ベアト(読み)べあと(その他表記)Felix Beato

精選版 日本国語大辞典 「ベアト」の意味・読み・例文・類語

ベアト

  1. 〘 名詞 〙 ( [ポルトガル語] beato ) キリシタン用語。聖者。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベアト」の意味・わかりやすい解説

ベアト
べあと
Felix Beato
(1834―1908ころ)

ギリシア生まれのイギリス写真家。名はフェリスFeliceとも書く。地中海に浮かぶケルキラ島に生まれたとされる。1825年生まれの説もある。ケルキラ島は長くベネチア共和国に属し、19世紀以降イギリスが統治した。ベアトはイタリア語を話しベネチア人と自称したが、国籍はイギリス。1853年ころコンスタンティノープルでオスマン帝国(トルコ造幣局の主席彫版員を務め、写真家としても活動したスコットランド系イギリス人ジェームズ・ロバートソンJames Robertson(1813ころ―88)と出会う。当初はおそらくロバートソンのアシスタントから出発し、57年ころから2人は写真に共同のクレジットを記し、ベアトはパートナーの位置を占める。ロバートソンはまた、ベアトの姉もしくは妹のマリア・マティルダの夫。57年までにロバートソンとともに撮影した主な場所は、コンスタンティノープル、マルタ島エジプトパレスチナなど地中海から中近東に及んでいる。クリミア戦争の終わりころの1856年にベアトはその戦場を撮影したが、ベアト作と確実に同定しうる作例は未発見である。

 1858年2月ベアトはロバートソンとの提携関係を解消してインドへ赴(おもむ)き、インドの大反乱(1857)の余波のくすぶる、北部における反乱の拠点都市ラクナウ、カーンプルデリーを撮影。他方、2年あまりのインド滞在で当地の文化的指標となる建築を考古学的な視点から記録する。

 60年アロー戦争の最終局面にあった清朝中国に入ると、イギリス軍の軍事行動に随伴して天津(てんしん)の東方、渤海(ぼっかい)に面した大沽(タークー)要塞の陥落を撮影。このとき中国兵の凄惨な死体を撮影するが、本格的な戦場の死体写真としてはアメリカ南北戦争時のティモシー・オサリバンTimothy H. O'Sullivan(1840―82)らの写真に先行する史上極めて早い作例となった。さらにベアトは、英仏軍が破壊した北京(ペキン)郊外にある皇帝の離宮・清漪園(せいいえん)、紫禁城の城壁、城内にあった清朝の祭祀施設・天壇、北京市内のラマ教の寺院・西黄寺など、清朝の代表的建築を撮影。インド、中国滞在時のベアトには、廃墟や死の風景を写しとることへの強い執着がみられる。

 1863年(文久3)春ころまでに来日、64年(元治1)横浜に画家チャールズ・ワーグマンと写真および複製画販売会社を設立。国内の主要な都市、名所、街道の風景を優れた構図感覚の下に撮影。また日本趣味の濃厚な風俗的肖像写真を多く手がけて外国人居留者や旅行者向けに販売した。64年には英仏米蘭の四国連合艦隊による長州藩の砲台破壊(下関事件)を取材、ほかにも生麦(なまむぎ)事件(1862)後の現場、71年(明治4)アメリカ艦隊の朝鮮・江華島への侵攻事件(辛未洋擾(しんみようじょう))を取材するなど報道写真の分野でも活躍。77年にオーストリア人写真家ライムント・フォン・シュティルフリートRaimund von Stillfried(1839―1911)にネガや機材の一切を譲渡すると写真の制作、販売から撤退し、不動産取引、貿易、洋銀相場などの仕事に専心。ベアトが日本を撮影した写真は、明治中期に日本人写真家の撮影によって観光、輸出産業の商品となる「横浜写真」の原型をなし、日本の写真界に与えた影響も少なくない。

 84年商売に失敗し財産の大半を失い離日するが、経済的な困窮から再び写真家に戻り、翌年イギリス軍のスーダン遠征に加わる。晩年は英領ビルマ(現ミャンマー)のマンダレーとラングーン(ヤンゴン)で当地のエキゾチックな風景、建築、風俗を撮影する一方、ビルマ家具の制作販売、骨董品の売買などを手がけた。

 19世紀にあってはほかに例をみない範囲でオリエントを移動したベアトは今日、報道写真家の先駆者と目される。対外戦争や植民地反乱の場に再三現れて撮影を続けたベアトは、第一にイギリスの軍人、次に自国の中産階級の観賞者や旅行者をそれぞれ顧客としており、その写真は19世紀中期のイギリスにおける帝国主義的、オリエンタリズム的な要請に従って制作されている。同時に彼の写真は、たとえ報道記録においてさえビクトリア朝イギリスに典型的なピクチャレスクな美意識を踏まえつつも、しばしばこれを超える表現意欲を兼備するものである。

 なお、弟のアントニオ・ベアトAntonio Beato(?―1906ころ)は、1860~61年にカイロ、おそらく62年以降はルクソールにそれぞれ写真館を開き営業写真家として活動。1864年、池田筑後守長発(ちくごのかみながおき)(1837―79)を正使とする遣欧使節一行をスフィンクスの前で撮影した写真家として知られる。

[倉石信乃]

『斎藤多喜夫著「横浜写真小史――F・ベアトと下岡蓮杖を中心に」(『F・ベアト幕末日本写真集』所収・1987・横浜開港資料普及協会)』『Colin OsmanThe Later Years of Felice Beato (in The Photographic Journal, November, 1988, Royal Photographic Society of Great Britain, London)』『David HarrisOf Battle and Beauty; Felice Beato's Photographs of China (1999, Santa Barbara Museum of Art, Santa Barbara)』『David HarrisTopography and Memory; Felice Beato's Photographs of India, 1858-1859 (in India; Through the Lens Photography 1840-1911, 2000, Freer Gallery of Art and Arther M. Sackler Gallery, Washington D.C.)』『John ClarkJapanese Exchages in Art, 1850s-1930s with Britain, Continental Europe, and the USA; Papers and Research Materials (2001, University of Sydney, Sydney)』

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朝日日本歴史人物事典 「ベアト」の解説

ベアト

没年:1906(1906)
生年:1830頃
幕末に来日し日本各地の景勝地や風俗を西欧に紹介する道筋を開いたイギリス人写真家。イタリアのベネチアに生まれ,イギリスに渡り帰化。写真の仕事は,義兄のジェームズ・ロバートソンを1850年代に手伝ったことに始まり,中東地域の撮影旅行の成果をロンドンで発表,職業とするに至った。文久3(1863)年インド,中国を経て日本に到着し,イギリスの画家チャールズ・ワーグマンと共に横浜で「ベアト・ワーグマン商会」を開業し,以後明治10(1877)年ごろまで,日本の文物紹介写真と時事的な題材の写真を精力的に撮り歩いた。その一部はワーグマンのエッチングの下絵となり,『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』に寄稿されているが,大半の写真作品はアルバム仕立てで輸出用に舶載された。離日後はシャム(タイ)で木材商を営んでいたという。

(平木収)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ベアト」の解説

ベアト Beato, Felix

1834-? イギリスの写真家。
本国でも知られた写真家で,文久3年(1863)来日。画家ワーグマンとともに横浜でベアト-ワーグマン商会を設立,写真と絵画の複製を制作する。明治2年写真集「日本の風景」「さまざまな日本人」を出版。17年離日。1908年ビルマ(現ミャンマー)での生存が確認されている。

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