パドリ戦争(読み)パドリせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「パドリ戦争」の意味・わかりやすい解説

パドリ戦争 (パドリせんそう)

19世紀前半,インドネシアのスマトラ西部ミナンカバウ地方で,厳格なイスラム教徒(パドリPadri派)を中心とする勢力が,オランダとの間に展開した武力紛争発端は,1803年にメッカから戻った3人の巡礼者が,ワッハーブ派影響のもとにイスラムの戒律強化の運動を始め,慣習派(アダット派)との間に対立を深めたことにある。慣習派はパドリ派によるこの改革運動を制するため,初めイギリスに,また21年には領土委譲を条件にオランダに武力援助を求めたが,これにより事態は植民地戦争様相を呈するにいたった。狭義のパドリ戦争はこの21年から45年まで断続的に行われた戦闘を指し,4期に分けられる。1821年以来パダンを拠点にしたオランダは慣習派を助けてソロック地方を除くミナンカバウ全域を32年までに手中に収めたが(第1期),32年から34年にかけてパドリ派は慣習派と共同していくつかの地域を奪回した(第2期)。34年にはイマーム,ボンジョルBonjol(1772-1864?)が現れて戦闘は熾烈をきわめたが,37年にボンジョルもオランダに降伏した(第3期)。その後,なお各地でオランダとの戦闘が続いたが,45年までにソロック地方も平定され(第4期),オランダはミナンカバウ全域を手中に収めることになった。パドリ戦争は,その後バタクアチェなどで引き起こされる,オランダによるスマトラ征服戦争の発端をなすとともに,ミナンカバウ社会でのイスラム改革運動として後日まで影響を及ぼした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パドリ戦争」の意味・わかりやすい解説

パドリ戦争
パドリせんそう
Padri War

スマトラ南西部,ミナンカバウ族の反オランダ抗争 (1803~37) 。最初はイスラム改革主義者と慣習法に基づく伝統的支配者との争いに端を発したが,1833年以後オランダは後者に加担し,住民たちの激しい抵抗を招いた。オランダはその中心であるボンジョール地区を2年間包囲して降伏させ,イスラム指導者イマム・ボンジョールを追放して戦争を終結させた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パドリ戦争」の解説

パドリ戦争
パドリせんそう
Padri

インドネシアのスマトラ西部におけるイスラーム教徒による対オランダ抵抗戦争
パドリとは厳格なイスラーム教徒をさす。ワッハーブ派の影響を受けたパドリ派を中心に,1821年よりオランダの植民地支配に対する抵抗運動が始まる。1845年に終結し,オランダはスマトラ西部のミナンカバウ地方を獲得した。

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世界大百科事典(旧版)内のパドリ戦争の言及

【多体問題】より

…原子内の電子の運動は,重くて不動とみてよい原子核が及ぼす(逆2乗の法則に従う)クーロン力で動いているという点で太陽系の惑星と似ているが,電子間の相互作用が核と電子間の力と同程度なので単純にそれを小さな摂動とみなせない点が異なる。そこで,動き回る他の電子が着目する電子に及ぼす力を時間平均し,静止した負電荷の雲がつくる電場で代用するハートリー近似などが用いられる。原子核も複数の核子(陽子,中性子)が核力を及ぼし合っている多体系であるが,原子内の電子とは違う特徴があるので,それに応じた近似法が考えられている。…

※「パドリ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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