日本大百科全書(ニッポニカ) 「肖像彫刻」の意味・わかりやすい解説
肖像彫刻
しょうぞうちょうこく
実在する特定の人物の姿を写した彫刻。写真術の発明以前は、肖像画と並んで人物の姿形を写し取り後世に伝えるという記念的な意味合いが主であった。彫刻には元来、人物をモチーフにしたものが多く、肖像の作成には格好なジャンルといえる。しかし、制作工程の複雑さもあって肖像画のほうがはるかに多くの作品を残しているが、その歴史は洋の東西いずれも古代にまでさかのぼっている。
[佐藤昭夫]
西洋
古代エジプトの肖像彫刻は墳墓や葬祭殿に安置するための像で占められている。彫像は生命のモデル作りという見地から、与えられた命題に永遠の生命を吹き込むことをモットーとし、王侯貴族像をはじめ多くの像が規範に忠実につくられた。これは明らかに記念像としての肖像であり、神殿や墓に納められた例が多い。理想的典型美を求めた古代ギリシア彫刻には神々の像や空想的な人物像が多く、純粋な肖像彫刻としての優品は少ないが、『ペリクレス像』(前5世紀)などはギリシア彫刻史上、最初の優れた肖像である。また紀元前3世紀ごろに活躍したアレクサンドロス大王専属の肖像彫刻家リシッポスの名は著名である。
ヨーロッパで肖像芸術が確立されたのはローマ時代で、帝王の像を中心に多くの肖像がつくられている。中世に入るとキリスト教美術の隆盛によって彫刻も宗教的なものに絞られ、肖像彫刻はしだいに衰退していったが、15世紀以後のルネサンス期に入ると、個性の確立という時代思潮に沿ってふたたび盛んとなり、英雄像のなかに古典形式を借りて人物のイメージを具象化する傾向が出てきた。ドナテッロの『ガッタメラータ将軍騎馬像』(1447~53)、ベロッキオの『コレオーニ将軍騎馬像』(1496)などがその代表的なものである。
西欧ではその後、肖像絵画の爛熟(らんじゅく)時代を迎えるが、彫刻はつねに絵画と並列の形をとりながら完全に絵画に押されたまま特筆すべきものもない状態で19世紀まで推移した。そして19世紀に入ると、肖像彫刻の世界も従来とは異なった新しい方向に動き始め、とくにロダンの出現が彫刻界に新風を吹き込み人々の注目を集めた。彼の『バルザック像』(1898)は文豪の寝衣で立つ姿を写しているが、単に写実にとどまらず、生々しい息づきとともにモデルの内面の大きさを表現して余すところがない。またブールデル、マイヨールなども肖像制作の面で大いに活躍した。この時代に、いわゆる客観性を基本とする従来のものと、作者の対象への感情投影の所産とされる私的なものとが明確に分離した。
現代に入ると、写真の発明で個人の記録としての必要性は薄れたが、肖像彫刻は地位・身分の象徴としての意味ももち始め、単なる姿形の表出にとどまらなくなった結果、芸術作品としては大きな比重を占めなくなってきている。東洋では像の形似性や客観的表現の追求の面で西洋とは多少趣(おもむき)を異にするが、中国でも古くからつくられた。ことに唐代や宋(そう)以後の多くの高僧像のなかに優れた肖像彫刻が多い。
[佐藤昭夫]
日本
古代の肖像彫刻のほとんどが高僧像で、礼拝の対象でもあった。したがって形式はほぼ一定しており、台座上に結跏趺坐(けっかふざ)し、法衣をつけ、手は印を結ぶか、経巻・数珠(じゅず)などを持つものが多い。その代表的な作品は、奈良時代では唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山「鑑真(がんじん)像」であり、法隆寺夢殿の「行信(ぎょうしん)像」、同じ夢殿の「道詮(どうせん)像」、奈良県岡寺の「義淵(ぎえん)像」などの傑作も多い。この時代は写実的傾向が強いだけに優作があり、いずれも可塑的な乾漆像、または塑像であることは注目される。平安時代には木造の肖像があるが、写実性より内面の精神性を重視したものが多く、東大寺の「良弁(ろうべん)像」はその代表的遺品である。
鎌倉時代には現実の人間描写に焦点が絞られ、外面的特徴が執拗(しつよう)に追求された。東大寺中興の「重源(ちょうげん)像」はまったく容赦のない写実的表現で迫力に満ちている。西大寺の「叡尊(えいそん)像」も細緻(さいち)な写実の像であり、この時代の肖像には東京都池上本門寺の「日蓮(にちれん)像」、神奈川県青蓮寺(しょうれんじ)の「弘法(こうぼう)大師像」のように、裸形だったり、下着だけの像の上に、実際の衣や袈裟(けさ)を着せるという写実の極端な追求を示す像もある。
この時代に流行した禅僧像はとくに頂相(ちんそう)彫刻とよばれる一つの形式をつくりだした。またこの時代には、それまでつくられなかった俗人の肖像が生まれたのも特色で、絵画における似絵(にせえ)の流行と軌を一にするものである。神奈川県明月院の「上杉重房(しげふさ)像」、東京国立博物館の「源頼朝(よりとも)像」、建長寺の「北条時頼(ときより)像」など、鎌倉地方でつくられた一連の作品がある。またこの時期には、中国の宋の影響と写実性の追求から肖像彫刻に塑像が復活したのも特筆すべきで、遺品としては南北朝・室町時代にかけての滋賀県永源寺の「寂室(じゃくしつ)像」、岐阜県安国寺の「瑞巌(ずいがん)像」などがある。その後は肖像彫刻も類型的になり、人形化して個性が失われていった。
日本の肖像彫刻は単に外面的に像主に似せるだけでなく、精神的にも像主に近づける努力もなされた結果、像主の身体の一部を像に使用することさえあったことは特筆されよう。平安時代の三井寺(みいでら)の「智証大師(ちしょうだいし)像」(国宝)は「御骨(おこつ)大師」ともよばれ、大師の遺骨を胎内に納めているといわれ、また室町時代の京都酬恩庵(しゅうおんあん)の「一休像」(重要文化財)は遺髪を像に植えていることなどがその例である。
[佐藤昭夫]
『小林剛著『日本歴史叢書23 肖像彫刻』(1969・吉川弘文館)』