ハバード(読み)はばーど(その他表記)Freddie Hubbard

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハバード」の意味・わかりやすい解説

ハバード
はばーど
Freddie Hubbard
(1938―2008)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。インディアナポリスに生まれる。1957年、同郷のバンド、モンゴメリー・ブラザーズ(ギター奏者ウェス・モンゴメリー、ビブラホーン奏者バディ・モンゴメリーBuddy Montgomery(1930―2009)、ベース奏者モンク・モンゴメリーMonk Montgomery(1921―1982))のアルバム『ザ・モンゴメリー・ブラザーズ・アンド・ファイブ・アザーズ』で、サイドマンとして初レコーディングを経験する。当時はローカル・ミュージシャンとしてインディアナポリス周辺で演奏活動を行い、毎日曜日にはシカゴまで遠征し、同い年のトランペット奏者ブッカー・リトルBooker Little(1938―1961)の演奏を熱心に聴く。

 1958年ニューヨークに出て、1年以上アルト・サックス奏者エリック・ドルフィーと同居生活をする。1959年テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズ、およびリトルと共演する。1960年ドルフィーの初リーダー作『アウトワード・バウンド』のサイドマンを務め、直後に初リーダー作『オープン・セサミ』をブルーノート・レーベル録音。以後同レーベルにリーダーあるいはサイドマンとして大量の吹き込みを行い、ジャズ・シーンの注目を集める。同年アルト・サックス奏者オーネット・コールマンとドルフィーが共演した話題作『フリー・ジャズ』にもサイドマンとして参加する。1961年、ドラム奏者アート・ブレーキーの率いるジャズ・メッセンジャーズ入団。1964年に退団、ドルフィーのアルバム『アウト・トゥ・ランチ』に参加。このころよりいわゆる「ブルーノート新主流派」ミュージシャンの一員として、ピアノ奏者ハービー・ハンコックの作品『処女航海』(1965)などで新世代トランペッターとして重要な役割を演じる。

 1966年それまでの「フリー・ジャズにも共感を示す主流派路線」から大きく転換し、アトランティック・レーベルに「ジャズ・ロック」アルバム『バックラッシュ』を録音、大衆的人気を得る。その延長として1970年CTIレーベルに移籍しアルバム『レッド・クレイ』を録音。1970年代はいわゆるフュージョン・アルバムで大衆的人気を確実なものにするが、オーソドックスなジャズ・ファンからは若干距離をおいてみられる。

 1977年テナー・サックス奏者ウェイン・ショーター、ハンコックらとアコースティック・バンド、V. S. O. P.を企画。これは本来トランペット奏者マイルス・デービスを引退状態から引き戻すための試みだったが、果たせず代役としてハバードが参加。思わぬ好評をよんだため、一度だけの企画のはずがレギュラー的活動をするグループとなった。1980年代以降も旺盛な制作意欲を燃やしアルバム制作を続けたが、彼のジャズ・シーンでの先鋭的役割は1960年代までであり、1970年代以降はもっぱらジャズの大衆化に寄与した。2008年12月29日、ロサンゼルス郊外の病院で死去。1972年にアルバム『ファースト・ライト』でグラミー賞(ベスト・ジャズ・パフォーマンス)を受賞している。

[後藤雅洋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハバード」の意味・わかりやすい解説

ハバード
Hubbard, Elbert Green

[生]1856.6.19. イリノイ,ブルーミントン
[没]1915.5.7. アイルランド沖
アメリカの著述家,編集者,出版業者。ロイクロフト出版社を創立,世紀末の前衛的な芸術誌『ペリシテ人』 The Philistine (1895~1915) を発行。エッセー『ガルシアへの伝言』A Message to Garcia (1899) がある。ルシタニア号事件で遭難死。

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