写実主義(読み)シャジツシュギ

デジタル大辞泉 「写実主義」の意味・読み・例文・類語

しゃじつ‐しゅぎ【写実主義】

現実をあるがままに再現しようとする芸術上の立場。特に、ロマン主義への反動として、19世紀中ごろにフランスを中心として興った思潮をさす。文学ではフロベール、絵画ではクールベなどが代表的。リアリズム

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精選版 日本国語大辞典 「写実主義」の意味・読み・例文・類語

しゃじつ‐しゅぎ【写実主義】

  1. 〘 名詞 〙 社会の現実および事物の実際をありのまま描写しようとする芸術上の立場。ヨーロッパでは一九世紀後半、ロマン主義に対立して起こった。バルザックフローベールの小説、クールベの絵画など。日本では近世の井原西鶴、式亭三馬、為永春水などの文学にもそのような特徴はみられるが、特にヨーロッパの写実主義の影響は明治二〇年代に顕著で、坪内逍遙・二葉亭四迷・尾崎紅葉・樋口一葉などの小説にみられる。
    1. [初出の実例]「文学上では私は写実主義を執ってゐた」(出典:平凡(1907)〈二葉亭四迷〉四八)

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改訂新版 世界大百科事典 「写実主義」の意味・わかりやすい解説

写実主義 (しゃじつしゅぎ)

リアリズムrealism(英語),レアリスムréalisme(フランス語)などの訳語として成立し,おもに文学・美術などの分野で使われる用語。リアリズム,レアリスムなどの西欧語は,使用分野や意味に応じてそれぞれに訳し分けられて日本に導入された。原語はラテン語のレアリスrealis(実在の,現実の)から派生した言葉だが,哲学用語としてはふつう〈実在論〉と訳され,概念こそが実在であると主張する中世の哲学説はとくに〈実念論〉とも訳される。さらに,一般には〈現実主義〉といった訳語も用いられるが,文学や美術などの分野では〈写実主義〉という訳語があてられている。

文学に適用された場合の〈リアリズム〉〈写実主義〉という用語は,広い意味では,現実の模写・再現を重んずる文学制作上の立場,あるいはその結果として生ずる作品の特質を指す。このような広い意味でのリアリズムは,そもそも現実模写と完全に無縁な文学などというものがありえない以上,いわば文学を構成する基本要素であると考えられ,いついかなる時代の文学にも多かれ少なかれ内在するものであるといえる。ただ,こうした広い意味でいう〈リアリズム〉は,現実の忠実な模写・再現ということ自体が多分に抽象的で,何をどう書くことと結びつくのかを具体的に示しているわけではないため,明確に定義可能な意味を持つ用語とはいいがたく,実際にこの用語が使用される場合にも,いかなる作品,いかなる文章に〈リアリズム〉の語が適用されうるかという判断は,事実上,各個のリアリズム理解の仕方に大きく左右される。このように用語の実質的な意味内容があいまいであるために,リアリズムの一形態にすぎない19世紀リアリズムを基準としてリアリズム一般の概念をとらえかえすという,いわば逆行する方法によるリアリズム認識が行われることも少なくない。なお,日本では,以上の広い意味に用いる〈リアリズム〉については,〈写実主義〉といわず〈写実〉とのみ呼んで訳語を区別することも行われているが,必ずしも組織だった一般的な慣用ではなく,両者はしばしば混用され,〈写実〉や〈写実主義〉をめぐる論議をときに混乱させている。

 また,〈リアリズム〉〈写実主義〉という用語は,とくに歴史的に限定された意味でも用いられ,この場合には,19世紀半ばにおこった文芸思潮,その担い手となった文学流派を指す。中心となったのはフランスで,〈写実主義〉が理論としてはっきりと主張され,これをめぐる論戦が最もさかんに行われたのも,この国においてである。19世紀前半,フランスは,産業の機械化,交通の発達,都市人口の増大といった現象を伴う,近代産業社会成立への変革期に入った。こうした時代の動きを背景に,著しい進歩をとげつつあった自然科学が,実証主義思想とともに,文化領域全般に強い影響を及ぼしはじめていた。このような時代環境にあって,1850年ごろから,前代の芸術を支配していたロマン主義に異議をとなえ,芸術の〈写実主義〉を主張する動きが表面化することになる。スタンダールやメリメらの小説,ことにバルザックの作品にみられる写実的手法,さらにはモニエHenri MonnierやミュルジェHenri Murgerといった小作家たちの作品に目だつ卑近な風俗の描写などは,ロマン主義のあとに来るべき文学の性格をすでに予告しているが,クールベを中心として画家たちのあいだに写実主義絵画の運動がおこると,ほぼ同時期に文学界でも,クールベの盟友シャンフルーリが写実主義を第一要件とする文学を提唱し,この挑発的な主張をめぐってさかんな論争が展開された。現実観察のみならず証言や調査資料等によって,文学は日常的現実を細部にわたり忠実に再現するものでなくてはならない。こうした主張を掲げたシャンフルーリは,〈銀板写真派〉〈真率芸術派〉の作家などとも呼ばれ,やがて写実主義文学派の代表格と目されるに至る。流派のもう一方の旗頭となったデュランティも,みずから編集発行する文学雑誌《写実主義》(1856-57)などを通じて写実主義理論をくりかえすかたわら,その理論にのっとった小説を発表した。しかし,ロマン主義に代わって写実主義こそが時代の文学的潮流となったことを決定的に印象づけたのは,フローベールの小説《ボバリー夫人》(1857)である。フローベール自身は写実主義派の文学理論や実作に強い嫌悪の念を抱いていたにもかかわらず,《ボバリー夫人》以下の諸作によって,この作家は写実主義文学の真の巨匠とみなされるに至り,後の自然主義の作家たちからも先駆者と仰がれることになった。同じ時期,ゴンクール兄弟は,事実の記録と文献資料によって小説の客観性をつらぬきながら,きわめて技巧的な文体を駆使して,多くは病理学的な異常性を持った人間像を描きだし,独特の写実主義小説を作りだした。記録や資料の重視,人間心理の動きに生理学的な裏づけを与えようとする姿勢などによって,ゴンクール兄弟はすでに自然主義への道に踏みだしかけた作家であるといえる。写実主義思潮は,19世紀前半のロマン主義の一面,抒情と非現実的空想におぼれやすい傾向に対する反動としてあらわれ,やがて,自然科学と実証主義の影響をいっそうあらわにして,〈自然主義〉を成立させることになる。写実主義から自然主義に至る文学の傾向には一貫した連続性があり,見方によっては,ときとして〈写実主義〉あるいは〈自然主義〉のいずれかの呼称のもとに19世紀後半の文芸思潮を一括して扱うことがあるのもこのためである。

 以上のようにロマン主義から写実主義へと文学の傾向が変転したのは,フランスに限られた現象ではなかった。フランスにおけるような流派的活動や活発な論争は行われなかったにせよ,同じような傾向は他のヨーロッパ諸国にもみられる。ビクトリア朝期のイギリスには,H.フィールディング以来のこの国の伝統にふさわしく,ディケンズサッカレー,ジョージ・エリオットなど,写実的描写にすぐれた作家が輩出した。また,いわゆる〈若きドイツ〉派の運動を経て〈詩的リアリズム〉の時代を迎えたドイツにも,多くはロマン主義的あるいは世俗主義的な色彩を帯びている点でやや特異な性格を持つ写実主義の文学があらわれ,フライターク,ラーベ,フォンターネ,スイス人作家G.ケラー,そしてドイツ近代劇史上に重要な位置を占める劇作家ヘッベルなどが出た。ロシアでも,写実文学の伝統は,まずプーシキンやゴーゴリによって強固な基盤が築かれ,ベリンスキーの理論を得たあと,ツルゲーネフドストエフスキートルストイなど,日本にもなじみの深い巨匠たちの時代が到来する。
自然主義 →社会主義リアリズム
執筆者:

写実主義とは,明治時代にリアリズムの翻訳として用いられた用語である。もともと西洋文学におけるリアリズムも,実際の作品をみるかぎり多様多彩で,ほとんど定義不可能な概念である。V.B.シクロフスキーは,リアリズムの本質は非親和化(異化)にあるという。つまり,それは見慣れているために実は見ていなかったものを見させることである。したがってリアリズムに一定の方法はありえない。この意味では,いわゆる反リアリズム,たとえばカフカの作品もリアリズムに属するであろう。

 日本の〈写実主義〉の場合,文字どおり〈現実を写す〉ことにすぎないようにみえる。ところが,それはけっして容易なことではなかった。たとえば明治20年代に至るまで,日本の詩人・作家は,われわれが今日当然のように考える〈風景〉を見ていなかった。彼らには,名所旧跡,つまり概念としての風景しか存在しなかった。〈現実を写す〉ためには,まず現実が見いだされねばならないが,〈風景〉は,よく外界を見るどころか逆に外界を拒絶するような内面的な人間によってこそ見いだされたのである。国木田独歩の《忘れえぬ人々》(1898)がそうであるように,忘れてしまってもかまわない,どうでもよいものが〈風景〉として取り出される。そういう価値転倒と切断がなければ,写すべき〈現実〉も見えてこない。

 日本の〈写実主義〉運動は,ほぼ二つの系列からはじまった。一つは坪内逍遥を中心とするもので,もともと〈演劇改良運動〉に発している。もう一つは,正岡子規の〈写生〉に発するもので,〈詩歌の改良〉からはじまっている。それらは,まもなくいわば〈小説の改良〉として,小説における写実主義に転化していったのであるが,そこにはまだ何かが欠けていた。北村透谷が〈写実も到底情熱を根底に置かざれば,写実の為に写実をなすの弊を免れ難し〉(《情熱》)と批判したように,そこには〈情熱〉,つまり外界を見るよりもむしろそれを拒絶するような一種の倒錯的な内面性が欠けていたのである。

 一方,ロシア文学に通じており内面的であった二葉亭四迷は,いざ書こうとすると,《浮雲》がそうであるように,実質的に江戸文学(戯作)の文体・リズムに引きずられざるをえなかった。実際に,《浮雲》などより,彼のツルゲーネフの翻訳のほうが,のちの写実主義の文学に影響力をもったといえる。すなわち,現実を写す(書く)ためには,そもそも文章そのものが変わらなければならない。そのことによってはじめて〈現実〉があらわれる。日本における写実主義がまず〈言文一致〉の運動としてあらわれたのは偶然ではない。しかし,〈言文一致〉は,単に〈言〉を写すだけでは不十分であり最初の運動は失敗に終わった。〈言文一致〉とは,実は,それまでの〈言〉や〈文〉とは異質な〈文〉の創出であり,それによってはじめて外的または内的な〈現実〉が存在しうるのである。この過程は,ほぼ明治20年代の短い期間におこっている。明治30年代はじめ,とりわけ国木田独歩において,外界や内面を〈写す〉ことはすでに自明と化している。逆にいうと,外界や内面が,ある構造的な転倒・切断の結果であることが忘れられている。そのように自明と化した〈写実主義〉のなかでは,それ以前の文学が持っていた可能性--言葉の戯れによって織りあげられる文学空間や物語的世界--は閉ざされてしまった。けれども,リアリズムという概念を最初に述べたように広く解釈するならば,そのような写実主義文学に対する非親和化としての文学もまたリアリズムだといってもよいはずである。
執筆者:

写実主義とは一般的には,美術制作上,作者の主観や想像力を抑え,理想化,様式化などの操作を加えることなしに,身近な平凡なものをありのままに精密に再現しようとする態度をいう。美術史上の限定された意味では,19世紀の中ごろにフランスを中心としておこった美術運動を指す。〈写実主義〉という用語がこの運動との関連で用いられるのは,おもにシャンフルーリによってである。ロマン主義の一つの帰結として〈芸術のための芸術〉をスローガンとする芸術至上主義がT.ゴーティエによって唱えられたが,シャンフルーリはこれに反対し,芸術はあくまでも人間の実生活を描くことにある,と主張した。この考え方は,批評家の間ではカスタニャリ,デュランティ,シルベストルThéophile Silvestreらに支持され,芸術家としてはクールベ,ドーミエ,ボンバンFrançois Bonvin(1817-87)らに共鳴者を見いだした。ボードレールは後にこれを〈創造力の欠如〉として批判するが,初期には彼らの主張を大いに支持した。写実主義によれば,現実la réalitéを描くこと,すなわち真実le réelこそが第1の価値であり,それは美よりも優先する。そしてこれらの現実は,つねに過去でも未来でもない現在の現実でなければならない。これは,美の規範を定め,古典古代とルネサンスの芸術を模倣することを目ざす新古典主義にも,また想像力によって人間や自然のドラマを作り上げようとするロマン主義にも対抗する新しい価値観である。彼らは庶民の,労働者の,農民の生活や自然の一断面をあるがままに描こうと努め,その結果,共和主義や社会主義の運動に近づくことが多かった。

 写実主義の美術作品としては,早いものとしてクールベの《石割り人夫》(1849),《オルナンの埋葬》(1850)がある。前者は貧しい労働者の働く様をなんの理想化もせずに表し,後者は平凡な田舎の埋葬の様を〈歴史画〉として描こうとしたところに革命的意図があった。そして1855年の万国博覧会の年,大画面作品の出品を断った当局に対抗して,クールベは万国博会場の近くに個展会場を設置して〈レアリスム館Du Réalisme〉と名付けた。これを擁護するためシャンフルーリは《写実主義について--サンド夫人への手紙》を《ラルティストL'Artiste》誌に著す。いわゆる表だった写実主義の動きは,71年のパリ・コミューンの敗北で終息するが,多くのフランスの内外の芸術家にその精神は受け継がれてゆく。様式的にはきわめて独自な活動をしたドーミエは個人的にもクールベ,シャンフルーリと親しく,その精神を共有している。ミレーは労働に明け暮れる農村生活の主題で,ボンバンは静物画で,リボThéodule Ribot(1823-91)やルグロAlphonse Legros(1837-1911)も日常生活の断片を描くことで写実主義の一翼を担っていると言いうるであろう。ベルギーの彫刻家C.ムーニエ,オランダのマウフェA.MauveやイスラエルスJ.Israelsを中心とした〈ハーグ派〉の画家たち,ドイツのライブル,ウーデ,M.リーバーマンらが,クールベ,ドーミエの同時代および次の世代の写実主義的傾向を示している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「写実主義」の意味・わかりやすい解説

写実主義
しゃじつしゅぎ
réalisme フランス語
realism 英語

哲学用語の現実主義(リアリズム)からの転用語で、観念的なもの、想像的なものを嫌い、現実の事実を客観的な態度であるがままに描出しようとする文学上の主張、または様式をいう。この語は、アウエルバハの『ミメーシス』(1946)におけるように広義に用いられ、写実的傾向をもつ文学全般に対し時代を超えて使われもするが、文学史的には、19世紀にヨーロッパを覆った一潮流、厳密には19世紀後半にフランスでもっとも意識的な反ロマン主義運動として開花し全ヨーロッパに広がった文芸主潮を、とくにさしていう。

[加藤尚宏]

ヨーロッパでの展開

フランスで写実主義の語が文学・美術の領域で使われだしたのは1830年代のなかばごろからで、そのころには、社会制度の変革とブルジョアジーの台頭、科学の進歩と実証主義の流行などの要因によって、近代写実主義の下地はできあがっていた。ひと足早く近代市民社会を打ち立てたイギリスでは、すでに18世紀にリチャードソン、フィールディング、スウィフトらが写実的小説を生み出していたが、そうした、とりわけリチャードソンの小説から影響を受けたディドロ、J・J・ルソーらがこの新しい様式を導入し、その流れのうえにたって、写実主義小説の二大先駆者スタンダールとバルザックが、冷徹客観的な観察と分析で現実社会の諸相を克明に描き出していた。この流れが、情緒過剰、現実逃避、誇大雄弁なレトリックに堕した自我礼賛のロマン主義を否定し、現実に根ざした客観主義を主張する一流派として確立したのは、ほぼ1850年ごろからである。その理論は絵画畑から出たもので、「存在しないものを見ようとしたり、存在するものを想像で歪(ゆが)めたりはしない」と主張するクールベがその最初の理論家となった。

 クールベの友人シャンフルリーがこの立場を文学に適用し、1856年、一派の機関誌を発刊、さらに同調するデュランチが雑誌『レアリスム』を主宰、実作を示しながらいわゆる「写実主義闘争」とよばれる運動を展開してその擁護と顕揚に努めた結果、レアリスム文学は時代の主流としての地位を占めるに至った。この2人のほか、ミュルジェールやモニエらがやはり社会の現実的側面や民衆の平俗な生活を小説のなかに再現したが、しかし大成功を収めてこの様式の勝利を決定づけたのは、一派に属さず自らレアリストであることを否定したフロベールの『ボバリー夫人』(1857)である。以後フロベールは、作者の主観を徹底的に排除しようとする没個性と無感動性の客観主義、および精緻(せいち)な観察と綿密な資料とでもって日常的現実のうえに、すなわち小説性(ロマネスク)の否定のうえに自律的な一世界を構築しようとするその美学によって、写実主義小説の完成者と目されることになった。観察と資料を土台にするフロベールの一面の科学者的客観主義は、やがて作品を社会の臨床記録として書き綴(つづ)ろうとするゴンクール兄弟に受け継がれ、兄弟の影響が「小説は科学である」と考えるゾラに及ぶに至って、写実主義は自然主義へと変形していった。

 この潮流はすでにその萌芽(ほうが)をみせていたヨーロッパの全土に波及したが、イギリスでは19世紀に入って、社会風俗や庶民生活を客観的に描いたディケンズとサッカレー、さらにジョージ・エリオット、ブロンテ姉妹らが写実主義の傾向を示す。ドイツでは、ハイネをはじめとする「若いドイツ」派の初期写実主義を経、ケラー、シュトルム、マイヤー、フライターク、ヘッベルらによっていわゆる「詩的写実主義」が開花し、最後期の大作家フォンターネが自然主義への掛け橋の役割を果たす。ロシアでは、プーシキンの後を継いだゴーゴリが写実主義小説を、またベリンスキーがその理論を確立し、以後独特の発展をみせながら全盛期を迎える。ゲルツェン、ツルゲーネフらの「自然派」、さらには大トルストイ、またドストエフスキーの心理的リアリズム、そして社会主義リアリズムの創始者ゴーリキーへとつながっていく。イタリアではロマン主義がリソルジメント(国家統一運動)と結び付いていたため写実主義文学の開花が遅れたが、シチリアを舞台にベルガが新しい写実主義手法で書いたことによって、ベリズモ(真実主義――写実主義、自然主義の両方を含む)が誕生した。そのほか、スペインにペレス・ガルドスBenito Pérez Galdós(1843―1920)、ポルトガルにケイロース、オランダにハイエルマンスらの代表的作家がいる。

[加藤尚宏]

日本での展開

日本においては、それぞれイギリス、ロシアの文学に学んだ坪内逍遙(しょうよう)および二葉亭四迷(しめい)によって近代写実主義の手法が導入され、二葉亭の『浮雲』(1887~1888)は日本最初の本格的写実小説となった。しかしやがて、比較的正当に移入された初期の写実主義理論は、フランスから入ってきた自然主義の新たな流れに合体し、田山花袋(かたい)の『蒲団(ふとん)』(1907)以後、普遍的真実を描くべき没個性の文学が、作者の個をもっぱら描く対象とする(すなわちリアルなものとは外の現実ではなく、内面の「自我」である)私小説へと変貌(へんぼう)し、日本独特の自然主義を形成するに至った。

[加藤尚宏]

美術

美術における写実主義は、現実あるいは自然の外観を尊重し、それをあるがままに模倣、再現しようとする方法、またそのような制作態度を支える思想であり、広義には、抽象に対する具象とほとんど同義語として用いられる。手法的にはギリシア美術や、ルネサンス期から19世紀に至るほとんどの絵画、彫刻における現実再現の手法、いわゆるイリュジョニズムillusionism(錯視的再現の手法)をさす。しかし、これらの場合も、あるときは様式化、理想化、歪曲(わいきょく)、象徴主義の諸方法と対立し、あるときはそれらと融合しているため、厳密な定義は不可能であり、写実主義の用語が用いられるそれぞれの文脈のなかで判断するしかない。一般的には、錯視的に自然の空間や事物の形態や質感、明暗を表現する方法や態度をさす場合と、当然そのような技法を伴うが、日常的現実のなかの風俗や事物を主題とし、とりわけ庶民的な生活にテーマを求める傾向をさす場合とに分類することができよう。

 狭義の写実主義、写実派の用語は、フランスのクールベによって提唱され実践された制作態度、手法、その流派に適用されるが、これは、前述の分類の後者の一つの典型である。1855年、パリ万国博覧会に出品を拒否されたクールベは、会場近くで個展を開き、「写実主義者」を標榜(ひょうぼう)し、そのパンフレットで「自己の属する時代の風俗、観念、社会相を描く」と宣明した。すでにクールベは、彼の周辺にあったカスタニャリJules-Antoine Castagnary(1830―1888)とかシャンフルリーといった批評家たちから、文学者たちの新しい傾向を示す用語である写実主義を知り、コローたちと集う酒場を「写実主義の殿堂」と名づけ、1846年には「とりあえず写実主義絵画と名づける旗印」を掲げていた。クールベの写実主義は、主題、テーマ、技法の点でまさに写実主義的であり、ロマン主義や古典主義に対する新しい主張と技法を明らかにしたもので、フランスでよりもむしろ他の諸国で広い影響力をもち、19世紀の主要な潮流となった。また革命後のソ連における社会主義リアリズム、現代美術におけるスーパーリアリズムなども、写実主義の別なあり方とみることができるだろう。

[中山公男]

『山川篤著『フランス・レアリスム研究』(1977・駿河台出版社)』

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百科事典マイペディア 「写実主義」の意味・わかりやすい解説

写実主義【しゃじつしゅぎ】

リアリズムrealism(英語)などの訳語。ラテン語のres(物)に由来。哲学では実在論と訳される。ロマン主義への反動として,また実証主義の影響を受けて,19世紀に起こった芸術理論をいう。現実を美化・理想化することなく,存在するがままに描くべきだとする。初めてリアリズムの画家を自称したクールベドーミエ,小説家フローベールモーパッサンらが代表的で,文学においては自然主義へ発展。英国ではリチャードソンフィールディングを先駆としてディケンズサッカレーハーディ,ドイツではケラーラーベヘッベル,北欧ではイプセンストリンドベリら,ロシアではゴーゴリツルゲーネフトルストイらが出て,写実主義は以後の文学,とりわけ小説の発展に深い影響をおよぼした。
→関連項目エーキンズ歌論光風会ゴンクール[兄弟]ジェリコー小説神髄ミレー

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旺文社世界史事典 三訂版 「写実主義」の解説

写実主義
しゃじつしゅぎ
realism

19世紀半ばにフランスを中心におこった文芸思潮
ロマン主義に対する反動として1840年から60年ごろに行われ,文学のフロベール・ゾラ・モーパッサン,美術のクールベらがその代表。類型より個性,夢より事実を重んじ,社会や人間を客観的にあるがままを描くことを主張した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「写実主義」の意味・わかりやすい解説

写実主義
しゃじつしゅぎ

「リアリズム」のページをご覧ください。


写実主義[美術]
しゃじつしゅぎ[びじゅつ]

「リアリズム[美術]」のページをご覧ください。


写実主義[文学]
しゃじつしゅぎ[ぶんがく]

「リアリズム[文学]」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の写実主義の言及

【シャンフルーリ】より

…パリで書店に勤め,1844年より文芸雑誌《ラルティストL’artiste》に批評を書く。46年ころからボードレール,クールベ,ドーミエらと次々に知り合い,互いの影響の下に写実主義の思想を形成し,57年に宣言ともいうべき序文をつけた《写実主義》と題する論文集を発表。彼の主張は,芸術においては〈美〉よりも〈真実〉が優先し,それは理想化されてはならず,また現実社会に密着しなければならないというものだった。…

【小説神髄】より

…従来日本の小説は,戯作(げさく)の名のもとに漢詩文や和歌よりも品格の劣るものと見なされてきたが,これに対し文明社会では,文学の諸ジャンルの中でもっとも進化した形態とされ,芸術として重んじられていた。西洋におけるこうした小説の役割を基準に,日本の小説は改良されなければならないとして提唱されるのが,人情及び世態・風俗の模写,すなわち写実主義の理論である。とりわけ,〈外面(うわべ)に見えざる衷情(したごころ)をあらはに外面(おもて)に見えしむべし〉とあるように,不可視の〈人情〉を心理学に即して視覚化する描写の意義に力点がおかれている。…

【文学】より

…近代科学が社会を大きく変化させるにつれて,人間文化のあらゆる領域がレトリックの制約を脱して,科学をモデルとする傾向を生じた。歴史も文学から科学に移ろうとしつつあるが,文学とくに散文も,科学精神の影響下にリアリズム(写実主義)を基調とするにいたった。それは美よりも真に力点をかける立場である。…

※「写実主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」