日本大百科全書(ニッポニカ) 「トイトブルクの戦い」の意味・わかりやすい解説
トイトブルクの戦い
といとぶるくのたたかい
古代ローマ帝国のゲルマニア地方征服の野望を、ゲルマン人が挫折(ざせつ)させた紀元後9年の戦い。アウグストゥス帝は、ドルススの遠征(前12~前9)以来、一貫してライン川以東エルベ川に至るゲルマニア西部の併合を推し進めていたが、9年、ケルスキCherusci人の有力者アルミニウスに率いられたゲルマン諸族は、トイトブルクTeutoburgの森において、冬営地へ移動中のウァルスVarus指揮下のローマ軍3軍団を奇襲、全滅させ、この計画を頓挫(とんざ)させた。戦場のトイトブルクは、エムス川上流とウェーゼル川中流の間のどこかであるが、正確な位置は不明である。3軍団全滅の報に接したアウグストゥス帝が、「ウァルスよ、余の軍団を返せ」と悲嘆したことは有名。
ゲルマン諸族は、この後、ティベリウス帝時代のゲルマニクス指揮下のローマ軍再侵入(後15~16)をも食い止め、さらにローマのゲルマニア征服に足掛りを提供していた親ローマ的なマルコマンニMarcomanni人のマロボドゥウスMaroboduusの王国をも崩壊させ、ここにゲルマニアは全体としてローマ支配の外にたつこととなった。それゆえ、トイトブルクの戦いは、前3世紀以来拡大を続けてきたローマが初めて守勢に転じていく転回点にあたるともいわれるが、ローマ支配の拡大・縮小の全史のなかにこの戦いを正しく位置づけるためには、単にローマ支配者の戦略構想を復原するだけではなく、他方、ゲルマニア社会の発展の方向と、そのなかでのアルミニウス、マロボドゥウスらの権力基盤の性格を知ることが不可欠の前提である。
[栗田伸子]