改訂新版 世界大百科事典 の解説
セミ・ドキュメンタリー映画 (セミドキュメンタリーえいが)
semi-documentary film
第2次世界大戦直後に大流行したアメリカの記録映画タッチの作品群に対する名称で,命名者はルイ・ド・ロシュモントLouis de Rochemont。第2次大戦中,雑誌《タイム》の製作・提供で,記録映画やニュース映画を再編集した時事解説用ドキュメント・シリーズ〈ザ・マーチ・オブ・タイム〉を作っていたロシュモントは,戦後映画界に入ると,この経験を生かして,記録映画と劇映画を融合する形式を考え,製作に乗り出した。ハリウッドの劇映画はだいたいにおいてセットで撮影されており,場面が街路や野外であっても,ほとんどセットを組んでいたが,ロシュモントは,実話に取材すること,ロケーションを主とし,しかもロケ地は事件が実際に起きた現場で行うこと,スター・システムを避け,無名の俳優や素人を起用してリアリティを高めることを鉄則とし,撮影法,編集法を記録映画に近づけるという意味で〈セミ・ドキュメンタリー〉と呼んだ。その最初の作品がドイツのスパイとFBIにバックアップされた逆スパイの戦い,情報合戦を描くヘンリー・ハザウェー監督の《Gメン対間諜》(1945)で,特定の家に出入りする人物たちを隠しカメラで撮ったような画面が実感と迫力十分で新鮮な印象を与え,以来このスタイルが1940年代後半に大流行をもたらした。エリア・カザン監督の《影なき殺人》(1947),ヘンリー・ハザウェー監督の《出獄》(1948)はいずれも犯罪容疑者の無実立証までの社会派ドラマであり,そうした頂点がジュールス・ダッシン監督の《裸の町》(1948)で,ニューヨークでオール・ロケされた。徹底的な盗み撮りで撮られた大都会の街頭は,セットやエキストラでは得られぬ生命力と現実感をもち,最後に追いつめられた犯人が橋の頂上に逃げのぼり,はるか脚下のテニスコートに遊ぶ人々が視界に入るカットの生々しさは,セミ・ドキュメンタリーの方法が単なる奇をてらった際物ではない可能性を示し,世界の映画に大きな影響を与えた。しかし,その後,物価の上昇や経費節減の影響で,ロケーション撮影は劇映画の常識となって,とくに珍しい手法ではなくなり,〈セミ・ドキュメンタリー〉の呼称も用いられなくなった。劇映画のリアリズム指向がもはやこうしたジャンルの区別を必要としなくなったのである。
執筆者:岡田 英美子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報