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ベトナムの王朝(1428~1789)。レ朝とも。前黎朝(981~1009)に対し後黎朝ともいう。陳(チャン)朝の滅亡(1400)に乗じて侵攻した明(みん)国の支配に抵抗し藍山(ラムソン)に蜂起(ほうき)した黎利(レ・ロイ)が、10年にわたる独立戦争を戦い明軍を撤退して創立した。簒奪(さんだつ)による中断期を挟んで前後27代356年間存続した。黎利(太祖)は国号を大越(だいえつ)(ダイベト)と号し昇竜(タンロン、現ハノイ)を東京(ドンキン)とよんで都に定め、陳朝の諸制度を復活したが、4代聖宗(在位1460~97)の洪徳(こうとく)年間に至って明制を採用した官制が整い、儒教の振興によって漢字文化が発展するとともに中央集権体制の強化によって内政が充実した。一方、外にはチャンパに遠征してその王国領北部を割譲させるなど黎朝は最盛期を迎えた。16世紀に入って帝権が揺らぎ、恭帝のときに太師莫登庸(ばくとうよう)(マク・ダンズン)の簒奪にあった(1526)が、のち阮淦(げんきん)(グエン・キム)が荘宗を擁立して莫朝と戦い、莫氏を北方に駆逐して黎朝の中興を果たした。しかしやがて朝廷の実権は太師鄭検(ていけん)(チン・キエム)に帰し、以後歴代の黎帝は位を保つだけとなった。17世紀以降は、南方に勢力を張った阮氏と鄭氏の対立が激しく、チユア(領主)とよばれ王を称した阮(グエン)・鄭2氏の抗争によってベトナムは事実上南北二つの王国に分裂した。1771年阮氏領南部に西山(タイソン)党の乱が起こり、鄭氏は西山党と呼応して阮氏を滅ぼした(1775)が、86年には北上した西山軍によって鄭氏も滅ぼされた。西山党はいったん黎帝を尊立したが、昭統帝の要請によって入関した清(しん)国軍を撃退し、同時に昭統帝を清国に亡命させたため黎朝は滅亡した。
[川本邦衛]
1428~1789
ベトナムの王朝。明軍を撃退して黎利(レー・ロイ)が建国。小中華型国家体制を整え,15世紀後半にはチャンパーを圧倒,ラオスにも進出したが,16世紀には内乱が起こり,1527年に莫(マク)氏に位を奪われた。5年後に復活し内戦の末1592年に首都ハノイを奪還したが,実権は武将鄭(チン)氏にあり,南方では阮(グエン)氏が分立した。西山(タイソン)の乱で滅亡。
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…ベトナムの王朝。レ(黎)朝と呼ばれる王朝には前レ朝(980‐1009),後レ朝(1428‐1789)の2王朝があるが,一般には後レ朝をさす。 15世紀初め,ベトナムは中国明朝の支配下にあったが,タインホア地方の土豪レ・ロイ(黎利)は1418年に反明ゲリラ戦を起こし,27年ハノイを占領して明軍を駆逐,翌年に国号をダイベト(大越),年号を順天とする新王朝を開いた。レ・ロイは31年に明との国交を修復し,権署安南国事に封ぜられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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