改訂新版 世界大百科事典 「ト書き」の意味・わかりやすい解説
ト書き (とがき)
演劇用語。戯曲のなかで,せりふ以外の,主として登場人物の動作や行動を指示する部分のことをいう。場合によっては,時代,場所,日時の指定,舞台の装置や効果の説明も含むことがある。英語のステージ・ディレクションstage direction(舞台指示),ドイツ語のレギーアンバイズングRegieanweisung(演出指示)がほぼこれに当たる。ト書きという言葉は,歌舞伎脚本などでせりふの後に〈ト思い入れあって〉と必ず〈ト〉を添えて書きこまれたことからきた言葉である。
ヨーロッパの中世宗教劇で,役者の動きだけを指示した巻物が残されている例はあるが,近世までト書きは一般的でなく,シェークスピア劇のト書きも後から書きこまれたものである。概して古典劇のト書きは簡略だが,啓蒙主義時代の写実劇あたりから,ト書きはしだいに精密になり,せりふがなくても登場人物の動きで心理的なものを表現する機能が認められるようになった。ト書きが最も詳細になったのは自然主義の時代であり,人物の外見の描写が詳しいのは,観察に重点がおかれたためである。19世紀の終りに小劇場運動が生まれると,演技者の細かい動作に,心理的な背景まで表出させる可能性が大きくなったために,ト書きにはせりふの補助手段以上の意味が与えられることになった。しかしディテールにこだわる些細主義(トリビアリズム)に対する反省から,現在ではそれほど精密なト書きは書かれない。ト書きは,たしかに作者の意図を誤解なく伝えるために必要だが,あまり詳細になると,かえって(作者以外の)演劇の創造者の想像力を規定し,解釈や受容のパースペクティブを狭めるという反面をもっている。
執筆者:岩淵 達治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報