フラックスマン(英語表記)John Flaxman

改訂新版 世界大百科事典 「フラックスマン」の意味・わかりやすい解説

フラックスマン
John Flaxman
生没年:1755-1826

イギリス彫刻家,挿画家。イギリス彫刻史上最大の人物であるとともに,この国の新古典主義の代表的芸術家。ヨークに生まれ,1775-87年,当時流行のギリシア趣味を代表する陶芸家J.ウェッジウッドのデザイナーとして活動。87-94年ローマに赴き,古代美術,イタリア美術の研究を深める。ローマで《イーリアス》《オデュッセイア》の挿絵を素描し,93年にその銅版画複製を出版,帰国後アイスキュロスやダンテの著作の挿絵を刊行する。これらの挿絵は古代ギリシアの壺絵の様式にならい,陰影を排して純粋な輪郭線のみによって描かれ,新古典主義の理念と当時の好みを反映している。これによって名声を高め,帰国後は彫刻家として活躍し,大作の注文があいつぎ,1810年にはローヤル・アカデミー初の彫刻の教授となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フラックスマン」の意味・わかりやすい解説

フラックスマン
Flaxman, John

[生]1755.7.6. ヨーク
[没]1826.12.7. ロンドン
イギリスの彫刻家。イギリス新古典主義彫刻の代表者の一人。 1775年以降 J.ウェッジウッドの製陶工場で原型の製作に従事。 87~94年ローマに留学,この間に美術史家 J.ウィンケルマンの指導を受けた。古典的な様式と高い精神性によって数多くの肖像彫刻を制作。 1800年以後ロイヤル・アカデミー会員,10年に彫刻初代教授。挿絵画家としてもすぐれ,ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』,ダンテの『神曲』などの挿絵を描いた。主要作品『ネルソン墓碑』『レイノルズ像』。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フラックスマン」の意味・わかりやすい解説

フラックスマン
ふらっくすまん
John Flaxman
(1755―1826)

イギリスの新古典主義の彫刻家、挿絵画家。1770年ロイヤル・アカデミーの美術学校入学。87年から7年間ローマに滞在し、古代彫刻などの研究の間に描いたホメロス(1793)やアイスキロス(1795)、ダンテ(1802)の挿絵によって名声を得た。帰国後はおもにモニュメントの彫像作家として活躍。1800年ロイヤル・アカデミーの会員となった。代表作はロンドンのウェストミンスター寺院の「マンスフィールド像」(1795)。

[谷田博行]

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世界大百科事典(旧版)内のフラックスマンの言及

【ブレーク】より

…しかし,当時の新古典主義的歴史画をもっぱらとする主流から離れ,油彩を嫌い,すでに習得していた職人的複製版画の技法を基盤に,創作版画家としての道を目ざす。ストザードThomas Stothard(1775‐1834),J.フラックスマンらから学んだ,輪郭線を主とした素描を生かしてレリーフ・エッチング(腐食した部分にインキを詰めないで残った凸部分にインキをつけて刷る凸版の版画)の技法を開発し,中世写本の効果を再現するような活字と挿絵の融合を試みる。またゴシック期の聖堂や装飾,彫刻の模写を通じて得た中世美術とミケランジェロの芸術への傾倒,そしてJ.H.フュッスリとの交友は彼の造形的源泉となるとともに,強烈な幻想性の糧でもあった。…

※「フラックスマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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