フェデリコダモンテフェルトロ(その他表記)Federico da Montefeltro

改訂新版 世界大百科事典 の解説

フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
Federico da Montefeltro
生没年:1422-82

イタリアの傭兵隊長。イタリア中部の小都市ウルビノを拠点とするモンテフェルトロ家の庶子として生まれたが,1444年よりシニョーレシニョリーア制)となり,領土の拡張と安定に努めた。N.ピッチニーノのもとで戦闘経験を積み,傭兵隊長(コンドッティエーレ)として頭角を現わす。66年,〈イタリア同盟〉(ローディの和)の総指揮官に雇われ,好敵手であったB.コレオーニの率いるベネチア軍を撃破し,イタリア最強の傭兵隊長の地位を確立した。74年,ウルビノ公に叙される。フェラーラ防衛戦中に病没するが,病因はマラリアであった。

 フェデリコは知謀の将で,無用の流血を好まず,巧みなかけひきで勝利を得ることが多かった。傭兵隊長であるからには,彼も契約しだいでどの陣営にも加わった。しかし,契約期間中はその履行を重んじ,雇主の利益を守った。人格面でも節度あり,公平で,思いやりがあり,部下や領民に慕われた。このような人格の形成には,彼が11歳のときより数ヵ年,マントバゴンザーガ家に滞在した時代に師事した,教育家・人文主義者のビットリーノ・ダ・フェルトレの感化が大である。

 フェデリコは文武両道にたけたシニョーレであり,みずから学問をよくし,また学問・芸術の保護者としても偉大であった。なかんずく写本の熱心な収集家で,ルネサンス期の代表的建築一つとされるウルビノの居城に設けられた図書館は,当時,ヨーロッパでも一,二を争うほど充実していた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフェデリコダモンテフェルトロの言及

【ウルビノ】より

…同家は1443年に公爵の称号を得,ウルビノは公爵家の支配の下で,当時のヨーロッパ諸都市の中でも,最も華美なルネサンス文化の中心地として繁栄した。そして勇猛な傭兵隊長であり,知識人や芸術家の擁護者であったフェデリコ・ダ・モンテフェルトロの治世(1444‐82)に町は最盛期を迎えた。16世紀の初頭,市政はデラ・ロベレ家の手にゆだねられる。…

【ファン・ヘント】より

…ファン・デル・フースに前借りし,イタリアに赴く。73‐75年ウルビノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロに仕え,彼の書斎を教父,詩人,哲学者の肖像画で装飾し,その作品群によりイタリアとネーデルラントの美術の橋渡し役を果たした。【森 洋子】。…

※「フェデリコダモンテフェルトロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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