改訂新版 世界大百科事典 「ビホル」の意味・わかりやすい解説
ビホル
Bihor
ルーマニア北西部の県名。ハンガリー語ではビハルBihar。歴史的にはこのビホル県と現ハンガリー領のハイドゥー・ビハルHajdú-Bihar県にまたがる地方をいう。古代にトランシルバニアにダキア王国が成立した時代,ここにもダキア人が居住し,ローマのダキア征服後もこの地方はローマの属州とはならず,自由ダキア人が住んでいた。4~9世紀の民族移動期ののち,10世紀にはビホル城を根拠として原住民(ブラフ人とスラブ人)の同盟の長であるメヌモルトMenumorutがこの一帯を支配していたことが年代記に記されている。11世紀初めこの地方を征服したハンガリーのイシュトバーン1世はビハル教区を設置した。それ以後ハンガリー南部とトランシルバニアおよびバナト地方を結ぶ交通の要地として発展し,オラデヤ(現,ビホル県の県都)をはじめいくつかの都市や市場町が現れた。とくにオラデヤは東西貿易の中継地として発展した。モハーチの戦ののちトランシルバニア公国に編入され,オスマン帝国とオーストリアの双方から公国を防衛する要衝として,また西欧の人文主義の文化をトランシルバニアへ伝播する経路としてビホルは重要な役割を果たした。1660年オスマン帝国軍に敗れ,ビホルの一部はパシャ領となったが,1692年オーストリア軍がオスマン帝国の勢力を一掃してその支配下に置いた。17世紀にはこのほかにもオスマン帝国とオーストリア間の戦闘が絶えず,しばしば戦場となり農村は疲弊した。しかし18世紀からオーストリアやハンガリーの植民政策により人口が増加した。19世紀を通じてハンガリーの民族政策に反発するルーマニア人の民族運動が強まったが,そのなかで1848年革命でコシュートに協力したルーマニア人ドラゴシュIoan Dragoş(1810-49)や民族差別政策に反対したハンガリーの詩人アディら両民族の平等と友好を願う著名人をも生み出した。トリアノン条約(1920)によりルーマニア領となり,1940年ウィーン裁定により一時ハンガリー領となったが,パリ条約(1947)により再びルーマニア領となった。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報