デジタル大辞泉
「想像力」の意味・読み・例文・類語
そうぞう‐りょく〔サウザウ‐〕【想像力】
1 想像する能力や、心の働き。「想像力を働かせる」
2 カント哲学で、感性と悟性という二つの異質な能力を媒介する能力。構想力。
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そうぞう‐りょくサウザウ‥【想像力】
- 〘 名詞 〙 想像する能力。想像する心のはたらき。
- [初出の実例]「夢遊病の原因、近因は想像力と外識と睡中に発動するなり」(出典:扶氏経験遺訓(1842)九)
- 「余程独創的な想像力がないと」(出典:吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉五)
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そうぞうりょく
想像力
imagination
想像力(イマジネーション)とは目には見えないものを思い浮かべる能力のことである。人は目で見,耳で聞き,手で触れる現実のほかに,想像力で作り出した世界を自分の現実にすることができる。今,目の前で起こっていることは見たり,聞いたりすることによって,また過去の出来事も記憶をよび起こすことによって知ることができる。しかし,まだ見ぬ明日は,単に五感を働かせ体験を再現するだけでは思い描くことはできない。未来についての表象を作り出すことが,想像力の働きの最も重要な側面である。未来を思い描く素材として,われわれは経験experienceを利用している。しかし,想像は経験に基づいているが,経験そのものではない。経験が加工されるときに何か新しいものが付け加わる。経験は再現される文脈に合うように再構成され,姿を変える。ここに,新しいものが生み出される可能性がある。経験を「不正確に」再現し,再構成する過程で新たな創造の可能性が開かれるのである。
想像力はわれわれの意識を現実世界から精神世界へ誘うものである。現実世界が極限状況であるときは,その厳しさをまともに受けとめなくても済むように,現実回避を可能にしてくれる。オーストラリアの精神医学者フランクルFrankl,V.E.は,第2次世界大戦中アウシュビッツの強制収容所に収容されたが,奇跡的にも生き延びることができた。人間は極限状況の中では残忍で,忌まわしい人間の原始性を示す。未来を意識したとき,直接感覚に訴えてくる現在から離れるような精神活動が活発になる。フランクルによると,人は極限状況にあってもなお未来を意識し想像力を働かせることができる。また,そうやって現実を回避できた者だけが精神の浄福を保ちつづけ,生きる力が与えられたという。人はパンのみにて生きるのではない。厳しい収容所生活で生きる目標と希望をフランクルに与えたのは,パンではなくて,人間の精神の基本的な営みである想像力であった。
しかし,想像力にはこのような肯定的な面ばかりではなく,否定的な面もある。想像力を行使した結果,デマを流布して人びとの認識を誤らせたり,武器開発が人間の生命を脅やかすことすらある。しかし,この否定的な結果も予見し,評価して,ある決断をくだすときにメタ的想像力(後述)がかかわる。想像力を働かせた結果をメタ的想像力によって吟味し,未来に向かって進むことができる。
【象徴機能の発生】 象徴機能symbolic functionとは,実在物の表象representation(日常語では「イメージ」)を生み出し,操作する精神機能を指す。想像力は象徴機能が発生するのと軌を一にして出現する。乳児期の終わり(10ヵ月~1歳ころ)には,子どもは目で見,耳で聞く現在の世界だけでなく,自分自身で経験を頭の中に表象として再現し,思い描くことができるようになる。小石を食べ物に見立て,積み木を自動車に見立てて遊ぶ見立て遊びや,ドレッサーの前で母親の手のしぐさを思い出して髪をとく延滞模倣delayed imitation(モデルは目の前にない。目の前のモデルをまねる模倣は即時模倣real time imitationとよぶ)は,頭の中に過去の経験についてのイメージを描くことができるようになったことの証である。小石は食べ物の,しぐさはお母さんのしぐさの代用として使われている。乳児が積み木を自動車に見立てて,「ブーブー」という音声を発しながら遊んでいるときには,子どもの頭の中には,かつて自分が見たり,乗ったりした自動車のイメージが浮かんでいる。音声や積み木は自動車の代用品であり,自動車という指示対象を「意味するもの」,すなわちシンボルsymbol(象徴)である。自動車は「意味されるもの」であり,これらは頭の中のイメージに媒介されて結びつけられている。シンボルは言語を含め,記号や事物,動作などが含まれる。シンボルには次の特徴がある。⑴意味するもの(積み木)と意味されるもの(自動車)の間にはなんら関係はない。⑵意味し,意味されるものの関係は,本人が恣意的に作り出したものである。⑶意味されるものが眼前になくても,意味するものを使って意味されるものを自由に操作できるようになる。言語はシンボルの中で最も洗練されたものであり,特殊なものである。他のシンボルとの相違は,言語は恣意的に意味を表わすのではなく,同じ言語圏に属する者たちの協約性に基づいて意味が共有されている。シンボルをもつようになると,シンボルの形式でものを考え,自分(たち)の行動を組織化できるようになるのである。
【創造的想像のメカニズム】 想像力は言語的なもの,非言語的なものを含めて,多種多様なシンボルをまとめあげる働きをも意味している。アリエティArieti,S.は『創造力』(1980)の中で「想像力は,いくつかの象徴機能を,意識の覚醒状態で,ことさらこれらの機能を統合しようとせずに産出したりする精神の能力」としている。すなわち想像力は象徴機能の働きを統合し,複合する働きだということになる。想像力は認識の営みのすべて――知覚,表象の構成,想起,思考,推理――の過程に絡むようになるのである。
想像力と思考力の関係について図に示す。思考thinkingには収束的思考convergent thinkingと拡散的思考divergent thinkingとがある。収束的思考は解が一つ,解に至る道筋も一つというようなタイプの思考で,日常語では暗記能力とよばれる。一方,拡散的思考は解が複数ありうるし,一つの解に至る道筋も一つとは限らないような思考を指している。これらが想像力である。どちらの場合も,表象を構成する素材となるのは既有知識や経験である。反省的思考reflective thinkingによって知識や経験を回顧し,類推によってとくに印象の強い断片が取り出され,因果推論の働きにより現実の文脈と整合性のある表象の全体が構成される。頭の中に構成された表象は,含まれる創造の量の相対的な違いにより,再生的表象か創造的表象となる。さらに,頭の中に形成されたての表象は,印象の断片が顕著で細部は曖昧であるが,ことばや身体,描画などの表現手段を使って,表現媒体特有のシンボルの諸形式である文法にのっとり,表象の細部までが明細になり,談話やダンス・絵画などの具体的表現となって,自己にとってのみならず,他者からも目に見える形へと外化される。
【連想のモメント―類推】 類推analogyは,既有の知識や経験の中の印象の強い断片を取り出して,目の前の新奇事象との差異と共通性を弁別して関連づける働きである。類推は私たちが住む世界について知覚し考えるための方法である。幼児は日常生活を通して人間についての豊かな知識を構成しており,類推の一形式である擬人化によって知的に洗練された推論ができる(稲垣佳世子,1995)。5歳児にウサギの絵カードを見せて,「ウサギの赤ちゃんをこのままの大きさにしておくことができるかしら」と尋ねたところ,「できないよ。だって僕みたくさ,僕がウサギだったらさ,5歳になってだんだん大きくなっちゃう」と答えている。このように人間になぞらえて答えた場合は,もっともらしい予測に到達することが多かったという。類推による推論は,おそらく知的な問題に対する最も豊かな仮説の源泉となる。子どももおとなも,科学者や詩人まで類推によって知識を獲得し,問題を解決し,発見や創造を行なっている(Holyoak,K., & Thagard,P.,1995)。
類推の働きがなければ語彙も獲得はできない。たとえば,前に見たことのない対象を見たとき,椅子とよぶためには,かつて椅子とよんだ一連の対象についての知識と,目の前の対象の知覚的・機能的な類似性に気づき,関係づけができなくてはならない。いったん椅子という名前を付けたら,その対象は椅子のカテゴリーのメンバーとみなし,椅子カテゴリーの他の椅子に対するのと同様にふるまうことができるようになる。また,海岸で初めてウニを見つけた2歳児が,「ボール」と指差したが,拾おうとはしなかった。このように,子どもは生活の中で絶えず類推し,未知のものを自分なりに意味づけ,名前を付け,カテゴリー分けをしていることを示している。子どももおとなも初めて出会ったものを,「これ○○みたい」と自分のよく知っている○○にたとえる。われわれはよく知っていることに引きつけて理解する。われわれの心はつねに,入ってくる情報が既有知識や経験とどう関連づけられるのか,どんな類推が可能かということに注意を払っているのである。
【表現としての比喩】 類推の修辞的形式は比喩である。比喩とは一般に「時は金なり」(隠喩metaphor)や「雲は煙みたいだ」(直喩simile)のように,あるものXをそれとなんらかの点で類似してはいるが異なるカテゴリーに属するYにたとえることである。類推の修辞的形式を用いることによって,われわれはYについてすでによく知っている特徴やふるまい方をXに対しても当てはめることができるようになるのである。
比喩には,⑴意味を拡張する,⑵潜在的な性質の一部を強調する,という二つの働きがある。⑴は,われわれが所有している乏しい語彙を活用して,複雑な現実を特徴づけることを可能にしてくれる。たとえば,理論はしばしば建物になぞらえられる。抽象的な理論を建物という馴染みの具体的なものに引き移すことによりわかりやすくなる。また,ことばの意味は比喩によって変容させられる。ことばは絶えず変化増殖を繰り返している。一方では死語になるものがあり,もう一方では新しく生成されるものもある。「舟を漕ぐ」「頭金」「机の足」など,元の意味を失った隠喩であふれている。ことばの意味は時代とともに変容する。緑,碧,翠などと書く「ミドリ」は,現代人にとっては色名であるが,古代には若芽を意味していたという。若芽の“つやつやした”の系統が「みどりの黒髪」へ,“生まれたばかりの”の系統が「みどりご」(生まれて間もない新生児)へと変容し,色名としての資格を得たのである。
⑵は,たしかに属性としては存在してはいるのだが,通常は注目されない側面に光を当てる。「言いえて妙」とか「たしかにそういうことがあるな」という実感が起こる。さらに言われてもなかなか気づかない場合もある。詩人エリオットEliot,T.S.(1917)の「夕暮れの静けさが空に垂れ込めている。まるで麻酔をかけられ,ぐったりと手術台に横たえられた患者のように」ということばはその良い例である。夕暮れを麻酔をかけられた患者とみなした経験のない人が,この比喩を知った後は,どんよりした夕暮れの静けさを見るたびに,ぐったりと手術台に横たわる麻酔をかけられた患者を連想してしまうのではあるまいか。詩人の豊かな想像力,すなわち卓越した比喩表現によって,新しい意味の世界が開かれるのである。
類推という推論の形式はことばのうえで比喩という修辞型式を生み出した。比喩はことばの意味を拡張する手段である。未知の事象を馴染みの領域に概念的に引き移すことによって知識を創造する手段なのである。
【想像力と創造性】 想像力と創造性はどのような関係にあるのであろうか。創造性creativityについては心理学の草創期に盛んに問題にされた。古典的だが代表的なものとして知られているのはウァラスWallas,G.(1926)の学説である。ウァラスは創造の過程が準備期,孵化期,啓示期,実証期の4期から構成されると唱えている。
1.準備期は,創造する人が問題の所在を明らかにしたり,それを解くための素材を収集したりという準備的な活動に従事する時期である。外的にもその活動は見えるものである。
2.孵化期は,準備期とアイデアを啓示される間の過程を指しており,準備期に集めた素材については心に抱いてはいても,特別な働きかけは行なわず,考えることを休止するように見える時期,いわゆる孵化,温めている段階である。外的には何も起こってはいないように見える。しかし,頭の中ではなんらかの活動が進行しているものと思われる。
3.啓示期は,創造する人間が最初の問題を解決できたと思うときを指す。
4.実証期は,その解に対して批判的に評価することによって,受け入れ可能な状態になる時期である。この時期に「アッハ(アハ)ach」という納得の感覚が伴われる。創造性を研究する多くの研究者たちは,以上の考えを受け入れ,それを継承するか,多少の修正を加える形で論を展開していることが多い。
創造性研究で名高いギルフォードGuilford,J.P.(1967)は,段階説とは異なる面,すなわち思考の働き方の質的相違という面から創造過程に切り込んでいる。彼は,創造性の最も重要な要素は創造につながる想像力,すなわち拡散的思考であると指摘した。拡散的思考は通常の規範や慣習で踏みならされた軌道から逸脱して,独創的な解決を求める思考の形式を指している。一方,ゲシュタルト学派は,過去の経験を適用する再生的思考と新しい解を創造する生産的思考を区別している。ウェルトハイマーWertheimer,M.(1945)は,生産的(=創造的)思考についてギルフォードとは正反対の特性を仮定している。彼は,創造の過程というものは,構造的に不安定な状況や不満足の状況から安定した状況への変化としてとらえた。不安定から安定への道程で,ギャップが埋められ,最も良いゲシュタルト(最も安定した構造的配置)がもたらされるのである。要素を整合性ある全体へと集合化・構造化・体制化することが創造の最も大事な過程となる。そのきっかけを与えるものがひらめき(インスピレーション)であり,それによって問題の構造が体制化され安定した構造が得られる。
創造過程を何段階に分化してとらえるかは人によって異なるが,その発想の源はウァラスの学説にあり,問題を解決するための準備期間があり,アイデアを温め,やがて解を得るという過程はどの論者にも共通している。
しかし,実際の創造過程では,各位相を一定の順序でたどるということはほとんど起こらない。たとえば,作文過程ではどのようにして新しいアイデアが生産されるのであろうか。まず,表現意図を具現化するためのことば探しが始まる。最初は漠然としていたアイデアは,ピッタリという感覚が生じることばにたどり着いたときに明確になる。作文過程では,自分が書きたかったアイデアが十分実現されているかどうかを評価し,もし「これは少し違うな」という感覚があれば,さらに具体的表現を探そうとする。アイデアの確認,表現の探索,表現の評価による納得などの過程は重畳し,絶えず循環して繰り返される。自分の書きたいことが文章全体の文脈に完全に収まったとき,納得し,ピッタリという感覚が湧くのである(内田伸子,1990)。
文章を読んで味わったり,詩や俳句を作るなど複雑な問題解決に従事しているときは,意味表象を生成し,推敲し,文章を整え磨く活動が起こる。この活動では,つねに無意識のうちに孵化過程が生じているものと思われる。自分のアイデアを限られた形式の中にことばでいかに収めるか,その過程でアイデア自身も明瞭になり,はっきりした形を取るようになるまでは意識化できないままでも,内的な評価規準(産出した文章は美しいか,的確かの評価規準)に照らしてモニタリング機能が働いている。
ジョンソン・レアードJohnson-Laird,P.N.(1993)は,主として次の三つの下位過程を想定している。まず,生成段階では新たなアイデアが完全にランダムに形成され,次に評価段階では,結果が一連の規準に沿って評価される。そして,三つ目に修正・実行段階が続く。必要とあれば,いくつかのアイデアのうちから恣意的な選択を行なうことになる。これらの段階は再帰的に繰り返されていく。新しいアイデアは規準に補助されつつ生成されるが,最初のうちは,創造の産物はまだ多くの問題点を残している。そこで,さらなる規準を適用してアイデアは繰り返し改訂され,再統合されていくと指摘した。このように,創造過程が再帰的に段階を繰り返し,かつ規準の適用が一度に行なわれないのは,人間の情報処理能力に限りがあるためであろう。また,規準の中には言語で説明可能なものもあるが,説明できないという特性も指摘されねばならない。アイデアの生成過程は,意識化されない規準によっても制御されているため,一度に全部を評価し尽くせるとは限らないからである。しかし,意識化された目標や現実との摺り合わせは重要である。
創造過程で重要なのは,孵化作用と啓示の位相である。現時点では,この孵化作用によって,人は意識しないうちにある安定した構造を求めて素材や要素を整合的に統合し,体制化が進行しており,アッハ体験(アハ体験)によって具象化され,頭の中に作り上げた整合的な表象が認識対象になりうるのである。こうして,想像は創造と軌を一つに進行しているのである。
【メタ的想像力meta-imagination】 創造的な想像力の負の面を浮き彫りにするには,武器開発という科学と発明の分野を例に取ればよい。たしかに,原子力の発明は新しいエネルギーをもたらし,人びとの生活を豊かにした。しかしその一方で,広島や長崎で被爆した人びと,チェルノブイリの事故による後遺症に苦しむ人びとなどの例を出すまでもなく,人類を地球規模で死に追いやる危険性をもたらしもした。自動車や道路計画の推進に一定の役割を果たした想像力は,その代償としての環境破壊と汚染を見通していたのであろうか。想像力には,新しいものを生み出す創造的なものと破壊的なものがある。破壊的想像力は次のような特質からいって,最終的には人間の生命を脅やかすものとなる。
ギフォードGifford,D.C.(1989)は想像力に含まれる可能性のある破壊的な面について,次のように指摘している。「破壊的想像力は,理性による議論を受けつけず,また,対をなす創造的想像力の声を聞き入れることもなく,自己増殖していく。もし,すべてを単純に黒と白(あるいはバラ色)に塗り分けたいという,抗しがたい通俗的欲求に惑わされたときには,恐れといつくしみの気持ちを込めて,シラーの名言を思い出すべきである。われわれはしばしばいわれのない恐怖に身を震わせることがある。が,真の恐怖をもたらすのは錯誤に陥った空想(偽りの想像力)なのである」
このことばで指摘されているように想像力のもつ否定的な側面は,また想像力によって再否定されうる。開発や進歩をめざしての活動に,人間の生存を脅やかす危険性があるかどうかを予測し,事前に地球規模での破壊が進行していることを思い描くのも,想像力によってである。この想像力は,想像力そのものの働きとその結果を対象化するという意味でメタ的想像力(内田,1986)とよばれている。メタ的想像力の働きなしでは,人の気持ちを共感的に受けとめることはできない。メタ的想像力が働くようになって初めて,想像力は人間の生存にとって不可欠の機能を果たしうるようになるのである。
〔内田 伸子〕
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想像力 (そうぞうりょく)
imagination
西洋の哲学思想の日本への最初の紹介者,西周は,ヘーブンJoseph Havenの《Mental Philosophy》(1857,第2版1869)を《心理学》(上・下巻,1875-79)として上梓するに当たり,〈従来有ル所ニ従フ〉訳語の一つとしてimaginationに〈想像〉をあてている。したがって,〈想像〉の語が日本でも古くから慣用されていたことが知られるが,しかしその語は,漢籍などでは〈旧故ヲ思イテ,以テ想像ス〉(《楚辞》)などと使われ,〈おもいやり〉や〈おしはかる〉ことを意味していたようである。それが,西周以来,初めて〈像〉(ラテン語でイマゴimago)の表象ないしその能力を意味するようになった。
こうした心的能力への注目は,西洋では古代ギリシアにまでさかのぼる。例えばアリストテレスは,感覚や理性的思考と並んで,〈表象phantasia〉の存在を認めていた。〈表象〉においては対象が現前しないから,それは感覚とは異なるが,またそれはいつでも自由に思い浮かべられるという点で,思考とも異なる。感覚や理性的思考がつねに真であるのに対して,〈表象〉は誤りうるという点でも,それらと区別された。しかし,われわれがそうした〈表象〉をもちうるのは,感覚に似たものが感覚器官に残留しているからだと説明されている(《霊魂論》)。アリストテレスは〈表象〉という語で,想像力に含まれる特有の諸契機を指摘していたわけであるが,以後そうした契機のどれを重視するかによって,さまざまな想像力論が展開されることになった。上述のヘーブンでは,想像が過去の単なる再現ではなく,〈精神自身の理想に従った,自身の意志と創意による〉再現だという,その創造性が強調されている。
近世においては,例えばデカルトは,想像力による数学的命題の証明を否認しながらも,それが純粋知性の洞察を形象的に直観化してくれるところから,想像力を知性の不可欠な補助手段とみなしている(《省察録》)。D.ヒュームも,〈想像のほとばしりほど理性にとって危険なものはない〉としながら,他方では〈想像力の一般的でより確定した特質〉が悟性にほかならないともいっている(《人性論》)。これらには,ともに,想像力に含まれる矛盾した諸契機を調停しようとする努力が見られる。同じようにして,想像力を〈盲目的ではあるが(認識にとって)不可欠な能力〉と規定し,それを哲学の中心に据えたのはカントである。例えば,われわれが立方体を知覚するとき,その全側面が一度に見えることはないから,それを1個の立方体として意識するためには,それらの側面が総合されなければならない。その総合の働きをカントは,想像力(〈構想力Einbildungskraft〉)による〈再生の総合〉と呼んだのである。それらの総合のためには,時間的に先に把捉された側面が,後の時点まで直観的に把持されていなければならないからである(《純粋理性批判》)。しかもカントによれば,こうした〈再生の総合〉がいつでも可能なのは,想像力が本来われわれの諸経験をア・プリオリに結合して1個の全体たらしめる〈超越論的総合〉の能力だからである。このようにしてカントは,想像力を,それによって総合されるべき〈多様なもの〉に関しては感性に依存しながら,その〈知性的な総合の統一〉に関しては悟性に依存するものと考え,そこに感性と悟性を媒介する基本的な働きを認めたのである。
これとほぼ同じ洞察を現象学的方法によってより厳密化したのが,サルトルである。彼によれば,例えばX氏の想像とは,われわれが自分の頭の中にあるX氏の像を見たりすることではなく,X氏その人に思いをはせることである。想像されるのは,知覚の対象と同じX氏なのである。その意味で,(1)想像は,現実の対象を意識する特定の働きでなければならない。(2)そのしかたとは,〈準観察〉的なかかわり方のことである。X氏を想像するとき,われわれはX氏の横顔を直接見ているように感ずるという意味で,想像は知覚に似ている。しかし知覚の場合には,われわれは彼をいろいろな視点から観察して,彼の横顔についての情報を増すことができる。想像においては,そのようなことは不可能であって,われわれはただ新たに別な想像を試みうるだけなのである。したがって,想像の対象がX氏の横顔だというのは,観察の結果わかったことではなく,われわれがそれを初めからX氏として想像し,そのように信じていたからである。その意味では,想像は一種の〈知〉である。このように,現実の対象に対して,それが感覚的対象であると同時に知的対象であるかのようにかかわるしかたが,〈準観察〉と呼ばれるのである。(3)そうした対象へのかかわり方は,また,想像がX氏を眼前には〈不在の〉人物として措定する働きであることにつながる。不在でありうるのはただ感覚的対象のみであるが,その不在性が,その対象に知的対象と同じ存在様態を与えるからである。以上のようにしてサルトルは,想像力を,現実の対象を一つの無として措定する意識の独特な〈志向作用〉と規定した(《想像的なもの》)。
ここで示唆されるのは,第1に,想像についての経験主義的研究の非現実性である。もし想像が,よくいわれるように,表象の鮮明度といったそのつどの条件によって知覚や記憶から相対的に区別されるのだとすれば,いっさいが相対化されるから,われわれは基準となるべきものの基準を求めるというふうにして無限後退に陥り,懐疑論者になるほかはない。その第2は,われわれの精神生活に果たす想像力の役割の重要さである。虚構と知りつつ,それに現実以上の真実性を認めるわれわれの芸術活動や,架空の観念を信じてそれにこだわり続けるときの異常な心理現象は,サルトルが分析したような想像力の逆説的構造からしか説明できないからである。
→イメージ →表象 →理性
執筆者:滝浦 静雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
想像力【そうぞうりょく】
英語imagination(ラテン語imago=像に由来)などの訳で,通常は想像(像を表象すること)の能力を意味するが,哲学上独自の意味を与えられることがある。カントでは〈構想力〉Einbildungskraftともいい,〈再生的構想力〉(普通の想像)と区別して〈生産的構想力〉を考えた。それは直観と思惟(しい)を媒介し,感性的経験を範疇(はんちゅう)(カテゴリー)によって総合する先験的能力を意味した。フィヒテでは,カント説から出発して,自我・非我の相互限定において自我が実体性をもちつつ非我による変容を受ける能力,あるいは自我が無限(実体性)と有限(属性)との間の動的統一を形成する力とされた。サルトルでは,想像力は原理上不在の対象を志向するものとして,現実を無化する働き,意識の非現実化する機能としてとらえられ,意識の自由の本質をなすものとされた。→イメージ/表象
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
想像力
そうぞうりょく
imagination
表象能力のこと。過去の像を再生する再生的想像力と,新しい像を生み出す創造的想像力に区別され,前者は記憶と区別されないことが多く,また後者は特に phantasiaの語をあてることも行われた。想像力について,アウグスチヌスは再生的,創造的,総合的の3者を区別した。デカルトは認識能力の肉体への適用であると説く。カントは経験的な再生的想像力のほかにア・プリオリ (→ア・プリオリとア・ポステリオリ ) な原理としての創造的想像力をたてた。サルトルは実存主義の立場から想像力を自由と関係づけて重視している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報