日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ条約」の意味・わかりやすい解説
パリ条約
ぱりじょうやく
フランスのパリで締結された国際条約は多数あるが、ここでは一般にパリ条約とよばれる主要なものをあげる。(1)1763年2月10日、七年戦争の終結に際してイギリスとフランス、スペインとの間に結ばれたもの。これによって、フランスはカナダとルイジアナ(ミシシッピ川以東)をイギリスに割譲して、若干の島々と権益のほかには北アメリカ大陸における領土を失った。インドでは、フランスはシャンデルナゴルなどを除く全植民地を放棄した。イギリスはスペインからフロリダを獲得し、スペインはかわりにフランスからルイジアナ(ミシシッピ川以西)を得た。(2)1783年9月3日、アメリカの独立戦争を終わらせた講和条約。イギリスはアメリカ植民地の完全独立を承認し、さらにアメリカの領土としてカナダ、フロリダを除くミシシッピ川以東の土地を認めた。(3)1814年5月30日、ナポレオンと戦ったヨーロッパ諸国とフランスのルイ18世の政府との間に結ばれたもの。フランスはナポレオンの占領地を放棄し、1792年1月1日の国境に復することになったが、賠償は課せられなかった。イギリスはフランスから若干の島、オランダからセイロン島、ケープ植民地を得た。またマルタ島はナポレオンとイギリス・ロシアとの争奪戦の対象であったが、この条約の結果、イギリス領となった。なお、この条約の施行の細目に関してウィーン会議の開催が約された。しかし、ウィーン会議の開催中にナポレオンの百日天下があったために、1815年11月20日、改めて第二次パリ条約が調印された。これは第一次パリ条約よりも条件がフランスにとって厳しく、フランスの国境は1790年当時のものとなり、7億フランの賠償を課せられた。なお、同盟軍は5年間北フランスを占領することとなった。(4)1856年3月30日、ロシア、イギリス、フランス、オーストリア、トルコ、プロイセンおよびサルデーニャの間に調印され、クリミア戦争を終結させたもの。そのおもな条項は、トルコの独立と領土保全の保障、ボスポラス、ダーダネルス両海峡の外国軍艦の航行の禁止、ドナウ川航行の自由、ベッサラビアのロシアからモルダビアへの割譲、モルダビア、ワラキアおよびセルビアの自治権の獲得。この条約は、ロシアの南下政策とトルコ領内への勢力浸透を阻止しようとしたものである。(5)1898年12月10日、アメリカ合衆国とスペインとの間に調印されたアメリカ・スペイン戦争(米西戦争)の講和条約。スペインはキューバの独立を認め、プエルト・リコ島、他の西インド諸島の島々、グアム島、フィリピン諸島をアメリカに譲ることになった。(6)1947年2月10日、第二次世界大戦において枢軸陣営に属したイタリア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリーの五か国と連合国21か国との間に結ばれた講和条約。これによってイタリアは海外の植民地をすべて放棄し、ヨーロッパで若干の領土を割譲し、軍備を制限され、3億6000万ドルの賠償を課せられた。その他の各国も軍備制限や賠償を課せられ、国境の多少の変更を被った。(7)1954年10月20~23日、パリで調印された西ドイツの主権回復に関する諸条約の総称。普通はパリ協定という。これにより西ドイツは主権回復を認められ、占領状態が終了した。西ドイツは北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に加盟した。西ヨーロッパ連合を拡大して、イタリアとともに西ドイツを加え、西ドイツはこの機構のなかで再軍備をすることになった。
[斉藤 孝]