時にそれは、資本主義生産、とくに日本資本主義における生産の無政府的拡大を通じて、公害問題を一斉に引き起こすものとなる。日本の公害問題は、後進日本資本主義特有の「伝統的」課題と、戦後急成長期の資本主義一般の課題とが重なって顕在化する。

[荒川 泓]

総合的な発展

1940~1950年代の高分子科学の確立とともに、タンパク質、生体高分子を対象とする科学が発展する。これはたとえば有機化学の赤堀四郎、生化学の江上不二夫、生物物理化学の渡辺格(いたる)(1916―2007)、分子構造理論の小谷(こたに)正雄(1906―1993)、生物物理の江橋節郎(せつろう)(1922―2006)ら諸分野・諸研究者の協力により、分子生物学、生物物理から生命科学へと展開されている。なお、1970年代以降の分子生物学、免疫化学の展開の流れのなかで、利根川進(とねがわすすむ)は「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」の業績で、1987年ノーベル医学生理学賞を受賞した。

 宇宙物理学の発展もまた、戦後における総合的発展の例である。林忠四郎(ちゅうしろう)の核反応と恒星進化(林フェーズなど)、小田稔のX線天文学など優れた業績が出ている。

 総合化という今日の学問の発展における第一の特徴とともに、手段の側面に着目するとき、諸科学の物理科学化という傾向が第二の特徴として現れる。X線、ESR、NMR、質量分析などのスペクトロスコピー的実験手段は、化学・生物学・医学などへ全面的に普及しつつある。物理科学化と並行して数量化の傾向が進むが、その中心は大型計算機の普及である。とくにシステム工学などにおけるシミュレーション、核物理、量子化学などの研究は大型計算機なくしては考えられない。量子化学の発展は近年著しいが、福井謙一のフロンティア電子理論(1952)は戦後日本におけるこの分野の発展の先駆となった(1981年ノーベル化学賞受賞)。生物学においても集団遺伝学などの領域で数学の応用が広がっている。その気運のなかで、遺伝学分野における注目すべき成果として、木村資生(もとお)(1924―1994)の分子進化中立説の提起がある(1968)。

 第二次世界大戦後の数学の発展のなかでは、前述した人々の戦後の業績に加えて、とくに彌永昌吉門下の小平邦彦(こだいらくにひこ)・河田敬義(ゆきよし)(1916―1993)・岩沢健吉(1917―1998)らの多面的業績、また秋月康夫が中心になっての京都大学グループの代数幾何学分野、そこから出た広中平祐(へいすけ)らの活躍が目だつ。

[荒川 泓]

現況

1970年代に建設が開始された「筑波研究学園都市(つくばけんきゅうがくえんとし)」は、その基盤整備を1998年(平成10)にほぼ完成した。施設の一つである高エネルギー物理学研究所(1997年4月、高エネルギー加速器研究機構に改称)では、陽子シンクロトロンで陽子を8GeV(80億電子ボルト)に加速することに成功(1976)。さらに1986年(昭和61)電子と陽電子を25.5GeVまで加速して衝突させる実験に成功し、1994年(平成6)には物理学の基本問題の一つである「CP対称性の破れ」を検証する意図で実験施設Bファクトリーの建設が開始され、世紀交替期には実験が始まった。

 今日、日本全体の研究者総数は約75万7000人(大学28万1000人、企業43万1000人、公的機関3万4000人、非営利団体1万1000人、2003年)に達する。明治開国以来、1世紀ばかりの間に日本の科学が一つの巨大な社会制度として確立された姿をここにみることができる。20世紀末から21世紀にかけて、化学分野では、2000年(平成12)導電性高分子に関する研究で白川英樹、2001年キラル触媒による不斉(ふせい)水素化反応の研究で野依良治(のよりりょうじ)、2002年タンパク質分子の質量分析技術の開発で田中耕一とノーベル賞受賞が相次いだ。物理分野でも、2002年小柴昌俊(こしばまさとし)がカミオカンデⅡ検出器による超新星爆発ニュートリノバースト検出成功(1987)およびニュートリノ天文学への貢献でノーベル物理学賞を受賞している。これらは、文字通り、以上の社会の全体的状況の反映である。

[荒川 泓]

いくつかの問題点

前述の筑波研究学園都市の出現は、日本の科学の将来に対していくつかの重要な問題を提起した。第一に、筑波における研究機関集中の最大の問題は、それが科学研究発展のうえでの内的必然性に基づいて遂行されたのではなく、国家の管理・統制の側面の要求から行われたということである。政府・独占資本は、そこにある程度の集中的な資本投入を行うことによって「効率的」に日本の科学・技術をコントロールしようとしている。その意味で国家独占資本主義の下での「合理化」という、政府の科学・技術政策の本質が貫徹されている。第二に、以上の政府の意図は、科学・技術の発展を跛行(はこう)的なものとしてしまう。そこに集められた研究者数は一つの単位としてみれば大きいが、なお日本全体の2%であり、しかもそれ自体、種々に性格の異なったものの寄せ集めにすぎない。したがって、これをもって全体を規定することはできない。結局、政府・独占資本の科学・技術政策を宣伝する目的での見かけの「科学ショールーム」的な役割を負わされ、一見、新しい装置を並べることで研究を宣伝する場となりつつある。科学の進歩が、帰するところ研究者個人の創意にあるという基本からすれば、全体を基礎から積み上げる努力なしには真の発展はありえない。今日、その人の面では人員削減が進められ、若い研究者が相対的に減りつつある。そこでは人と研究手段のバランスが失われつつある。第三に、国家権力の意思により集中形成された筑波研究学園都市のような形態は、「組織された科学の危険性」に対して弱いという点が強調されなければならない。組織された科学の危険性の史上最大の事例が原爆開発計画であったことを銘記すべきである。

 核兵器、原子力発電、環境問題は、科学・技術の発展と社会とのかかわりについて全国民的関心を呼び起こした。そこから現れるニヒリズムを克服しつつ、人類のものとしての科学・技術を発展させていくためには、その発展を歴史的カテゴリーとしての人間の生産活動の観点から正しくとらえる必要がある。原子力発電の問題では、エネルギー問題が日本資本主義のアキレス腱(けん)なるがゆえに、とかくその無原則的ないし必要悪的容認に傾きがちな社会風潮に対して、科学者・技術者が明確な態度をとることが今日ほど強く要求されている時代はない。たとえば超歴史的タイムスケールの半減期(プルトニウム239の場合、2万4100年)というような技術的コントロール不能の要因を含むこのエネルギー技術は、技術史的にみて最低の選択であることは疑いのないところであろう。

 科学者にとっても、その科学・技術の発展を支え、成果を受け取る国民の側にとっても、今日ほどトータルな歴史的視点が要求されている時代はないであろう。日本の科学・技術の歴史は、後進資本主義国が先進国の一角に食い込み、位置を占めていく矛盾を含んだ過程そのものである。一定の成熟段階に入りつつある日本の科学・技術は、今日その歴史の新しい入口にたっている。

[荒川 泓]

『日本科学史学会編『日本科学技術史大系』全25巻(1964~1970・第一法規出版)』『杉本勲編『体系日本史叢書19 科学史』(1967・山川出版社)』『日本化学会編『日本の化学百年史――化学と化学工業の歩み』(1978・東京化学同人)』『日本物理学会編『日本の物理学史』上下(1978・東海大学出版会)』『湯浅光朝著『日本の科学技術100年史』上下(1980~1984・中央公論社)』『杉本勲著『近世日本の学術――実学の展開を中心に』(1982・法政大学出版局)』『「日本の数学100年史」編集委員会編『日本の数学100年史』上下(1983~1984・岩波書店)』『永原慶二他編『講座・日本技術の社会史』全8巻・別巻(1983~1986・日本評論社)』『中山茂・石山洋著『科学史研究入門』(1987・東京大学出版会)』『伊東俊太郎・村上陽一郎編『講座科学史4 日本科学史の射程』(1989・培風館)』『加藤周一他編『日本近代思想大系14 科学と技術』(1989・岩波書店)』『荒川泓著『日本の技術発展再考』(1991・海鳴社)』『中山茂著『近世日本の科学思想』(1993・講談社)』『中山茂・吉岡斉編著『戦後科学技術の社会史』(1994・朝日新聞社)』『杉山滋郎著『日本の近代科学史』(1994・朝倉書店)』『中山茂他編『「通史」日本の科学技術』全5巻・別巻(1995~1999・学陽書房)』『荒川泓著『エネルギー・3つの鍵――経済・技術・環境と2030年への展望』(1996・北海道大学図書刊行会)』『連合国最高司令官総司令部編、中山茂解説、笹本征男訳『GHQ日本占領史 第51巻――日本の科学技術の再編』(2000・日本図書センター)』『中岡哲郎編著『戦後日本の技術形成――模倣か創造か』(2002・日本経済評論社)』『山本義彦著『近代日本資本主義史研究』(2002・ミネルヴァ書房)』『ボーエン・C・ディーズ著、笹本征男訳『占領軍の科学技術基礎づくり――占領下日本1945~1952』(2003・河出書房新社)』『広重徹著『科学の社会史』上下(岩波現代文庫)』『三上義夫著『文化史上より見たる日本の数学』(岩波文庫)』『吉田光邦著『江戸の科学者たち』(社会思想社・現代教養文庫)』『吉田光邦著『日本科学史』(講談社学術文庫)』『中山茂著『科学技術の戦後史』(岩波新書)』『田中三彦著『原発はなぜ危険か――元設計技師の証言』(岩波新書)』『高橋輝和著『シーボルトと宇田川榕菴――江戸蘭学交遊記』(平凡社新書)』


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