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ベトナムの最後の王朝。18世紀末黎(れい)朝(レ朝)を滅ぼした西山党(タイソン党)の革命政権と対抗した阮福映(グエン・フク・アイン)が1802年に国内を統一して年号を嘉隆(かりゅう)と定めたのち、国号を越南(ベトナム)と改め、06年に皇帝(世祖嘉隆帝)に即位して創立した。嘉隆(ザロン)帝は黎朝の旧制を尊重しながら土地制度を一新し、新法典を発布するなど、漸進的に専制君主体制への改革を試みたが、その後を継いだ聖祖明命(ミンマン)帝は清(しん)国の諸制度を採用し、儒教を政治の理念として専制体制を確立し、ラオスやカンボジアを保護領にしてベトナム史上最大の版図をつくりあげ、国号も大南に改めた。第3代紹治(テイエウチ)帝、第4代嗣徳(ツードック)帝も中国風の文事を重んじて明命帝の政治を引き継いだが、明命期以後のキリスト教布教に対する迫害によってフランスに侵略の口実を与え、1858年にフランス・スペイン連合軍の武力侵略を招いた。その結果62年に結ばれた第一サイゴン条約で南部東三省などを、また73年のフランス軍による北部侵略の結果締結された第二サイゴン条約で南部六省のすべてを、フランス領植民地として割譲した。さらに83年、84年の第一、第二フエ(ユエ)条約によって、阮朝はフランスの保護王朝となり、清仏(しんふつ)戦争の結果清国がその宗主権を放棄した。その後、87年のフランス領インドシナ連邦の成立と同時に領土が3地方に分割され、それぞれが異なる方式で連邦に含まれたが、阮朝(グエン朝)は中部地方(アンナム)における形だけの王朝としてフランスの支配を受けた。第二次世界大戦中、日本軍の駐留を背景にフランスとの不平等条約の廃棄を宣言して日本に頼ったが、日本の敗戦と同時に起きた八月革命による社会主義政権の誕生によって滅亡した。
[川本邦衛]
1802~1945
ベトナム最後の王朝。阮福暎(グエン・フック・アイン)が,西山(タイソン)朝を倒して建国。中国国境からシャム湾岸までの空間を初めて統一的に支配した。2代明命(ミンマン)帝(在位1820~41)の時代に中央集権化を推進。清朝の制度を参照して,科挙制度の整備,全国一律の地方制度(省制度)の確立,中央における機構改革などを行った。嗣徳(トゥドゥック)帝(在位1847~83)の時代に,フランスの侵略が始まり南部を喪失。84年に中部,北部も保護国となった。1945年の八月革命で最後の皇帝バオダイ帝が退位した。
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…1802‐1945年,フエに都したベトナム最後の王朝(図)。阮朝とも書く。17世紀以来,ベトナムは中南部のグエン(阮)氏(クアンナム朝)と北部のレ(黎),チン(鄭)氏に分裂していたが,タイソン・グエン(西山阮)氏が興って1777年グエン氏を,86年レ,チン政権を滅ぼして全土を統一した(タイソン党革命)。…
※「阮朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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