イギリスの小説家、詩人。19世紀イギリス文学を代表する作家の1人。詩人としても再評価され、第二次世界大戦後のイギリス現代人に大きな影響を与えている。
1840年6月2日、イギリス南西部ドーセット州の一小村ハイヤー・ボカムトンに石材加工業者の長男として生まれる。当時の庶民としては珍しく中等教育を受け、まず州都ドーチェスター(小説中のキャスターブリッジ)の建築事務所見習いとなり、22歳のときロンドンに出て教会修復専門の建築事務所に勤める。大学には進まず、先輩の指導や独学で広い教養を身につけた。
幼いころから身体の弱かった彼は読書と暝想(めいそう)を好み、牧師を志したこともあるが、当時の懐疑主義思潮の影響を受けて信仰を失い、青年時代は詩作にふけった。しかし、作品は認められず、健康を害して帰郷を余儀なくされることもあり、依然として勤めのかたわら小説を書く。処女作『貧しい男と貴婦人』は出版を断られ、そのあと第一作として『窮余の策』(1871)を匿名で出版。これは殺人事件を扱う探偵小説仕立てで読書界には迎えられなかったが、印象的な自然描写や感情の起伏が激しい女主人公など、後年の作風の特徴が認められる。第二作の牧歌的喜劇『緑の木蔭(こかげ)』(1872)が広く迎えられ、作家としての地位を固めた。この間、修復のため訪れた海辺の村の教会で、牧師の義妹エマ・ギフォードと知り、熱烈な恋愛ののち結婚している。
最初の傑作は農村生活を背景に展開する愛と運命の物語『狂乱の群を離れて』(1874)で、この作品で初めて郷土のイギリス南西部を古代の名称から「ウェセックス」と名づけ、やがて彼の14を数える長編小説は一括して「ウェセックス小説」とよばれる。古い習俗を残し、変わらぬ自然に生きる農村の人々や、彼らの語り伝える数奇な物語は、幼いころからハーディに親しいものであった。第六作『帰郷』(1878)は田園ロマンスから悲劇への転換を示し、暗く厳しい自然のなかで近代思想に悩む青年の愛と挫折(ざせつ)を描いている。また第九作『キャスターブリッジの市長』(1886)は人並み外れた精力の持ち主で、衝動的な情熱のために破滅する男を描く古典的悲劇。続く『森林地の人びと』(1887)でハーディは田園の世界に戻るが、画面は暗く悲劇的である。
代表作の『テス』(1891)は美しい自然描写と残酷な運命の戯れを織り交ぜた作品で、因襲的な社会道徳に対する作者の抗議が読み取れる。このため、頑迷な中・上流階級の人々の非難を浴びた。『日陰者ジュード』(1896)では既成道徳への攻撃はさらに強烈になり、物語の救いのない暗さと相まって一段と激しい非難の的となる。これが一因となって、彼は小説の筆を折り、若いころから念願の詩人として後半生を送る。第一詩集『ウェセックス詩集』(1898)には青年時代の詩も収められる。その後六冊の詩集を世に送り、生涯詩作をやめなかった。この間ナポレオン戦争を題材に、人間界の争いを天から見下ろす精霊たちの嘲笑(ちょうしょう)や哀れみの対話で構成された三部の長編叙事詩『覇王たち』(1903~08)を完成している。
晩年のハーディは大家としてさまざまの栄誉に包まれた。大勲功章Order of Merit、各大学の名誉学位、イギリス作家協会会長など、一世の文豪として尊敬を集めた。1912年妻エマが死に、14年間秘書を務めたフロレンス・ダグデイルと再婚。彼女の名で出版された『トマス・ハーディ伝』(1928~30)は大部分ハーディ自身の手になるもの。28年1月11日、87歳で死去、ウェストミンスター寺院に葬られた。
小説家としての特質は、描写の隅々に息づく詩情、女性や孤立した人間の迷いや苦しみへの深い共感、そしてそれらを堅固なプロットに組み上げる優れた構想力にある。宇宙は人間に無関心で、偶然の力によって人間を翻弄(ほんろう)するという悲観主義の哲学を抱いていたが、人間の憧(あこが)れと苦悩への同情を失っていない。詩人としては、日常的モチーフをとらえて運命の皮肉や不可避な幻滅を歌い込み、近代詩につながる洗練された詩法は今日のイギリス詩人に大きな影響を与えている。短編小説にも優れ、短編集四巻がある。
[海老根宏]
『大沢衛著『ハーディ文学の研究』(1956・研究社出版)』▽『大沢衛編『ハーディ研究』(1963・英宝社)』▽『本多顕彰編『20世紀英米文学案内4 ハーディ』(1969・研究社出版)』▽『佐野晃著『英米文学作家論叢書 ハーディ』(1981・冬樹社)』▽『河野一郎訳『ハーディ短篇集』(新潮文庫)』
イギリスの社会主義者、初期労働党の指導者。極貧のうちに育ち、少年期から炭坑夫として働き、20代で労働組合運動の指導者として頭角を現した。またジャーナリストとしても活躍、1887年『坑夫』Miners紙を刊行した。当時自由党の影響下にあった労働者の政治的自立を主張し、1888年ミッド・ラナークの補欠選挙に出馬したが、落選。その後スコットランド労働党を組織し、1892年サウス・ウェスト・ハムから下院議員に当選した。さらに1893年には独立労働党を結成し、その議長となった。1900年以降は、労働者代表委員会および労働党の中心的メンバーの一人として活躍した。
[岡本充弘]
『小川喜一著「ケア・ハーディ」(『人類の知的遺産 55』所収・1980・講談社)』
イギリスの小説家,詩人。イングランド南西部,通常ウェセックス地方と呼ばれるドーセット州ドーチェスター市の近くで生まれた。父は建築家,母は文学の素養のある婦人だった。若いころは父の職業を継ぐべく建築の勉強にはげみ,1862年ロンドンに出て,建築懸賞論文で賞を得るなど,その才能をあらわした。しかしロンドンの生活を嫌ったために,建築界での出世をあきらめて故郷に帰り,文学を一生の仕事にしようと決意した。68年匿名で《貧民と貴婦人》という長編小説を書き,ロンドンの出版社に送ったところ,当時文壇で重きをなしていたG.メレディスの目にとまった。メレディスはこの小説があまりに過激な社会思想に色づけられ,出版社から排斥されるから,もっと筋立てのおもしろさをねらった作品を書いたほうがよい,とハーディに忠告した。この忠告に従って次作《非常手段》を書き,出版社に受け入れられ71年処女作として公刊された。
以後ハーディの長編小説が次々に発表され,好評をもって迎えられた。《緑の木陰》(1872),《狂乱の群れを離れて》(1874),《帰郷》(1878)などが初期の代表作である。《カスターブリッジの市長》(1886),《テス》(1891),《日陰者ジュード》(1896)など後期の代表作では,小説のプロットの組立てがますます精緻巧妙になり,建築家としての才能が構成に発揮されている。しかし,彼の小説の特徴は単にその構成の巧みさのみにあるのではない。彼はショーペンハウアーの悲観主義哲学に共感し,人間の自由意志を超えた宇宙意志の存在を信じ,運命の力によって人間が翻弄される悲劇,つまりギリシア古典悲劇と同じ主題を小説の形で表現した。同時に作品の中で既存の道徳・宗教に鋭い批判を加え,結婚制度の否定や新しい男女の性関係まで大胆に扱ったため,保守的な読者からの抗議が相次ぎ,《日陰者ジュード》以後長編小説の執筆を断念してしまった。
しかし,これでハーディの文学者としての生命が絶たれたわけではない。以後は短編小説,ナポレオンを扱った詩劇《覇王》全3部(1903-08),数多くの抒情詩を発表し,詩人としても高い評価を受けた。1910年には国から勲章を授けられ,80歳の誕生日には全文壇から祝辞が寄せられた。このように国家的名士となっても,彼はロンドンに移住することを拒み続け,生れ故郷ウェセックス地方にとどまった。のみならず,彼のすべての作品はウェセックス地方を舞台とし,現実の地名を架空の地名に書き改めたウェセックス地方の地図が,彼の文学によって形成された。彼の作品の主人公は人間ではなく,彼の愛する土地の霊であった。死後,遺体はロンドンのウェストミンスター・アベーに葬られたが,彼の心臓は遺言により故郷に埋められた。日本でもハーディの愛読者は多く,〈日本ハーディ協会〉がある。
執筆者:小池 滋
イギリスの数学者。サリー州,クランリーに生まれ,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業後特別研究生を経て1906年同校講師となる。19年オックスフォード大学に移り,幾何学教授の席につくが,31年にケンブリッジ大学に戻り,42年に引退するまで教授の地位にあった。この間1910年ローヤル・ソサエティ会員に選ばれ,20年にはローヤル・メダル,40年にはシルベスター賞を受賞,死の年には最高の名誉であるコプリー賞を受けた。解析的整数論を専門とし,よく知られている業績の一つに,リーマンの予想〈ζ関数の実でない零点はすべて実数部=1/2である〉に関連して,実際そのような零点が無限個存在するのをはじめて証明したことがある。発表した論文は300を超え,彼自身当代のイギリスを代表する,また世界的指導者に数えられる数学者であったが,J.E.リトルウッドやS.ラマヌジャンとの共同研究も熱心に行った。とくに後者については無名のインド人素人数学者の天才を見抜き,世に紹介するとともに短い年月の間に少数ではあるが第1級の論文をともに著すという劇的,感動的な挿話が名高い。専門的な著述のほかに,純粋数学の価値を弁じた評論的作品《一数学者の弁明》(1940)がある。
執筆者:柳生 孝昭
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1856~1915
イギリスの政治家。スコットランドの炭鉱労働者の出身。炭鉱夫の組合を結成して,1892年初めての労働者出身の下院議員となり,翌年スコットランド労働党をもとに独立労働党を結成して党首となる。労働代表委員会の設立に貢献して労働党の成立をたすけ,1906年その初代党首となる。第一次世界大戦には徹底して反対し,平和主義者としての生涯を貫いた。
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…しかし,いずれも大衆的な支持を受けなかった。一方,J.K.ハーディが独立労働党を結成して労働組合との提携をはかり,1900年,労働組合と社会主義団体の連合体として労働代表委員会が創設された。これは労働者階級の代表者を議会に送るための組織であったが,1906年には名称を改めて労働党となった。…
…不熟練労働者の組合活動に触発され,労働教会など地方の社会主義運動を結集し,1893年ブラッドフォードで結成された。ケア・ハーディらの指導下に労働組合と社会主義伝道とを結ぶ改良主義的議会政党たらんとしたが,激しい資本家攻勢のもと,より大きく組合に依存する別個の労働党を発足させた。労働党内において,第1次大戦中反戦の立場を貫き,反戦自由主義者の労働党参加への道を開いた。…
…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…
…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…
…イギリスの作家T.ハーディの小説。1891年出版。…
…1086年の《ドゥームズデー・ブック》によれば王立都市とされるものの,中世以降は農村中心の地位にとどまった。この近くで生まれ,〈ウェセックス小説〉の中でこの地をキャスターブリッジと呼んだT.ハーディの銅像や記念博物館が市内にある。【長谷川 孝治】。…
※「ハーディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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