デジタル大辞泉 「写真」の意味・読み・例文・類語
しゃ‐しん【写真】
2 ありのままを写しとること。写実。
「文章を綴るに当たりて…―を本意として綴らんは非なり」〈逍遥・小説神髄〉
3 《「活動写真」の略》映画。
[類語](1)印画・光画・陽画・陰画・フォトグラフ・焼き付け・焼き増し
翻訳|photograph
( 1 )「伊京集」に「写真(シャシン) 肖像 已上二ツハ御影」と記されているように、本来は神仏や貴人などを描いた絵を指していた。江戸時代後期に、西洋の画法が蘭学者によって紹介されてからは、ありのままに描くという技法すなわち「写生」の意味でも、またその技法で描かれた絵を指すこともあった。
( 2 )江戸時代末期にありのままの姿が機械によって写された画像が舶来し、英語 photograph の訳語として、「写真」がこれに転用された。当初は「写真の絵」〔和英語林集成(初版)〕とか「写真絵」〔文明開化‐初・下〕、「照画」〔英和字彙(第二版)〕ということもあったが、次第に「写真」に統一され、意味もカメラによって撮影された画像を表わすことに固定された。
( 3 )③のようなサ変動詞も一時的に見られるが、写真を自分で撮影することではなく、写真にうつしてもらう場合が多い。このことは、カメラが普及するまでは、「写真を撮る」が写真にうつしてもらうという一義であったことと同様である。
写真とは、光学的な映像や、放射線、粒子線の痕跡(こんせき)を可視的な画像として固定する技術の総称であり、またそれによって得られた画像をさす。英語のフォトグラフphotographにあたり、語義はギリシア語で「光で描く」ことを意味し、イギリスの科学者ジョン・ハーシェルが、写真術の発明者の一人フォックス・タルボットの発明した紙ネガを用いる写真印画に対して、1830年代末に命名したもの。タルボットはそれ以前から化学反応を応用して光でものの影を写し取る試みを行っており、それをフォトジェニック・ドローイングphotogenic drawing(フォトジェニックは「光に由来する」の意)とよんでいた。なお、フォトグラフィphotographyは写真を制作する行為、すなわち写真術をさす。写真という訳語は、幕末の洋学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水(ばんすい))がその著書『蘭説弁惑(らんぜいべんわく)』の下巻所収の「磐水夜話(やわ)」(1788)のなかで、写生の道具として紹介したカメラ・オブスキュラcamera obscura(ラテン語で「暗い部屋」の意)に、写生と同義語の写真という語を当てて「写真鏡」と命名したことに由来する。
写真は一般的にはレンズによって形成された像を、感光性のあるハロゲン化銀乳剤を塗布したフィルムに投影し光化学反応で潜像を得て、それに現像、定着などの化学処理を施し可視像とし、さらに印画紙へ転写する。また1990年代以降、発達が目覚ましいデジタルdigital(デジタルは「数」の意)写真は、ハロゲン化銀乳剤のかわりに感光性の半導体素子で光学像をデジタル信号に読みかえ、コンピュータによる電子的な処理を経て画像を得る技術で、応用範囲が広く、ハロゲン化銀を用いる写真技術にとってかわりつつある。
写真の活用と応用の範囲はきわめて広く、一般的な記録や記念、視覚表現のためのみならず、科学の基礎研究から工業、土木、医学、天文学、宇宙等の諸分野で学術的な利用がされている。こうした専門性の高い写真の活用は、1990年代以降、コンピュータによる画像処理技術と結び付き、またさらにデジタル写真の普及と相まって、より多様化し、その可能性を拡張しつつある。
[重森弘淹・平木 収]
今日、われわれは写真という視覚伝達手段が存在しない社会を、想像することさえ困難である。ことばや文字の歴史に比べると、19世紀前半に発表された写真の歴史はきわめて浅い。しかし、現代の現実的な文化状況を顧みると、ことばや文字と写真をはじめとする映像表現は、対等といえるほど重要な手段となっている。こうした事実を踏まえて、写真という手段の文化的な意義を改めて問うてみると、写真術が実用化されるはるか以前から、人類には視覚を共有したり、自らのまなざしを他者に伝えたり、リアリティーのある視覚像を時代を超えて伝えたりしたいといった願望が存在したことがわかってくる。すなわち、写真の誕生が19世紀であったのは史実であるが、写真的なるものへの願望は、ことに西欧社会では古代からはぐくまれていたのである。それが実現するにはルネサンス、そして産業革命や市民社会の形成という時代のプロセスを必要とした。
一方、近代市民社会が成立した18世紀には、市民階級の絵画所有熱を背景にして各種の版画技術が出そろって絵画の複製が行われ、写真術はむしろ新しい版画技法の誕生として熱烈に歓迎された。自由と平等を理念とする近代市民社会の成熟があってこそ、写真は誕生したといえよう。
複製手段としての写真術は、外的世界の客観的な記録ならびに再現の機能に支えられつつ、やがて印刷術と結び付いてメディアとしての体勢を整え、のちにグラフ・ジャーナリズム時代を開花させる。カメラは、異なった時・空間に生起するあらゆる社会事象を人々にかわって体験的に目撃し、迅速かつ広く大衆社会に伝達する。かくして世界はレンズの前に開かれ、大衆は現にそこに投げ入れられたような瞬間を意識するようになる。このような現在意識と現実の共有感覚は、われわれの日常意識に深く浸透している。
他方、写真に写された事象はすべて過去に生起したものの、その一瞬の凍結だといえる。そこで、フィルムはしばしば記憶を貯蔵する鏡とされ、レンズは外へ向けられた窓の働きをしているといえる。事実、カメラはどのような場所にも不意に現れ侵入する。しかも自由なカメラ・アングルはそれまでの固定した視点を解放し、対象は新しい意味とイメージを提示する。レンズは遠くのものを引き寄せるばかりでなく、近くのものにも限りなく接近し、ついにかなたの天体からウイルスの素顔までもとらえる。さらに、目に留まらぬ運動をする物体の瞬間的なビジョンをすばやく固定し、動きに対する肉眼の印象のあいまいさを指摘してやまない。
このようなカメラの適用範囲の広さと裸の目としてのレンズの率直な観察力を背景にして、1930年代にグラフ・ジャーナリズム時代が訪れる。史上最大の発行部数を誇ったアメリカの代表的なグラフ雑誌『ライフ』の創刊にあたって発行者ヘンリー・ルースは、「生活や世界を見る。大事件を眼前にする。貧しい人たちの顔と、おごれる人たちの姿を見る。新奇な事象――機械、軍隊、群衆、ジャングルの中と月の表面の影――を見る。人間の創造物――絵画、塔、そして発明・発見――を見る。1000マイルも隔たったもの、壁の背後と部屋の中に隠されているもの、接近しては危険なものを見る。愛する女性や多くの子供たちを見、かつ見ることに喜悦する。見、かつ驚く。見、そして教えられる」と創刊の趣意書に書き、視覚文化時代の到来を告知したのであった。
けれども、このような「写真の時代」への楽天的な姿勢はすぐに訂正されることになる。グラフ・ジャーナリズムは発行部数を伸ばすにつれて機構的に巨大化し、システム化された編集は個々の写真家の発表活動や個性を統制し画一化したばかりでなく、『ライフ』のようにアメリカの世論を代弁する役割をもつようになると、国益のためにイデオロギー的にならざるをえず、しばしば政治的情況に内容が揺れるようになる。あるいは、大衆に迎合してセンセーショナルな編集に堕することも多く、数多くの人権上の問題がそこに発生した事実は、今日もなお、マス・メディア社会が抱える大きな問題として、論議や研究が行われ、ついには、メディアをどう読み解くかという知的な技術「メディアリテラシー」という学問分野の誕生にまでつながってゆく。
またテレビの出現は最初に映画を脅かしたばかりでなく、速報性や報道の臨場感においても写真に大きな影響を及ぼし、改めて写真の記録性に反省が強いられるようになった。『ライフ』が最盛期850万部の発行部数を誇りながら、1978年復刊したとはいえ、1972年いったん休刊を余儀なくされたのも、こうした事実が背景にあった(2000年5月廃刊)。
しかし写真は、映画、テレビと共存し、静止した映像の特色を生かしつつ、印刷媒体では活字文化と車の両輪の役割を果たしており、報道、広告・宣伝、芸術的表現、学術において、依然として大きな役割を占めている。
[重森弘淹・平木 収]
日本のカメラの普及率は、すでに一家に2台以上に達するといわれる。とくに1960年代中ごろ以降、操作の簡便なカメラが普及し、1980年代には使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)も日常化し、初心者にも自由に使えるようになった。それらの使用目的の大半が記念写真や気軽なスナップ写真であることはいうまでもない。また、動画像についても小型ビデオカメラの発達が受け手としてのみの受容意識を変えたが、その点、写真は誕生期からアマチュアが創造の担い手となっており、また送り手でもあったことに注目しておく必要があろう。
記念写真が重要なのは、個人・家族・集団の貴重な時間、つまり思い出に防腐処置を施す意味があるからであり、また分身として礼拝されたり護符の役割を果たすからである。そこで記念写真は個人にとってしばしば視覚の物的な痕跡(こんせき)ですらある。一方、記念写真は私的な記憶でありながら、時間の経過とともに、時代の客観的記録として資料的価値をもつようになることも事実である。ときには公式的な写真記録や、報道写真以上に、個人的な動機から撮影された記念写真に記録的な真実味のあふれていることがある。1970年代以降、パーソナル・メディアとしての写真のあり方が再考されるようになり、改めて個人のアルバムの発掘が盛んとなった。個人のアルバムも特定の目的に沿って一定の文脈によって再編集されることで、民衆史の視覚的な資料として再評価の対象となりだした。個人の生活にとっていまや記念写真は欠くべからざるメディアといってよく、また私的な記憶を超えた再生産性に注目しなければならない。
[重森弘淹・平木 収]
他方、写真は芸術の手段でもある。写真は当初、もう一つの版画として、いいかえれば芸術の複製手段として歩み出したが、やがてその独自の複製技術によってのみ可能な表現領域を開拓し、複製芸術として自立するのである。しかし、写真は初期、先行芸術としての絵画に強く影響されたのも事実で、19世紀は全体的に「絵画的写真」の時代でもあった。
20世紀に入って、カメラの機能に忠実な表現、換言すれば機械的リアリズムにのっとった表現方法を自覚するに及んで、写真芸術も革新される。むろん、20世紀の各芸術ジャンルと密接に交流し、相互に影響を与え合いつつ今日に至っている。写真はマス・メディアとしての報道写真や広告写真、さらに各種の学術写真(科学・応用写真)を含む一方、純然と芸術としての写真創造の伝統を伝えている。
写真の対象は、報道、広告を問わず、人物、風景、自然、都市、風俗など、およそ人間と人間にかかわりのあるもの、レンズの及びうるものすべてにわたっている。報道や広告の写真が、その目的のためのコミュニケーションを第一義とする表現とするならば、芸術としての写真は、題材を共有しつつも、美的表象と芸術的鑑賞の対象として創作されるものである。
しかしながら、コミュニケーションや学術的な目的を第一義として撮影された写真も、「芸術としての」という文脈上から、鑑賞対象として作品視されることもしばしばあるところが特徴的である。事実、天体写真などの科学的な記録や、ドキュメンタリーの場合でも、それがわれわれの美的感性を喚起し、また人間性の真実を提示しているものは、芸術としての文脈上から、美術館に展示されることも少なくない。これは要するに、写真の記録性が新鮮なリアリティーを根底に内包しているからである。そこでこのリアリティーが他の芸術ジャンルの表現傾向に強い影響をも及ぼす原因になっている。その半面、なお「芸術としての」という文脈が流動的で確定していないことも示しており、はたして写真は芸術や否やといった議論が現在もときにおこる要因ともなっている。
1980年代以降、日本でも公共美術館での写真コレクションが始まり、写真と美術館の関係はきわめて重要な意味をもつようになった。1983年(昭和58)個人の写真家の展示館として世界最初といってよい土門拳(どもんけん)記念館が作者の郷里山形県酒田市に開設された。続いて1988年には川崎市市民ミュージアム、翌1989年(平成1)には横浜美術館がそれぞれ写真部門を設けて新規に開館し、1995年には東京都写真美術館も開館した。また東京と京都の二つの国立近代美術館も写真作品の収集と展示に着手するに至った。
今日、マス・メディアとしての写真とは別に、純粋に表現的創作的な方向を目ざす写真をシリアス・フォトとよび、ギャラリーがその主たる発表舞台となっている。これらシリアス・フォトの担い手には、専門作家のほかにアマチュアも多い。
19世紀には、欧米諸国の場合も、アマチュアが芸術写真を担ってきた。1世紀以上続いているアマチュア団体もあり、現在も数多くのグループ結社がある。コンペも盛んに行われ、写壇なるものを形成している。
[重森弘淹・平木 収]
写真術が実用化されたのは19世紀前半のフランスやイギリスにおいてであるが、その写真術とは一朝一夕に考案されたものではなく、きわめて長い胎動期を経てようやく実用化をみた技術なのである。写真という技術を分析的にとらえると、光の像を結ぶ光学系(レンズやピンホール)と、その像を確保するための外光を遮る暗箱、そして光の像、すなわち映像を受け止めて、それを消えない画像に転化する感光材(フィルムなど)の三つの要素から成り立っている。写真の発明、あるいは実用化とは、この三つの要素が組み合わさり映像を恒久的に保存できるようになったことを意味する。そしてその欲望ないし欲求は、実はルネサンス期からのものであり、またそうした欲求の原点には、古く古代ギリシアにまでさかのぼる科学的な思惟(しい)が深く関係している。写真とは、西洋における精神史のたまものなのである。
古代ギリシアのアリストテレスは、史上初めて光の結像現象、つまり映像について記述したが、その記述は彼の哲学思想とともに古代ローマからビザンティン、またイスラム文化へと継承され、中世にはイギリスのスコラ学者ロジャー・ベーコンが光学の研究に手を染めている。そうした知の延長上に、ルネサンス期のイタリアで建築家のフィリッポ・ブルネレスキが設計上の必要性から、そしてレオナルド・ダ・ビンチが絵画制作の完璧(かんぺき)さを期して人間の肉眼と光学像の関係に着目し、ともに幾何学的な遠近画法を考案した。そうした人間の視覚の科学的な探究が、やがてナポリのジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタGiovanni Battista della Porta(1538―1615)の提案したデッサンのための暗い箱カメラ・オブスキュラ(ピンホール・カメラ)へとつながってゆく。17世紀の前半には画家たちは今日のカメラの原型であるカメラ・オブスキュラを実際に用いていたし、18世紀末には「写真鏡」の名で日本へも輸入され、西洋画の先駆者である司馬江漢(しばこうかん)もそれを用いていた。
ゆえに17世紀から19世紀にかけては、今日のフィルムに相当する物質がなかっただけで、カメラとその使い手は存在したのである。肉眼の視覚のように描きたいという欲求は、やがてヨハン・ハインリヒ・シュルツェJohann Heinrich Schulze(1687―1744)らの錬金術的な光の化学と出会い、ニエプスやダゲール、タルボットの実用的な写真技術の完成へと発展したのである。
他方、古代人は、ある種の物質に光が当たると、その表面が変化する現象を知っていたが、おそらく光に対するアニミズム信仰を抱いていたと考えられる。1727年シュルツェは、その変化する物質が銀塩類であることを証明した。またイギリスのトマス・ウェッジウッドThomas Wedgwood(1771―1805)は、19世紀の初め硝酸銀溶液を塗布した紙や皮革上に、ガラスに描いた油絵や線画をのせて露光する日光印画を作製している。
一方、近代市民社会の成立に伴う大衆の肖像熱にこたえて、フランスではシルエットをなぞるフィジオノトラースという装置が18世紀末に考案された。イギリスではウィリアム・ハイド・ウォラストンが、プリズムを応用した「明るい部屋」を意味するカメラ・ルシダなるデッサン補助用具を1806年に考案している。
[重森弘淹・平木 収]
1822年(1826年説もある)7月、フランスのニエプスは、アスファルトを塗布した金属板に像を残すことに成功し、1826年夏に「書斎からの眺め」を撮った。カメラ・オブスキュラを使用し、定着された最初の風景写真であった。彼はこれを「太陽の描く絵」を意味するヘリオグラフィと名づけた。
同じフランスで、役者が出てこない風景のみの舞台を見せる見世物小屋ジオラマ館の興行師であったダゲールは、その原画にカメラ・オブスキュラを利用していたことから写真の研究に進み、1829年ニエプスと研究契約を結んだ。4年後ニエプスは死去し、そこでダゲールは独力でダゲレオタイプ(銀板写真)を完成した。1839年8月フランス科学学士院で正式の発明品として認められ公表された。
ダゲレオタイプは、銀板もしくは銀を塗布した金属板にヨウ素蒸気を当てたもので、映像はきわめて鮮明であった。欠点としては、鏡像同様に左右逆像であること、複製ができないこと、露出に20分以上要したことなどがあったが、新しい発明品としてまたたくまに全世界に迎えられた。
一方フランスの財務省官吏イポリット・バイヤールHippolyte Bayard(1801―1887)も同じころ、すでに写真研究を始めており、硝酸銀溶液を塗布した塩化ナトリウム紙に、カメラ・オブスキュラを使って映像を完成したが、ダゲレオタイプの発表に衝撃を受け、科学学士院に申請したものの受理されなかった。そこで1840年溺死(できし)人を演じたセルフ・ポートレートを発表し抗議した。
イギリスのタルボットは当初カメラ・ルシダを使ってスケッチしていたがうまくいかず、結局カメラ・オブスキュラと紙の感光材を用いて撮影し、没食子(もっしょくし)硝酸銀を用いて潜像から現像する方法を1840年に完成した。いわゆる現代のネガ・ポジ法の原型である。タルボットはそれ以前の方法をフォトジェニック・ドローイングとよんだが、新しい完成手法について、ギリシア語の「美しい」を意味する「カロス」と、「描く」意の「タイプ」を合成してカロタイプと名づけた。また、友人ジョン・ハーシェルの示唆でフォトグラフィの語も生まれた。タルボットは芸術的才能もあり、1844年から1846年にかけて作品集『自然の鉛筆』を刊行した。カロタイプによる24枚のオリジナル・プリントで、建築、風景、植物、グラスなどを題材としており、とりわけデザイン的な処理をした静物作品は秀作である。イギリスのデビッド・オクタビアス・ヒルと助手のロバート・アダムソンRobert Adamson(1821―1848)は、このカロタイプによる肖像写真を制作して優れた作品を残した。
[重森弘淹・平木 収]
1850年代はダゲレオタイプやカロタイプによる肖像写真(ポートレート)が大衆的な人気を博した。多くは画家から転向した写真家が欧米の各地でスタジオを開いた。ダゲレオタイプの肖像写真家としてもっとも著名なのはアメリカのアルバート・サンズ・サウスワースAlbert Sands Southworth(1811―1894)とジョサイヤ・ジョンソン・ホーズJosiah Johnson Hawes(1808―1901)の共同スタジオによるもので、性格描写を目標とした彼らの作品は人物の風貌(ふうぼう)を堂々と撮っている。
イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーは、ダゲレオタイプとカロタイプの欠点を改良し、ガラス板に感光剤を塗った湿式コロジオン法を発明した。露出時間も6秒に短縮され、かつネガから多くのプリント作製が可能となった。湿式コロジオン法を応用してフランスのアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディデリAndré Adolphe Eugène Disdéri(1819―1890)は名刺サイズを考案し、量産システムに成功した。ナポレオン3世は、イタリアへ出発する軍隊を彼のスタジオ前で止め、兵士たちに肖像を撮らせている。
イギリスの上流夫人マーガレット・カメロンは、48歳から写真を始め、晩年は当時を風靡(ふうび)した絵画ラファエル前派に影響された寓意(ぐうい)的な作風に堕したが、それ以前のポートレートは19世紀写真史のなかでもっとも高い評価を受けている。彼女は湿式コロジオン法を使ったが、少量の光で7、8分の露出時間をかけた。そのために映像はぶれがちで、職業写真家たちから非難を受けたにもかかわらず、とりわけクローズ・アップ像は当時もっとも新しい手法であり、人物の性格を生き生きと表象していた。彼女自身、人間の「永遠の内容」を再現したいと願っていたが、とりわけ「ジョン・ハーシェル卿(きょう)」(1869)や「トーマス・カーライル」(1867)は傑作中の傑作である。
同じころ、教師で『不思議の国のアリス』の著名な作家ルイス・キャロルはおびただしい少女像を撮り、日常的なポーズで無邪気さを強調し、1970年代以降、写真史上再評価されるようになった。
フランスのナダール(本名ガスパール・フェリックス・トゥルナシオン)は風刺画家であったが、パリにスタジオを開き、社交場的な人気も博した。ドラクロワ、ドーミエ、コロー、アングル、ミレー、マネ、モネといった画家、ロッシーニ、ワーグナーなどの音楽家、ユゴー、大デュマ、ボードレール、ジョルジュ・サンドなどの作家のほか、女優サラ・ベルナールらをモデルにして傑作を残した。当代きっての個性の強いモデルたちに向かって、ドラマチックな照明と精密なピントで迫り、モニュメンタルな風貌にまで仕上げた。もともと風刺画家として世相に旺盛(おうせい)な興味をもっていたので、地下墓地や下水工事の光景を、アーク灯による最初の人工照明撮影を行って撮ったり、1858年には熱気球を飛ばして史上初の空中撮影を試みたりして、ますますパリ市民の注目を集めた。エチエンヌ・カルジャÉtienne Carjat(1828―1906)も、ナダール同様、ボードレールらを撮影し、正攻法的な表現ながら威厳のある個性をとらえたが、ナダールの人気には及ばなかった。
[重森弘淹・平木 収]
イギリスでは写真史初期、ラファエル前派などの影響もあって、絵画的なタッチと寓意的な内容の芸術写真が主流となった。とりわけオスカー・ギュスターブ・レイランダーOscar Gustave Rejlander(1817―1875)やヘンリー・ピーチ・ロビンソンはその代表であった。前者は「人生の二つの道」(1857)で30枚のネガから合成印画をつくったが、テーマは勧善懲悪的なものであった。古典主義の画家が歴史画を描くときのようにモデルに俳優を動員しており、画面に登場するヌードとしては写真史上もっとも初期のものと思われる。またこの作品は78.7センチメートル×40.6センチメートルという大きなもので、ビクトリア女王に買い上げられている。後者も、5枚のネガから合成した少女の「臨終」(1858)を完成させた。
レイランダーやロビンソンに対して、ピーター・ヘンリー・エマーソンは、自然主義思潮に共鳴し、彼らの作品を「文学的詭弁(きべん)と美術的時代錯誤の典型」として排し、著書『自然主義的写真術』(1889)を出し、そのなかで、写真は独立した芸術であり、人間の視覚に忠実な映像であるべきこと、合成や修整は許されないことを説いた。またその実践として白金印画40枚の作品集『ノーフォークブローズの生活と風景』(1886)を発表している。彼自身バルビゾン派の絵画を支持していた。やがて過度にぼかす軟焦点描写が行われるようになったことに怒り、『自然主義写真の死』(1890)を著して写真界から引退した。
一方、軟焦点派のフレデリック・エバンズFrederick Henry Evans(1852―1943)らは、1893年ロンドンで「サロン展」を開き、その影響がたちまち欧米に広がった。いわゆるサロン写真の名称はここに端を発している。
フランスでは1880年代にアマチュア中心のパリ・カメラ・クラブが結成され、ゴム印画によるロベール・ドマシーRobert Demachy(1859―1936)や、やや寓意的な内容に即したコンスタン・ピュヨーÉmile Joachim Constant Puyo(1857―1933。通称カミーユ・ピュヨー)らがピクトリアリスト(絵画的写真家)として活躍した。
[重森弘淹・平木 収]
近代市民社会の成熟期に生まれた写真はもともと都市的なメディアであった。ダゲールは都市の光景としてもっとも早く「タンブル大通り」(1839)を俯瞰(ふかん)したし、タルボットも「オックスフォードの街」(1843)を深い空間描写でとらえている。パリ市は1865年におりからの大改造都市整備にあたってシャルル・マルビルCharles Marville(1816?―1878/1879)をその公式記録写真家に任命し、克明かつ膨大にパリの変貌過程をとらえた。アンリ・ビクトール・ルニョーHenri-Victor Regnault(1810―1878)、シャルル・ネーグルCharles Negre(1820―1880)らも同様であった。
アメリカでは、発展期のニューヨークをエドワード・アンソニーEdward Anthony(1840?―1901)が、建設中のアトランタをジョージ・バーナードGeorge N. Barnard(1819―1902)が撮るなど、都市への関心は、都市を構成するあらゆる要素、建物、風俗、社会問題に広がり、現在まで継承されている。
[重森弘淹・平木 収]
1840年代から1870年代にかけては旅行と冒険の時代でもあり、旅行家や冒険家にとってカメラはなくてはならぬ武器であった。フランスの作家マキシム・デュ・カンMaxime Du Camp(1822―1894)は1849年作家仲間のフロベールとともにエジプト、ヌビア、パレスチナを旅してカロタイプ法による写真を撮っている。イギリスのサミュエル・ボーンSamuel Bourne(1834―1912)は1863年から1866年にかけて3回ヒマラヤを土地の風俗生活を含めて記録した。
[重森弘淹・平木 収]
アメリカでは絵画的写真が成長するいとまもなく南北戦争が始まり、まず肖像写真家としても著名であったマシュ・ブラディが写真馬車で戦場を駆け巡り、7000枚に及ぶ白熱的な記録を残し、彼の助手で、のちに独立したアレクサンダー・ガードナーも、『戦争のスケッチブック』(1866)を完成した。なお初期の戦争写真としてはイギリスのロジャー・フェントンRoger Fenton(1819―1869)のクリミア戦争の記録(1855)がある。
南北戦争後、中断していた西部開拓が再開され、従軍写真家の多くは開拓に伴う調査隊に従事して写真記録にあたった。このうちガードナーはユニオン・パシフィック東部線建設を記録している。ティモシー・オサリバンTimothy H. O'Sullivan(1840―1882)は政府の未開地調査に同行し、コロラド、ニュー・メキシコに分け入り、またウィリアム・ヘンリー・ジャクソンWilliam Henry Jackson(1843―1942)は当時地図にもなかったイエローストーン地方と巨大な間欠泉を発見、カールトン・エモンズ・ワトキンスCarleton Emmons Watkins(1829―1916)は西部ヨセミテ渓谷(1863)を雄大に記録した。
[重森弘淹・平木 収]
写真史では、写真独自の表現美学を自覚した20世紀初頭をもって近代写真の時代の始まりとする。アメリカのアルフレッド・スティーグリッツはドイツに留学中、エマーソンに認められ、帰国後、修整・加筆などの絵画的手法に頼らず、写真の機能を美的に使うストレート・フォトグラフィを提唱し、近代写真の表現的コンセプトを確立した。1897年から1902年にかけて『カメラ・ノーツ』誌を刊行してピクトリアリズムと闘い、1902年ドイツでおこったアカデミズムからの個性的独立を図る美術運動セセッション(分離派)に倣って、フォト・セセッションをおこした。翌年機関誌『カメラ・ワーク』を発刊、1905年「291ギャラリー」(当初は「リトル・ギャラリー」)を開設した。この運動にはエドワード・スタイケン、ガートルード・ケーゼビアGertrude Käsebier(1852―1934)、クラーレンス・ホワイトClarence Hudson White(1871―1925)、フランク・ユージンFrank Eugene(1865―1936)、ポール・ストランドらが参加した。フォト・セセッションは一種の新しい絵画主義であったが、スティーグリッツ自身、ハンドカメラによる独創的なスナップショットや純粋造形手法の導入、また太陽と雲を題材にした精神的世界の隠喩(いんゆ)的象徴化を試み、それらの作品群は画期的なものであった。また、ストランドはストレート・フォトグラフィのもっとも忠実な実践者として、以後の写真的リアリズムに大きな影響を与えた。スタイケンもまた、スティーグリッツの後継者として、ポートレート、ファッションに大きな足跡を残し、第二次世界大戦後は初代のニューヨーク近代美術館写真部長として展覧会「ザ・ファミリー・オブ・マン(われらみな人間家族)」をプロデュースするなど巨匠として君臨した。
カリフォルニアの写真家エドワード・ウェストンは、事象の生命的本質に迫るためには肉眼以上に見るレンズの機能を可能な限り利用しなければならないとし、事実、形態を極度に単純抽象化して、しばしばオブジェ的な表現に到達し、写真的リアリズムの結晶ともいえる作品を数多く残した。この影響下から、大型カメラの最小絞りを駆使して、そこに写真的リアリズムの手法的根拠を求めようとする「F64グループ」が結成(1932)され、アンセル・アダムズやイモジェン・カニンガムらがこれに参加した。アダムズはオリジナル・プリントの達人で、西部一帯の風景を雄大に撮り続けたし、カニンガムも即物的表現で、精密なリアリズム描写を行った。
[重森弘淹・平木 収]
1910年代末から1920年代にかけて写真は画期的な機械芸術として同時代のアバンギャルド芸術から同伴を求められてさまざまに交流し、表現的にも目覚ましい前進や実験的手法が試みられた。まずフランスのウジェーヌ・アッジェは、画家の下絵として販売すべくパリの街角を率直な視線でとらえた写真を制作し、晩年にマン・レイによって発見されたが無名のまま没した。マン・レイはアッジェの徹底した記録手法のかなたに浮上する超現実主義的なイメージに驚いて、『シュルレアリスム革命』(1926)の表紙にこれを掲載した。以後、アッジェは近代写真最大の巨匠の一人として評価されている。
写真はダダイズム、シュルレアリスム、構成主義、新即物主義、抽象主義などに表現的なコンセプトから接近した。まずチューリヒのダダイスト、クリスチャン・シャッドChristian Schad(1894―1982)は、印画紙上に物体を置いて露光させるシャドグラフという抽象的な手法を開拓(1918)した。ダダイスト、マン・レイも同様の手法によるレイヨグラフを1921年に、構成主義者モホリ・ナギも同様に同年フォトグラムを成功させた。ダダイスト、ジョン・ハートフィールドは政治風刺画家ゲオルク・グロッスなどと同志的に結び、フォトモンタージュ手法によって激しくナチスを攻撃した。
モホリ・ナギは、ドイツの造形学校バウハウスで教鞭(きょうべん)をとりつつ、『絵画・写真・映画』(1925)で、写真を「光の造形」とする理念を唱えたが、これは光と影による抽象主義的造形を志向するものであった。抽象主義的な傾向としては、すでにイギリスのアルビン・ラングドン・コバーンの非対象写真(1904)が先駆的な作品としてある。モホリ・ナギはさらに、印刷された写真と文字の組合せによるタイポフォトを実践し、グラフィック・デザインに多大な影響を与えた。ドイツのフランツ・ローFranz Roh(1890―1965)とヤン・チヒョルトJan Tschichold(1902―1974)はモホリ・ナギに共鳴し、著書『フォト・アウゲ(写真眼)』(1929)で、写真を、クローズ・アップ、仰瞰(ぎょうかん)、俯瞰(ふかん)、長時間露出、高速度撮影、ネガティブ・フォト、X線、リアル・フォト、フォトグラム、フォトモンタージュ、タイポフォトに分類し、機械芸術としての写真表現のあり方を強調した。日本の新興写真は『フォト・アウゲ』に示唆されたものであった。
1925年ドイツの反表現主義美術運動として組織されたノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)は、客観主義的な立場から徹底した即物的描写で、対象の呪物(じゅぶつ)的イメージを浮上させたために、魔術的リアリズムともいわれた。写真ではアルバート・レンガー・パッチュが、日常的な事物にまで題材を拡大し、また鮮烈なピント、極端なクローズ・アップを駆使して『世界は美しい』(1928)を出版し、この題材の日常への広がりや客観的記録主義が、やがてフォト・ルポルタージュのコンセプトへ発展することになる。
[重森弘淹・平木 収]
1920年代において明確となった機械芸術としての自覚、科学分野への寄与、日常的なものへの題材の拡大などが、写真の社会に対する発言力を自信づけることになる。一方、写真は新しい視覚として、とくに事物の瞬間的ビジョンをいかにとらえるかという欲求がすでに19世紀末から胎動していた。コダック社によるハンドカメラ(1888)の発売もそうであったし、イギリス出身のエドワード・マイブリッジの連続写真も例外ではなかった。彼は1872年から、12台ないし24台のカメラで馬のギャロップの連続写真を撮り、その動態のビジョンに、それまでの馬の絵画描写ではまったくとらえられなかった瞬間のあることを提示した。それにより、カメラの目の視覚の確かさが立証されたばかりでなく、運動=時間への大衆の関心が高められた。この連続写真をもって映画の原型とする考え方もある。フランスのエティエンヌ・ジュール・マレーも高速度連続写真を開発している。
1925年エルンスト・ライツ社(現、ライカ・カメラ社)から35ミリフィルム(映画のスタンダード・フィルム)を利用したライカが発売された。ついで距離計連動式(レンジ)ファインダー方式やレンズ交換可能な改良が施され、このスナップ・カメラの出現によって写真表現も画期的な変化を迎えることになる。ドイツのエーリッヒ・ザロモンは、帽子にライカを潜ませて国際連盟会議で撮影して驚かせ、「キャンディッド(公平率直な)・フォト」と称された。フランスのアンリ・カルチエ・ブレッソンも終始ライカで、現実の偶然なイメージをとらえ、作品集『決定的瞬間』(1952)は衝撃的な影響を与えた。
写真の印刷を可能にした網版が1880年に発明され、新聞の高速印刷にも採用されて、写真のマス・メディア化の方向が明確となった。1929年にはドイツのウルシュタイン社が日刊写真新聞『ウルシュタイン・テンポ』を発刊、また同社はすでに週刊誌『ベルリーナ・イルストリールテ・ツァイトゥンク』を出版しており、ようやくグラフ・ジャーナリズム時代の幕が開かれることになる。1936年アメリカでは『ライフ』が、翌年には『ルック』が創刊され、さらにその翌年にはフランスの『パリ・マッチ』も出て、フォト・ルポルタージュも形式的、内容的に充実する。『ライフ』はフォト・エッセイというストーリーを展開する形式も創造した。『ライフ』の写真家、マーガレット・バーク・ホワイトは文明批評的な視点からのルポルタージュを発表し、アルフレッド・アイゼンシュタットAlfred Eisenstadt(1898―1995)も創刊以来、激動する世界史の現場の目撃者として終始した。
1929年、ニューヨークのウォール街の大恐慌に際して、農政安定局(FSA)資料部長ロイ・ストライカーRoy E. Stryker(1893―1975)は、アメリカ南部農業の実態をカメラ・キャンペーンによって啓蒙(けいもう)する構想の下に、まずウォーカー・エバンズとドロシー・ラングを起用し、ついでアーサー・ロスタインArthur Rothstein(1915―1985)をディレクターに据え、画家・写真家のベン・シャーン、ゴードン・パークスGordon Parks(1912―2006)、カール・マイダンスCarl Mydans(1907―2004)らを加え、1937年から約7年間に20万枚に及ぶ貴重な記録を残した。エバンズはそれ以前、初期移民たちのビクトリア風様式の住宅記録者として知られ、また第一次世界大戦後は地下鉄乗客のスナップをしたりして、1930年代以降もっとも影響力のあった写真家として注目される。
アメリカには西部開拓の記録以後、急激な都市化に伴うさまざまな都市公害に取り組むドキュメンタリーの精神的伝統があり、デンマーク移民のジェイコブ・オーガスト・リースは、自身がスラム街に転落した体験からその実態をカメラでキャンペーンしたし、ルイス・ウィックス・ハインは、移民の追跡や幼児労働の実態、エンパイア・ステート・ビルディングの建設過程の記録などで大きな功績を残した。
都市の風俗については、フランスのブラッサイの1930年代のパリの生態や、ブダペスト、パリ、ニューヨークと移りつつ洗練されたスタイルで撮り続けたアンドレ・ケルテスAndré Kertész(1894―1985)、パリ下町の人情をユーモラスに記録したロベール・ドアノー、都市の建築を精密に記録したアメリカのベレニス・アボット、パリの上流階級をその階級出身者の目で撮ったジャック・アンリ・ラルティーグ、ニューヨークの暴力を徹底して記録したウィージーらがいる。
また不況時代の典型として「家庭のイギリス人」(1936)を撮ったビル・ブラントBill Brandt(1904―1984)や、1920年代ドイツのあらゆる階層人を記録したアウグスト・ザンダーの名も逸することはできない。
[重森弘淹・平木 収]
戦争写真家として名をあげたハンガリー生まれのアメリカ人、ロバート・キャパや、アンリ・カルチエ・ブレッソン、子供の生態記録で知られるデビッド・シーモアDavid Seymour(1911―1956)らは、1947年パリで写真通信社マグナム・フォトスを結成し、第二次世界大戦後のグラフ・ジャーナリズムに斬新(ざんしん)なフォト・エッセイを提供して報道写真界に大きな影響を与えた。そのメンバーには、ヒューマンなドキュメントで知られるアメリカのウィリアム・ユージン・スミスや、カラーの魔術師エルンスト・ハースErnst Haas(1921―1986)、ハーレムのフォト・エッセイなどで知られたブルース・デビッドソンなどの俊秀がそろった。しかし、グラフ・ジャーナリズム自体は、テレビの影響などで苦難の時代を迎えた。
他方、注目されるべき写真家として、スイスからアメリカに移住したロバート・フランクや、ニューヨークからパリに移ったウィリアム・クラインがいる。フランクは人種のるつぼであるアメリカ社会に人間の運命を淡々と見つめた『アメリカ人』(1958)で以後の写真界に決定的な影響を与えたし、クラインはニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京と都市のダイナミズムを文明批評的にとらえて、都市が写真にとって最大のテーマであることを示唆した。さらに、文明社会人の肉体的・精神的なひずみを真正面から撮ったダイアン・アーバスも神話的な存在となった。
広告、ファッション分野では、アメリカのアービング・ペンとリチャード・アベドンが圧倒的な才能を示し、また両者とも人物写真に優れた批評的観察と格調のある様式を確立している。
シリアスな分野では、厳しい抽象的表現でアメリカのハリー・キャラハンやアーロン・シスキンが知られる。また私的で内省的な『自画像』(1970)を制作したリー・フリードランダーがいる。いずれにしても第二次世界大戦後は、対象現実を既成の思想的尺度で図式化したり、ストーリー的に再構成するより、私的で相対的な視点に深まりをみせている。それだけ写真家にとって対象世界の構造が複雑でみえにくいものとなっているのであろう。
[重森弘淹・平木 収]
1848年(嘉永1)オランダ船でダゲレオタイプが長崎に入り、1857年(安政4)9月17日、薩摩(さつま)藩士市来(いちき)四郎(1828―1903)らが藩主島津斉彬(なりあきら)を撮影したのをもって日本最初の写真とする説が有力となった。その後、蘭学(らんがく)を奨励した各藩で写真術への道が模索された。またペリー艦隊によって伊豆下田(しもだ)にダゲレオタイプがもたらされ、それに触発されて横浜の下岡蓮杖(しもおかれんじょう)は、アメリカ人写真家ウンシンから湿式コロジオン法を学び、1862年(文久2)同地に写真館を開設した。また同年、長崎の医学伝習所で蘭医ポンペに化学を学んで化学書『舎密局(せいみきょく)必携』を著した上野彦馬(ひこま)も、時を同じくして「上野撮影局」を開業した。さらに安政(あんせい)末、木津幸吉(1830―1893)がロシア領事に湿板術を学んで1864年(元治1)箱館(はこだて)に写場を開いた。
[重森弘淹・平木 収]
明治初期には早くも写真は大衆に普及し始め、東京では内田九一(くいち)、横山松三郎(まつさぶろう)らが活躍している。他方北海道では、田本研造(たもとけんぞう)とその一派による開拓記録が、写真史上白眉(はくび)の質の高さに達していた。
明治中期になるとゼラチン乾板(かんぱん)時代に入り、著名な写真師が東京で集中的に活躍する。江崎礼二、武林盛一(もりかず)(1842―1908)、北庭筑波(きたにわつくば)(1842―1887)、中島待乳(まつち)(1850―1938)、丸木利陽(まるきりよう)(1854―1923)、小川一眞(かずまさ)らである。このころからアマチュアによる芸術写真の時代が始まり、1889年(明治22)会長榎本武揚(えのもとたけあき)による日本写真会が写真師団体として、また会長尾崎紅葉のアマチュア団体が1901年(明治34)東京写友会として創立された。イギリスの絵画的写真も紹介され、秋山轍輔(てつすけ)(1880―1944)が1904年ゆふづつ社を結成し、ピクトリアリズムの代表的技法となったピグメント法を研究した。大阪では、同年有力なアマチュア団体浪華(なにわ)写真倶楽部(くらぶ)が創立され、現在まで続いている。さらに現在まで続いているものに、秋山轍輔らの東京写真研究会(1907年結成)があり、カーボン、ブロムオイル印画などを盛んに展示している。
[重森弘淹・平木 収]
淵上白陽(ふちかみはくよう)の日本光画芸術協会(1920)、西山清(1893―1983)によるプレザント倶楽部(1922)、鈴木八郎(1900―1985)らの表現社(1923)、福原信三(しんぞう)の日本写真会(1924)などの有力団体が続々と結成され、また『カメラ』(1921)、『写真芸術』(1921)、『フォトタイムス』(1924)などの写真雑誌が発刊された。福原信三はこの時代の代表的なアマチュアで、写真を刹那(せつな)の芸術とする『光と其諧調(そのかいちょう)』(1923)を発表して新しい絵画主義を唱え、また野島康三(のじまやすぞう)と国画会を結成した。
[重森弘淹・平木 収]
野島も福原とともに傑出した存在で、芸術的香気の高い月刊写真雑誌『光画(こうが)』を創刊(1932)する一方、1931年(昭和6)から1933年にかけて造形的に純粋堅固なヌードの秀作を次々に発表した。『フォトタイムス』誌主幹の木村専一(せんいち)(1891?―1938)は新興写真研究会を結成(1930)してヨーロッパのアバンギャルド写真を紹介し、日本にもモダニズムが開花する。批評家伊奈信男(いなのぶお)は、『光画』にエッセイ「写真に帰れ」(1932)を発表し、機械芸術としての写真の芸術性を明確にした。
モダニズムに敏感であったのは関西で、上田備山(びざん)(1887―1984)の丹平(たんぺい)写真倶楽部(1929)、中山岩太(いわた)の芦屋(あしや)カメラクラブ(1930)が結成され、浪華写真倶楽部の安井仲治(なかじ)と小石清(1908―1957)がもっとも注目すべき写真家であった。とりわけ安井は1930年代の都市風俗を繊細鋭利なリアリズムで追求し、小石は都会人の精神的ストレスを超現実主義的手法でとらえ、中山も超現実主義的作風で都会的幻想を展開した。
他方、ドイツでルポルタージュを学んだ名取洋之助(なとりようのすけ)は日本工房を設立(1933)し、アート・ディレクター制による集団制作によって、『NIPPON』など水準の高い海外向けのグラフィックな宣伝誌を発刊し、日本の報道写真や広告写真に大きな影響を与えた。『光画』や日本工房に参加した木村伊兵衛(いへえ)はライカの名手として知られ、軽妙な文芸家の肖像で登場した。また、堀野正雄(1907―1998)は機能主義美学にたって機械的建造物の構造美に迫り、渡辺義雄(よしお)は新即物主義的な作風で建築や都市風俗を撮った。土門拳(どもんけん)は日本工房に参加後、社会的リアリズムを踏まえつつ、古寺、仏像、人物、社会問題などを撮って民族の伝統とその課題に迫り、第二次世界大戦後、木村伊兵衛とともに写真界の指導的地位にたった。濱谷浩(はまやひろし)は戦中から戦後にかけて、民俗学的な対象に本格的なカメラを向けた最初の写真家であった。
[重森弘淹・平木 収]
第二次世界大戦敗戦後の日本の写真界は、戦前、戦中の思想、言論、出版などの統制が解かれたこともあり、大きくさま変わりする。敗戦の混乱からの復興が始まった1940年代後半から1950年代前半にかけて、写真界は現実を直視しようとする出版ジャーナリズムを舞台にいち早く復活した。続いて高度経済成長期とよばれる1960年代から1970年代、産業や流通の活性化を反映して広告写真が隆盛となり、その活況と並行し芸術意欲に促された秀逸な写真作品も多く生み出された。ことに1960年代末の若者たちの政治的な反抗や学園紛争が多発した時代には、従来の写真表現にはみられない自己同一性を探る作品も多く制作された。1980年代に入ると日本経済がいわゆるバブル期を迎えるのと相まって、アートとしての写真という概念が広く一般化し、やがて写真を収蔵展示する美術館の相次ぐ出現をみる。また同時に現代美術と写真の関係がきわめて緊密なものとなっていった。この三つの時期をより具体的にとらえ直せば、以下のようになる。
(1)第二次世界大戦後復興期――第二次世界大戦前よりその手腕に高い評価があった木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩は、それぞれ戦時下で軍政にプロパガンダ(宣伝)写真の制作を強要された苦い経験を自ら克服し、新しい姿勢で写真活動に復帰した。木村は洒脱(しゃだつ)な作品を雑誌『アサヒカメラ』などを舞台に発表し、土門は自らアマチュア写真を指導するとともに、グラフ・ジャーナリストの信を問う「絶対非演出」のリアリズム写真の制作に励んだ。また濱谷は戦中の疎開先で撮影した『雪国』(1956)を発表、日本人の暮らしの美学を示した。戦後の出版ブームに歩調をあわせた林忠彦(ただひこ)は俗にいう「カストリ雑誌」でたくましく復興する戦後を描き、秋山庄太郎(しょうたろう)や大竹省二(しょうじ)は新しいファッションや芸能、芸術の世界へと分け入り、三木淳(みきじゅん)は『ライフ』誌のスタッフ写真家として国際的に活躍した。そして1950年代末には前出の写真家たちの次代を担うさらに新しい世代が動き始める。シカゴのニュー・バウハウスで学んだ石元泰博(いしもとやすひろ)の個展(1954)が開かれたり、川田喜久治(きくじ)、佐藤明(あきら)(1930―2002)、丹野章(たんのあきら)(1925―2015)、東松照明(とうまつしょうめい)、奈良原一高(ならはらいっこう)、細江英公(ほそええいこう)が自主的な制作活動の拠点としてのグループ「VIVO(ビボ)」を結成(1959)し、全員が活発な写真表現を展開するなど、いずれも後進に大きな影響を与える。
(2)高度経済成長から自我の模索の時代へ――1960年代には、日本の国際社会復帰の証(あかし)である東京オリンピックの開催を契機に、外来の新しい文化が堰(せき)を切ったように流入し、印刷技術の飛躍的な向上も手伝って、ファッション性豊かな雑誌が次々と創刊された。そうした雑誌では、立木義浩(たつきよしひろ)、篠山紀信(しのやまきしん)、横須賀功光(よこすかのりあき)(1937―2003)、早崎治(1933―1993)らが活躍。またテレビ時代に突入したとはいえ、なおも社会的な影響力を大いにもっていたグラフ・ジャーナリズムの面では、『岩波写真文庫』で名取洋之助に鍛えられた長野重一(しげいち)が秀逸な作品を生み、富山治夫(とみやまはるお)(1935―2016)は風刺のきいた時評写真を撮り、桑原史成(くわばらしせい)(1936― )と英伸三(はなぶさしんぞう)(1936― )は社会の現実、ことに底辺の現実へ鋭いまなざしを注いだ。この時代はまたアメリカのロバート・フランクやパリのウィリアム・クラインに触発されて人間の運命や自我の本質を問う作品、都市とその生命感のダイナミズムを問う作品も制作されるようになる。こうした流れのなかで、高梨豊(たかなしゆたか)、中平卓馬(なかひらたくま)、森山大道(だいどう)らは『プロヴォーク』(「挑発」の意)を1968年に刊行、若者を中心に自己同一性追求を軸とする新しい写真意識の世代層が形成されるに至った。この世代は、雑誌『カメラ毎日』に紹介されたアメリカの同時代写真家展のタイトルと呼応してコンポラ(コンテンポラリーcontemporaryの略)写真家といわれ、その活動と影響は1970年代を貫通し、1980年代にまで至るのである。
(3)バブル期から模索の時代へ――1980年代にはコンポラの余波を残しながらも、日本写真界は新たな展開期に突入する。出版文化は盛況で写真家の活躍の場は多く、また大都市では、カメラ、写真感光材料メーカーの設けたギャラリーが写真作品発表の場として活況を呈した。1970年代末に現れた、写真作品を絵画作品同様、芸術品として展示販売するツァイト・フォト・サロン(1978年創立)やフォト・ギャラリー・インターナショナル(PGI。1979年創立)などは、印刷メディアから写真作品を独立させ、写真家の意識を変革させる一助となり、そうした動きは、写真美術館の設立を求める気運となって、1980年代末以降、川崎、横浜、東京などに相次いで写真部門をもつ美術館が開館した。なかでも1992年(平成4)に開館した奈良市写真美術館は古都の美を撮り続けた入江泰吉(いりえたいきち)の記念館であり、酒田市の土門拳記念館に続く写真家個人をたたえる施設として設けられた。こうした時代には鑑賞性の高い写真が好まれ、植田正治(しょうじ)や杉本博司(ひろし)、柴田敏雄(しばたとしお)らは完成度の高い作画力とユニークな視点で、内外で高く評価された。そして1980年代、1990年代を貫いてもっとも際だったのは荒木経惟(のぶよし)である。彼はその旺盛(おうせい)な制作活動と展示、出版で、都市、エロス、死生観を世に問い、「アラーキー」の異名とともに現代日本を代表する写真家となった。さらに現代美術と重なり合う写真表現の場が目覚ましい成果を示したのもこの時代である。自身の変幻を写真にする森村泰昌(やすまさ)(1951― )はその代表であり、国際的な名声を博している。また写真機材の低廉化もあって若い女性と高齢者の写真ファンやアマチュアが増加するのが1990年代であり、HIROMIX(ヒロミックス)(1976― 。本名利川裕美(としかわひろみ))、蜷川実花(にながわみか)(1972― )ら若い人気女性写真家も登場した。1990年代末からはデジタル技術の応用が写真界全般に浸透し、写真の実体的な概念が大きく変わりつつある。
[重森弘淹・平木 収]
『重森弘淹著『写真芸術論』(1967・美術出版社)』▽『『写真大百科事典』全10巻(1981~1982・講談社)』▽『『世界写真全集』全12巻(1982~1984・集英社)』▽『日本写真家協会編『日本写真史1840―1945』(1983・平凡社)』▽『『日本写真全集』全12巻(1985~1988・小学館)』▽『伊藤俊治著『20世紀写真史』(1988・筑摩書房)』▽『セゾン美術館・山岸享子編『世界芸術写真史 1839―1989 W・H・フォックス・タルボットからシンディー・シャーマンまで』(1990・リブロポート)』▽『飯沢耕太郎著『日本写真史を歩く』(1992・新潮社)』▽『大島洋編『写真家の誕生と19世紀写真』(1993・洋泉社)』▽『ナオミ・ローゼンブラム著、大日方欣一他訳『写真の歴史』(1998・美術出版社)』▽『日本写真家協会編『日本現代写真史1945―95』(2000・平凡社)』▽『ジル・モラ著、青山勝他監訳『写真のキーワード――技術・表現・歴史』(2001・昭和堂)』▽『ジャン・A・ケイム著、門田光博訳『写真の歴史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『小久保彰著『アメリカの現代写真』(ちくま文庫)』▽『ヴァルター・ベンヤミン著、久保哲司訳『図説 写真小史』(ちくま学芸文庫)』
光を媒体として物体の像を感光性記録材料の上に画像として記録する方法,およびこれによって得た画像をいう。一般にはレンズを備えたカメラに感光性記録材料として写真フィルムを収め,光の下で被写体を撮影,現像して写真画像を得る。
いわゆる〈写真術photography〉が発明される前に,カメラの原型に相当する装置はすでに存在していた。10~11世紀のアラブの学者アルハーゼン(イブン・アルハイサム)は,日食観測に用いた〈ピンホール〉利用の装置を,光学についての研究報告書のなかで明確に説明している。しかし彼自身の考案とは書いていないので,この装置はその前からよく知られていたものと考えられる。また後にレオナルド・ダ・ビンチによって書き残されたメモのなかにも,〈カメラ・オブスキュラ〉の名がたびたび使われており,それが実在していたと推測される。そして同じイタリアの自然哲学者G.B.dellaポルタの《自然魔術》(1558)の記述では具体的に,カメラ・オブスキュラの絵画への応用を推奨している。カメラ・オブスキュラとはラテン語の〈暗い部屋〉の意味で,閉じた暗い部屋(箱)の側面に小穴を設け,向いの側面に,この穴を通して外部の画像を写し出す装置のことである。のちには小穴(ピンホール)の代りに凸レンズを取り付け,像の映る側面をすりガラスにして,これに紙を当てがい,像を鉛筆でなぞって引き写す道具とした。18,19世紀になるとカメラ・オブスキュラやこれに類似する装置は,絵画の補助手段としてしだいに普及し,画家の常備する道具となった。もしカメラ・オブスキュラの光像を,鉛筆でなぞるのではなく,そのまま固着させる方法があれば,これに越したことはない。こうして写真術発明への下地は,時代の要請の中に形成されていったのである。あとは光像をなんらかの方法によって固着させる技術の開発が残されていただけであった。その開発には当時の化学者や発明家がさまざまな動機のもとに取り組んでいた。銀板写真(ダゲレオタイプ)の発明者L.J.M.ダゲールは,もともと画家でありオペラの背景等のディオラマの作家でもあった。彼の絵はこの時代にふさわしく,きわめて客観的・自然主義的な作風であり,またディオラマも当然のことながら現実再現的な味わいの濃い巧みなもので,どちらも高い社会的な評価を得ていた。そうしたダゲールが写真術の発明を志すのも,その芸術的な立場からすれば当然の道程であったといえる。
写真は,初めから今日にみるような種々の用途を目標として開発されたわけではなく,さまざまな人々が初めてみる写真の画像から,その特徴を一つ一つ発見しながら,応用の途を広げてきたのであった。たとえば,初めて写真を見た人々が,写真に写された舗道の敷石の数や形が現実と寸分の違いもないことに驚嘆したという話や,1人の肖像を撮るのも2人以上何人撮るのも同じ時間でできるという初期の営業写真家の宣伝文句は,のちに写真の用途が多方面に繰り広げられてゆく前段階の挿話として,きわめて象徴的である。
最初の実用的な写真術としてダゲレオタイプが公表されたのは,1839年8月にフランス学士院で催されたアカデミー・デ・シアンス(科学アカデミー)とアカデミー・デ・ボザール(美術アカデミー)の合同会議の席上であったが,このほかにも多くの研究家(J.N. ニエプス,W.H.F. タルボット,ベイヤール,ウェッジウッド,ハーシェル等)がほぼ同時期におのおのの考案を前後して開発していた。それぞれに方法は違っていても,それらが芸術への利用を目的として開発されている点は同じであったし,後続する写真の開拓者たちの場合も,目標はつねに芸術表現の可能性に向けられていた。そのため当初の写真の対象は風景,静物,肖像といった絵画的主題が中心となっていた。当時の状況を考えると,写真が絵画芸術を手本として出発するのは当然であり,現実に写真を新しい表現媒体として利用することに意欲を見せたのも,多くは画家たちであり芸術愛好家たちであった。
だが画家たちのすべてが,写真の登場を喜んで迎え入れたわけではなかった。人の手をわずらわせずに現実の像が描けるということは,古くから多くの画家にも望まれていたことであったが,いざ写真術の実現をみると,フランスの画家P.ドラローシュが〈今日を限りに絵画は死んだ〉と叫んだというほど,画家たちは大きな衝撃を受けた。なかでも肖像画家,ミニアチュール画家,シルエット画家,風景画家,複製画家などにとって,写真は脅威的なライバルとなり,事実,職を失う者も多かったという。あるドイツの新聞は,写真は〈神への冒瀆である〉という論説を載せて発明者ダゲールを非難したし,パリの美術家たちは写真の禁止を要求して政府に陳情したという。かのD.アングルなどもその反対運動の先鋒に立っていたが,しかし彼は写真の力は正当に認めていた。彼の《泉》(1856)が,実は写真をもとに描かれていたという事実が,今日明らかにされている。写真の出現は画家たちを一時的にもせよ混乱に陥れたことはまちがいない。しかし,写真の像が本質的に絵画と異なる点が明らかになるにつれ,逆に20世紀に向かって絵画は独自の方向を見いだしていくが,これは同時に写真が独自性を発見してゆく道でもあった。写真を参考として利用した画家としては,クールベ,セザンヌ,アンリ・ルソー,ピカソなどがいるが,とくに積極的に公然と写真にもとづいて描いた画家としては,E.ドガやT.ロートレックがよく知られている。
上述のように当初の写真においては絵画の主題を手本とするのが当然のように考えられていた。O.G.レイランダーの〈人生の二つの道〉(1857)のような寓意的,教訓的な主題による合成写真や,ロビンソンHenry Robinson(1830-1901)の感傷的な場面の演出写真などが,そうした意味あいから〈芸術写真〉として一般に迎えられ高く評価されていた。それはたしかに技術の水準も高く演出も巧みであり,写真の可能性の一面を早くから開拓した作品ではあった。しかし,そうした主題は当時の芸術意欲の退廃した局面と呼応したものであり,こうした絵画的主題の採用は,のち長い間いわゆる〈芸術写真〉の〈様式〉として固定概念化してしまい,写真本来の表現特性を発揚した作品の登場を阻害していた。とくに1890年ころから1910年ころまでは,この芸術写真,あるいは絵画主義(ピクトリアリズム)の全盛の時代であり,後年,対象の本質を的確に把握してすぐれたリアリズムの作品を数多く残した,A.スティーグリッツやE.スタイケンにしても,この絵画主義から出発していた。だが,初期の芸術写真の中に見られたもののうち,たとえば合成写真という技法自体は,のちG.グロッス,J.ハートフィールド,あるいはE.リシツキー,M.エルンストなどの,フォトモンタージュやフォトコラージュという非合理だが統一的な空間を構築するという近代芸術の中で新しい光をあびるのであった。
〈理想化された映像〉,あるいは典型的には女や風景などの〈美しいものの表現〉としての芸術写真の系譜は,アマチュア写真家が中心になって引き継がれ現代にまで至るが,これは絵画芸術のような技術的習熟を必要としないという写真の性格によるもので,誰にでも,比較的短期間に写真のひと通りの技術は修得することができた。それに写真技術の修得や機器の操作それ自体が,けっして無味乾燥なものではなく,興味深い対象でもあった。〈いわゆる芸術写真〉の様式に即すならば,容易に〈芸術〉的な表現が得られるという大衆性から,いわば趣味として一般化し普及したのである。現在高く評価されているいくつかの芸術写真も,基本的にはこうした土壌と文脈の中から生まれ出たものであり,このような特質を考慮することなしに,その写真を語ることはできない。その意味で西欧のいわゆる〈サロン写真〉が果たした役割はきわめて大きいが,それと同様に,日本でも当初の写真表現と技術の開発は,アマチュア写真家やその団体,クラブなどの活発な活動によって支えられてきた。
日本における写真の歴史は,1840年(天保11)ころに長崎に入港したオランダ船によってダゲレオタイプが渡来し,薩摩藩の御用商人であった上野俊之丞がこれを入手したことに始まると言われる。移入された当初の事情は必ずしもよくわかっていないが,わずかな情報と化学薬品や器具の調達に苦心した末に,俊之丞の子の上野彦馬や下岡蓮杖が写真術を修得した。2人の先覚者の下に多くの弟子が生まれたが,彼らはすべての意味における職業的写真家,すなわち技術者,研究者であると同時に,肖像写真を主体とする営業写真館の経営者でもあった。芸術という自覚のもとに写真を撮る者があらわれるのは,後の写真を趣味とするアマチュア写真家たちの出現を待たねばならない。すでに明治の後期にそのような動きはあったが,そうした系統の写真家として,1923年に日本で最初の写真芸術論というべき《光と其諧調》を発表した福原信三,野島康三,中山岩太を代表としてあげることができる。日本のアマチュア写真家も西欧と同様に絵画的主題からの影響はまぬがれなかったが,しかしなじみ深い山水画をはじめとする文化的・風土的背景の影響は,日本の地方色として著しい特徴となっている。このため明治期の多くの写真には独特の抒情性が見られ,この主題を助長するために〈ピグメントpigment法〉という写真に顔料を用いる技法が流行した。このプロセスでは手作業による強調と省略が自由に行えるので,絵画的なイメージにいっそう接近させることができた。こうした芸術写真の傾向は,時代が進むにつれてしだいにモダニズムの影響を受けはじめるが,1930年ころを境に〈新興写真〉と名付けられたいわば前衛的な写真が急速に目だつようになった。構成主義,シュルレアリスム,新即物主義などの芸術思潮がその作品とともに日本に紹介され,こうした契機から新進気鋭の写真家が単なる趣味を脱した写真表現者としての立場から,写真活動を行うようになった。またこの前後の時期にはグラフ・ジャーナリズムの隆盛から,営業写真家以外のジャーナリスティックな職業写真家が活動の場を得ることになるのだが,その土壌となったのもアマチュア写真家の広い層であった。
写真の歴史において肖像写真はその初期の段階から特別な地位を占める。みずからの肖像を画家に描かせそれを得ることは,長く人々(とくに上流階級の人々)にとっての,強く社会的な性格を帯びた一つの欲求であったが,それは画家を長期間にわたって雇わなくてはならないので,14,15世紀以来貴族や富豪など権力者でなければできることではなかった。肖像画はいわば社会的地位の象徴であり,大衆にとっては無縁のものであった。だから,写真が発明されるとまず何よりも求められたのは,この肖像写真であり,そのような求めはかなりの勢いでおし寄せたので,たちまちのうちに肖像写真は写真家の主要なビジネスとなった。比較的安価に,しかも一時に多くの需要に応えることができたので,客は尽きることがなかった。大衆は長いあいだ,肖像を残すことにあこがれていたのである。フランスのディスデリAndré Adolphe-Eugène Disdéri(1819-90?)は同時に8枚から12枚の写真が撮れる〈名刺判写真〉をくふうして手数を省き,普通は1枚50~100フランしていた肖像写真を20フランで撮影したという。人々はさらに友人,知人や家族との肖像写真の交換・収集を行うようになり,そこからいわゆる家族アルバムのようなものも生まれていった。しかし,増大する肖像写真の需要は,一方でこうした状況を見のがさない未熟な職業写真家をはんらんさせ,写真の品質を低下させもした。明治期の日本においても肖像写真の初期の経緯はこれとまったく同じであった。
しかしこれとは別に,初期の時代にすぐれた肖像写真を残した写真家もいた。J.M.カメロンは1863年,48歳になってから写真を始めたが,広い交友関係から詩人のA.テニソン,R.ブラウニングや,科学者のC.ダーウィンなど,数多くの著名人の肖像写真を今日に残している。彼女の写真は今でいうクローズ・アップの手法を用いた先駆でもあるが,〈人物の内面性〉をとらえていることで高い評価を得ている。その評価の一端は,彼女の用いたカロタイプcalotype(またはタルボタイプ)という写真術に負うものであった。この方法はW.F.タルボットの考案によるもので,紙の上に感光材料を塗って撮影し,これを現像した後,再び同じ感光紙にプリントするので,何枚も同じ写真の複製を作ることができた。現代の写真法と同じこのネガ・ポジ法は,1枚の写真しか作れない,当時主流であった銀板写真にまさっていたが,紙を透してプリントするため微細な描写には欠けていた。しかしその反面,なまなましい描写が和らぐので,芸術的な気品が高まるとして好んで使う者も多かったのである。また当時の写真は感光度が鈍く長時間の露出が必要だったので,被写体も長時間,表情をひきしめ,また同じ姿勢をとり続けなければならなかった。しかし,これがかえって威厳のある肖像写真を作る原因ともなっていた。カメロン夫人のほかにD.O.ヒルとアダムソンRobert Adamson(1821-48)もカロタイプを使っていたが,彼らのすぐれた芸術的資質に加えてこうした撮影条件が,彼らの肖像写真のスタイルを決定づけていた。そして写真(フィルム)の感光度が高くなるまで,こうした古典的な肖像画の様式を踏襲したともいえるスタイルは,一般的な傾向として続いたのである。このほかにも初期の時代の著名な肖像写真家として,アメリカのM.B.ブラディ,フランスのナダールらがいる。ブラディは多くの名士を撮りその写真集を出版,1861年には年間3万枚を超える肖像を撮ったといわれる。ナダールもパリのスタジオを訪れる名士たちのすぐれた肖像を撮っていたが,彼はほかにも気球の上から空中写真を撮るなどさまざまな撮影を試みた才人であった。また同じころに《不思議の国のアリス》の作者L.キャロルは少女たちの愛すべき写真の数々を残している。
このように肖像というものは当時の写真の主要な表現主題であったが,大衆の要求に応えた大量の肖像写真は,社会史的に見れば,人々が写真そのものと親しみを深める役を果たし,絵画とは違う写真の特性についての知識の普及に役立った。のちに素人にも容易に撮れるイーストマン・コダック社の写真システムや,乾板,ロールフィルム等の普及によって誰にでも写真が撮れるようになったことから,営業的な肖像写真の需要自体は減少したものの,写真はいっそう身近なものとなり,写真画像の日常生活への浸透は急速に進むことになった。またフィルムの感光度がいっそう高くなりスナップ撮影(スナップ写真)が容易になると,瞬間的な表情や姿態が撮影できるようになったため,人々は肉眼ではとらえられぬもう一つの人間像を写真の上に見いだすことになった。この視覚体験は現在考えるよりはるかに大きな影響を人々に与えたはずである。
こうしていわゆる〈肖像写真〉は転機を迎えて,いわゆる記念写真,家族写真なども含めた広義の〈記録写真〉一般の中に融合されてゆくが,しかしいうまでもなく,今日においても肖像写真は個人を同定する視覚物として,またある意味でその存在自体を示し得る視覚物として,決して意味を失ってはいない。たとえば毎日の新聞紙上をにぎわす写真の大半は顔写真を含めた人物写真で占められており,結婚式や成人の日など,人生の結節点には必ず撮影される人物を中心に置いた記念写真,あるいは親しい者のあいだで少なからず行われているであろう肖像(顔)写真の交換,さらに歴史的にはブロマイドに始まり,今日では種々のメディアを通じてはんらんしている他者(芸能人,有名人)の肖像など,これらは種々の別な要素を含むものではあるが,大枠としては上述の肖像写真の系譜の中に位置づけることができるであろう。
写真の最も基本的な性質をあげるならば,それは記録機能であろう。そのことは初期から注目されていた本質であり,写真について論じる場合に,つねにその議論の中心として考えられてきた。初期の時代には,単なる記録写真は写真の機能をむき出しにした生で低次なレベルのものとして考える風潮があり,写真家の解釈と操作が表だって現れてこそ良い写真なのだ,と考えるところもあったが,多くの写真家は,写真の記録性を率直に,あるいは信じるままに認めて,これを表現と伝達に向けて素直に利用していたのであった。
たとえば,日本においては,明治の北海道開拓の組織立った記録が,田本研造(1831-1912)らによって撮影され,今日それは,撮影者の意図を超えたレベルで,時代の貴重な記録(ドキュメント)としてその価値を再認識されている。また陸軍測量部員小倉倹司らの従軍撮影による《日清戦争実記》などの出版(1894)もみられた。海外の例をみると,1855年にイギリスのロジャー・フェントンRoger Fenton(1819-69)が世界で初めての従軍写真家としてクリミア戦争を撮影し,これを元とした木版刷りの絵が新聞に載せられた。当時は写真印刷がまだ開発されていなかったので,しばらくの間は〈写真を元として描かれた〉という注釈によって写真と同様の信憑性を得ていた。また,旅行者や探検家は異国や僻地を撮影してこれを公表し,見る者は未知の土地を知る喜びを,素直に味わったのである。人々はこれらの写真の記録によって,直接経験できない時間と空間を身近にすることができたのであった。アメリカの肖像写真家であったM.B.ブラディは,アレクサンダー・ガードナーAlexander Gardner(1821-82)らとともに南北戦争の記録を精力的に撮り,そのため財産を使い果たしたといわれる。また,20世紀初頭のパリではE.アッジェが,パリの庶民の生活や風俗をさかんに撮影していたが,それも一つの時代のドキュメンテーションであったということができるだろう。こうした記録写真あるいは写真による記録への執着は,写真が〈芸術〉であるとしても,記録性に基づいてこそその特質が発揮されるのであり,また記録性自体の力によって成立する写真も,世界を知るもう一つの方法として重要なのだ,といった考え方が早くから芽ばえていたことを証明するものであろう。
たとえば,後の映画の発明にもつらなるものとしてよくあげられるE.マイブリッジが撮った有名な馬が駆ける連続写真(1877)にしても,当時の人々にとっては,馬が疾駆する様子を分析的に見ることなどは,誰にとっても初めて出会う視覚体験であったはずで,そうした驚異は深い感動とともに味わわれたことだろう。この無垢の好奇心を満たすのが,記録写真の最初の動機であり,風景写真にしてもその点は同じであったと思われる。それが〈芸術〉であるか否かは問題ではなかった。日本でも江崎礼二が隅田川で行われた水雷爆破の瞬間を撮影(1883)して,〈早撮り〉写真の評判を高めたが,これも初見の写真が驚異として迎えられたからにちがいない。記録写真は記念や確認という目的とともに,こうした心的作用もその成立・発展の大きな要因を形成しているものと考えられる。
写真というメディアはこのようにして,人間のコミュニケーションあるいは情報伝達の場において,一つの重要な地位を占めることになるのであるが,この記録するものとしての写真は,大量複製手段である印刷メディアと結びつくことにより,さらに開花することとなる。それはいわゆるグラフ雑誌の出現である。アメリカの《ライフ》誌(1936創刊)を代表とする世界的なグラフ・ジャーナリズムの盛況は,多くの意欲ある写真家に活躍の場を与えるとともに,フォト・エッセイ,組写真といった写真ジャーナリズム独特の新しい手法・スタイルを生み出し,確立させていった。R.キャパ,M.バーク・ホワイト,E.スミス,H.カルティエ・ブレッソンといった写真家は,そのようななかから現れた写真家である。日本でジャーナリズムにおける写真の位置づけを明確にしたのは,名取洋之助,木村伊兵衛らによる理念の実践としての〈日本工房〉(1933創立)の出版活動に始まるといえる。もちろんその前にも写真はジャーナリズムの中で盛んに使われていたが,多くは文章の挿絵であったり,図的な資料としての写真であった。しかし名取は写真主体の編集を行いその要素としての写真を,一貫した論理のもとに刊行物として具体化していった。このころから日本は戦争の泥沼の中にしだいにはまり込んでいくわけであるが,戦時体制の強化は写真を否応もなくその中に巻き込んでいった。写真は上述のように,社会性の強い説得力のあるコミュニケーション手段であったので,国策の宣伝,戦意の発揚の一手段として大いに利用され,写真界の様相も大きく変わっていったのであった。なおナチスにおいても,写真が,より徹底した形でその独特の宣伝方法の中に組み入れられていたことはよく知られる通りである。
第2次世界大戦後のグラフ・ジャーナリズムは,基本的には戦前の延長線上にあり,その事情は,土門拳,木村伊兵衛ら戦前派を中心に復興した日本の場合も同じであった。そして,明るいレンズの開発,フィルム感光度の向上,ストロボ・ライトの開発など,戦前から積み重ねられてきたさまざまな写真機材の開発およびその性能の向上は,写真が記録できるものの幅を飛躍的に広げ,多くの人々に種々の印刷メディアを通じて,さらに新しい視覚体験を提供し続けたのであった。1950年代のテレビの登場によって,いわゆるグラフ雑誌自体は視覚メディアとしての特権的な地位を降りることになるが,今日,むしろ写真自体は雑誌メディアを含めたさまざまなメディアのなかに浸透しており,その記録性あるいは写〈真〉性は,広告,報道,研究,各種記念・記録など多くの目的のために利用されている。なかでも,戦後から今日に至るまでの広告写真の発展にはめざましいものがあるといってよい。
執筆者:大辻 清司
当初は一部の画家たちによって写真がデッサンなどの実制作に利用されていたが,19世紀後半以降は写真の特性そのものが美術に影響を与えるようになる。本来,写真を撮ることは絵を描くことよりもはるかに簡単で身軽であったから,自在な視覚をものにできたし,一つの物の多様な像も作り出せた。このような写真の出現を前に,絵画の遠近法,画面の完全な構図が揺らぎはじめる。見慣れない視角から物を見ることや,静的な構図の構成から経過の途中の一瞬の把握という移行が,とくに後期印象派にあらわれてくるのは,明らかに写真の影響である。運動の解析的な把握はE.マイブリッジやマレーÉtienne-Jules Marey(1830-1904)によって行われるが,それはやがて世紀を超えて未来派の表現のなかに姿をあらわすようになる。写真は1枚の画面では遠近法的でありながら,その全体で,人間に遠近法的視覚,あるいは遠近法的認識を解体させるように働いた。この間の美術の展開に対して,写真が外界のイメージの再現を引き受けたため,美術は再現でなく,みずからの構造の探究に向かったという解釈もある。しかし,19世紀後半からの美術の変容は,むしろ写真との直接間接の相互関係のなかで眺める方が正確であろう。たとえばM.レイの写真やダダイストのフォト・モンタージュは,美術と写真を峻別することからは理解できない。また,モホリ・ナギが理論的な中心となるバウハウス(1919設立)は,単にデザインの近代化を目ざしただけではなく,広範な視覚表現全体を統合して眺める視野を形成していたのである。
第2次大戦後の現代美術において,美術と写真の相互関係はもっと明確に概念化されるようになる。たとえば,一見,視覚表現を抜け出したように見えるパフォーマンスにおいて,写真は事後の記録という以上にあらかじめ前提とされるのである。また,1960年代末には,写真と見まがうほどの極度の写実的描写を特色とする〈スーパーリアリズム〉が現れる。これは,絵画によって写真を模倣しようとするものというより,写実主義の虚構性を問うものであったと言えよう。
執筆者:多木 浩二
今日,われわれの生活の中には,写真が満ちあふれている。部屋の中を見渡しただけでも,新聞,雑誌,書籍はいうまでもなく,カレンダーやポスターあるいは種々のパンフレットの中にそれは使われているし,町を歩けば写真を利用した数多くの広告や掲示を目にする。また,今日ではほとんどすべての人がカメラを操作することが可能であり,家庭内外の記念や記録のために,またあるいは仕事上,研究上の記録のために,さらには一種の趣味としてそれ自体を楽しみに,写真を撮るという行為を行っている。かつて,驚きの目を持ってみられた写真は,もはや,われわれの環境の一部と化していると言っても過言ではあるまい。このわれわれが日々に接する写真というものは,はたしてどのような性格を持ったメディアなのか,そしてわれわれはそれをどのように読み,また読まされているのだろうか。
フランスの哲学者・記号論学者R.バルトは〈写真はコードのないメッセージである〉と定義した(《写真のメッセージLe message photographique》1961)。われわれは言語表現によってある現実を言語に移しかえる場合,その社会に流通する言語体系によって現実の一局面を切り刻み,それを音韻,形態,統辞,意味などさまざまなレベルでコード化することによってメッセージを形成する。ところが写真の場合には,そのようなコード化の過程がまったく存在しない。そこになんらかの縮約はあるにせよ,写真はいわば〈現実そのもの〉,あるいはかなり完璧な現実の相似物であって,現実から写真へ移行するにあたり,なんらかの形でこの現実を有意義な単位に細分化し,さらにそれを解読(ディコードdecode)すべきものとして再組織するといったような行為は,そこではまったく行われていない。このような〈コードのないメッセージ〉はほかに存在するだろうか。たとえば,一見,似たような視覚メディアとしては,絵画,映画,演劇などをあげることができる。確かにこれらのメッセージが伝えるものは,たとえば日本語における〈犬がほえている〉という発話が,ある特定の小動物の,ある特定の時間(現在)における,ある特定の行動として,ほとんどすべての人々にかなりはっきりと理解されるというほど明解ではない。しかし,それらの中には程度の差はあるにせよ,必ずいくつかの,あらかじめ特定の意味を担わされながら分節された構成要素(たとえば絵画の場合なら図式,色彩など,また演劇の場合なら身ぶり,衣装,発声法などの歴史的・社会的なステロタイプのストック)が,画家や演出家,監督などの手によって内在させられており,その点ではこれらのメディアの意味作用もコードに基づいたものと言うことができる。こうしてみると〈コードのないメッセージ〉あるいは〈そのものずばりの現実〉としての写真というメディアは,社会に流通する種々のメディアの中で,きわめて特殊な性格を持つものと見ることができよう。
日本における〈写真〉,すなわち〈真を写す〉というこの技術と行為に対する命名は,その意味で的確にこのメディアの本質をついているが,写真のこの本質的な〈真実らしさ〉あるいは〈客観性〉といったものは,一方で〈神話化〉の危険を大いにはらんでいる。写真メディアの基本的な性格が,まさに〈コードのないメッセージ〉あるいは〈そのものずばりの現実〉であることによって,写真は写真だけで自立して解読可能なメッセージを形成するのではなく,多くのより大きな構造の要素として他の要素と関係づけられながら,一つのメッセージを形成しているのである。たとえば,一つの雑誌の中の写真は,キャプションや見出し,あるいはそれに添えられた記事などといったさまざまな言語表現と形態的にも意味的にも併存しているし,さらには雑誌全体の中での配列のされ方,またその雑誌に対する社会的な評価(アカデミックか娯楽的要素の強いものか,進歩的か保守的か,大部数か少部数か等々),さらにはその雑誌に対してそのような評価を下す社会(時代)を歴史的視点から見た場合に行いうる一定の性格づけ……,といったように,1枚の写真はさまざまのより大きな枠組みの中に関係づけられてメッセージを形成しているのである。そしてこのような外的な関係構造は,何も写真の場合だけではなく,言語,絵画,映画,演劇等々,およそありとあらゆるメディアの場合にも存在する。たとえば先の〈犬〉というある特定の小動物を意味(表示denote)する語が,ときにある種の(その語を用いる人にとっては)嫌悪すべき人物を意味(共示connote)しうるのは,上記のような外的な枠組みのいずれかにこの語が置かれた場合であるし,〈バラ〉というある特定の植物(の花)を意味(表示)する語が,ときに愛情を意味(共示)しうるのも同様の例であろう。また,〈前向きに検討する〉という言葉が表示義,共示義の2通りの読みができることは,説明するまでもなく,われわれのよく知るところである。言語の場合に,この表示義と共示義は,しばしば併置され,ときに重なり合い,またときに対立しながらわれわれに何らかのメッセージを伝えるのであるが,そのような視座から見た場合の写真メディアの特殊性は,一方の表示義,あるいはそれに相当する部分が,〈そのものずばりの現実〉あるいは〈論議の余地のない真実〉として,多くの人々にかなり強く意識されているという点である。そこではどのような現象が起こるのであろうか。
それは共示義の表示義への寄生,言いかえればある種の価値観の〈真実らしさ〉への寄生である。写真が第一義的に〈そのものずばりの現実〉であるという意識は,社会的・歴史的・文化的な文脈の中で必然的にある種の価値観や意図をもって形成される写真の共示義をも,〈真実らしさ〉の中に巻き込んでしまい,それすらも,一見,現実そのものであるかのように,われわれの目の前に提示するのである。つまり,逆に言えば,人は伝えたい事柄を写真の〈真実らしさ〉に託し,効果的にそれと意識されることなく伝えることが可能なのである。写真が社会的にきわめて説得力を持ったコミュニケーションの手段であることは先にも述べた通りであるが,そのような説得力というものも,このような写真の本質的性格によるものである。アメリカのニューディール政策時における写真メディアの活用にせよ,ナチス・ドイツの戦意高揚のための写真の利用にせよ,あるいは現代消費社会における広告写真の隆盛にせよ,すべてそのような視点からとらえることが可能であろう。
また,一般に写真に付せられるキャプションや見出しが決定的に重要であるのもこのことによるし,写真家の表現行為もあらかじめ社会的,歴史的な文脈から生ずる共示義をかなりの程度意識しつつ,その意識に対応したある具体的な時間と空間をみずから切り撮り,そこにメッセージを託す,そのような行為であると考えることができよう。
執筆者:大辻 清司
レンズを備えた暗箱(カメラ・オブスキュラ)で風景や人物の像を作ることは16世紀に実現されていたが,この像を絵画のように記録として保存することはできなかった。一方,化学の発達に伴って硝酸銀ほか種々の銀塩,水銀塩などが光の作用で変色したり黒化することが見いだされた。多くの人々が光の像を記録に残すことを研究したが,1826年ころにフランスのJ.N.ニエプスが光の作用によるアスファルトの溶解性の変化を利用して,ようやく光による像を記録することに成功した。これに続いてフランスのL.J.M.ダゲールは,銀板にヨウ素蒸気を当ててヨウ化銀層を作り,これを感光板として写真を撮影し,この感光板を水銀蒸気に当てて像を目に見えるよう現像することに成功した。この発明は政府から年金を受ける約束で,39年8月19日にフランス学士院における科学アカデミーと美術アカデミーの合同会議の席上で公表され,この日をもって写真誕生の日とされている。ダゲールは,感光板を現像したのちチオ硫酸ナトリウム水溶液で処理して未感光ヨウ化銀を除去すると画像が変色せずに保存できること,すなわち定着されることも見いだした。ダゲールの方法は,ダゲレオタイプdaguerreo typeと呼ばれ,撮影,現像,定着という今日の写真のプロセスをすべて織り込んでいる写真の原型である。ダゲレオタイプでは1枚の感光板を使って1枚の写真だけしか得られないが,41年にイギリスのW.H.F.タルボットは,ヨウ化銀感光紙を使って写真のネガ像を作り,このネガを感光紙に焼き付けてポジ像を作るネガポジ法を考案した。これをタルボタイプtalbotypeまたはカロタイプcalotypeと呼ぶ。51年にはイギリスのアーチャーFrederick Scott Archer(1813-57)がヨウ化銀をコロジオン(ニトロセルロースをエーテルに溶解したもの)に分散してガラス板に塗布し,乾かない間に写真を撮影するというコロジオン湿板法を発表した(湿板写真)。
その後,感光材料の研究は急速に進んで1871年には現在の写真フィルムの乳剤の原型である臭化銀ゼラチン乳剤がイギリスのR.L.マドックスによって考案され,写真感光材料の感度が著しく高くなり取扱いも容易になった。この発明ののち,写真乾板を工業的に製造する機運が高まり,1877年のイギリスのJ.W.スワンの商会に続いて,83年にはアメリカのイーストマン社から乾板が売り出された。イーストマン社は現在のコダック社の前身で,88年に紙のロールフィルムを売り出して写真が一般大衆に親しまれる端緒を作った。コダックは89年にセルロイドを使ったロールフィルムを,98年には映画用フィルムを製造して写真工業の基盤は確固たるものとなった。
一方,日本に目を転ずると,写真の初期のダゲレオタイプは1840年代初期にオランダ船によって日本に渡来し,幕末から明治初期にかけて薩摩藩の島津斉彬はじめ進歩的な藩主,蘭学者らが写真術を研究した。1870年代には写真用薬品や石版材料を輸入販売する写真材料店が創立され,1885年には小川一真がはじめて写真乾板の製造を試み,1906年には日本写真乾板会社が設立された。このころ写真会社として小西六写真工業の前身の六桜社(工場)が1902年に,東洋乾板,オリエンタル写真工業が19年に設立され,日本最初の写真フィルムが29年小西六本店から発売された。34年には富士写真フイルムが創立されて国産初の映画用フィルムが製造販売された。
写真の黎明期を脱して1930年代になるとドイツ精密機械工業の産物としてライカ,コンタックスはじめ各種小型カメラが世界の市場を満たし,パンクロフィルムや感度の高いロールフィルムがアメリカのイーストマン・コダック社とドイツのアグファ社から発売されて乾板の時代は去り,映画もトーキー時代を迎える一方,加色法カラー映画フィルムも使われて写真は社会生活に深く浸透した。カラーフィルムが減色法多層乳剤型式の発明によっていっそう身近な商品になろうとするころ,第2次大戦勃発となって,写真は軍用を中心として地道な研究,資源の探索,限定された生産に追い込まれた。第2次大戦が終了し,アメリカのドイツ占領報告によってドイツが開発した写真乳剤の金増感技術が公開されたのを契機に,世界の写真感光材料メーカーは乳剤の増感技術の研究を進め,ISO200級フィルムが相次いで市販された。一方,カラーフィルムの研究も進んで大戦直後には映画のテクニカラー・ブームが起こり,日本でもスチル写真では48年国産のカラー反転フィルムの発売,1950年代に入ってネガ・ポジカラー材料が国産化された。以後,現在に至るまで一般アマチュア写真を中心として写真撮影はカラー化時代を迎え,映画はテレビジョン放送媒体としても発展し,また写真感光材料工業は一般アマチュア,プロ用感光材料のほか複写用フィルム,製版用フィルム,X線用フィルムなど業務用の感光材料を多量生産している。
→カラー写真
被写体にカメラを向けてシャッターを作動させるとカメラ内のフィルムが感光する。この操作でフィルムは露光されるのであるが,この段階ではフィルム上には画像は現れず,潜像の状態で記録されており,このフィルムを現像すると潜像は画像になる。しかしこの画像は一般には被写体と明暗が逆のネガ像(陰画)である。このネガ像を印画紙に焼き付けて再び現像すると被写体の明暗が再現されたポジ像(陽画)を得る。この写真撮影の過程を例として写真のプロセスを考えるならば,写真とは,光の強弱とか色とかの情報を持った光エネルギーを,フィルムのような感光性材料に照射してその材料の物性(化学的あるいは物理的)変化を起こさせ,つぎに現像を施して画像を作るプロセスで構成されている。すなわち,光源→被写体→光信号→露光→潜像→現像・定着→画像→鑑賞・評価・解析という流れになる。写真のネガからポジのプリントを作る過程も露光,現像,画像形成の過程であって独立した写真のプロセスである。
以上は一般写真撮影の例であるが,写真技術の広い応用を含めて考えると,写真のプロセスもいっそう拡張して考えなければならない。まず第1に写真フィルムは光のほか紫外線,赤外線,X線,γ線,さらに電子線などの粒子線に対しても感じて潜像を作る。このような写真においてはレンズを備えたカメラは必ずしも適さず,直接的な記録も行われる。また感光材料については広く一般に使われるハロゲン化銀乳剤を塗布したフィルムのほか,複写に用いるジアゾ感光紙(ジアゾタイプ),電子写真の光伝導性材料あるいは写真製版に用いる感光性樹脂もある。これらの材料を含めて画像形成過程を考えると,現像の過程が種々多様であり,得られる画像の形,色も種々あることがわかる。したがってこれらを含めた写真のプロセスは,エネルギー情報→露光・露出→画像形成と表される。このプロセスで得る画像は,原則的に二次元平面上の可視像の形であることが写真の特徴といえる。
一般写真撮影,映画,X線写真などに使われるフィルムは,ハロゲン化銀(臭化銀)に微量のヨウ化銀を混ぜてゼラチン中に分散させた写真乳剤を,支持体フィルムに塗布,乾燥したものである。写真撮影によってフィルムを露光するとハロゲン化銀は光化学変化を起こしてハロゲン化銀結晶中に銀原子集団を作るが,この状態では乳剤の外観の変化は起こらず潜像が形成された状態である。潜像を有する乳剤を還元剤に触れさせて初めて潜像は可視像に成長する。この操作を現像と呼び,現像によって潜像の少量の銀は1010倍も増幅されて銀画像になる。この増幅は銀塩写真の大きな特徴であって,銀塩フィルムの感度が高いのは現像の増幅のおかげである。銀塩写真では被写体の微妙なトーン(調子)をよく再現することができるが,現像処理の処方によって画像コントラストを変化させたり,画像の色調を変えたりすることもできる。また,通常の現像ではネガ像が得られるが,ネガの現像を終わってからこの画像を漂白し,残存するハロゲン化銀を現像してポジ像を得る方法(反転現像)もある。写真フィルムを現像した場合,このままではフィルムに光が当たると残存ハロゲン化銀が感光するため,残存ハロゲン化銀をチオ硫酸ナトリウム溶液で溶かし,続いて水洗して感光層から取り除く。この処理を定着という。写真フィルムや印画紙を露光してから画像を作るには現像,定着,水洗の処理が必要で,このため銀塩写真では撮影してから写真を得るまでの仕上り時間(アクセスタイム)が長く,数十分程度を要する。この仕上げ処理を効率化するために自動現像処理機を用いて30℃付近のやや高い温度で現像が行われる。また,銀塩写真を早く仕上げるシステムとして1950年代に黒白のインスタントフォトグラフィー,63年からカラーのインスタントフォトグラフィーが開発され,撮影後約1分間で写真の印画が得られるようになった。黒白のインスタントフォトグラフィーでは拡散転写法を使って現像仕上げが行われる。これは,露光を与えたネガフィルムを,現像核を含むポジ材料と密着させ,ハロゲン化銀溶解剤を添加した現像液で現像するもので,未感光のハロゲン化銀がポジ材料に拡散して現像核の位置で現像されてポジ像を作る。
→インスタントフォトグラフィー
ハロゲン化銀を感光主体とする銀塩写真システムは,一般写真撮影をはじめ業務用写真に広く利用され,写真の主流を占めている。銀塩以外に感光性の化合物は無数といってよいほど存在しているのであるが,記録材料として銀塩にまさる感度,色と調子の再現性,画質を備えた材料は当分見いだされる気配がなく,少なくとも撮影用システムとして銀塩の王座は守られる見通しである。しかし銀資源の窮乏,アクセスタイムの長いこと,経済性などの点で不利な面もある。第2次大戦後の化学と化学技術の発展の中で多くの感光性物質が研究され,写真撮影以外の写真システムの中では非銀塩材料のシステムが開発されて成功を収めている。非銀塩写真システムの一つは文書の複製とマイクロ複写のコピーに利用されるジアゾタイプである。ジアゾニウム塩の感光性と発色性を利用するジアゾタイプは,露光によって直接ポジ像を作る便利さ,乾式または半湿式現像の手軽さと経済性によって複写用銀塩印画紙を圧倒した。またオフィスコピーの分野では,1950年代に開発された電子写真システムが迅速な仕上り,水性現像液不用という点で歓迎され,近年では高速で拡大縮小あるいはソーター機能を備えた電子写真複写機が普及している。非銀塩写真システムの成功例として写真製版用の感光性樹脂も見のがすことができない。写真製版には古くから重クロム酸塩の感光性を利用する重クロム酸卵白あるいはグルーが使われてきたが,この時代には材料の保存性が悪いため作業者がみずから製版用感光材料を準備しなければならなかった。1960年代になってジアゾ樹脂をアルミニウム板に塗布したPS版がオフセット印刷製版材料として開発され,重クロム酸塩の材料はしだいに姿を消した。また,光重合によって不溶化する感光性樹脂がアメリカのデュポン社によって凸版用材料として開発され,新聞印刷用の鉛版が感光性樹脂凸版に置きかえられるようになった。さらに,ポリケイ皮酸ビニルほか一群の感光性樹脂は露光によって分子間架橋を作り,薄層で腐食性薬品に対する防護性をもち,フォトレジストとして有用で,種々の材料に微細な加工を施すフォトエッチング技術に利用されている(フォトファブリケーション)。これらの非銀塩感光材料は,銀塩写真時代には考えられなかった新しい写真とイメージングの分野を開いて,写真の応用技術を著しく拡大した。
非銀塩感光材料は以上のほか多数の興味ある材料が研究され,たとえば露光によって色像を形成し,加熱によってこの画像が消失するフォトクロミズム材料,紫外線露光によって色像をプリントアウトするラジカル写真材料,樹脂中にジアゾニウム塩を配合して紫外線露光による光分解により樹脂中に微細気泡の画像を作るベジキュラー写真材料などがあり,これらの一部はマイクロ複写,色分解写真の校正あるいは製版のマスク材料などに使われる。写真撮影以外の記録においては記録材料の感度が必ずしも高くなくても目的を達し,また光源として強力なレーザーあるいは電子線などを使って非銀塩記録システムが作られる。X線写真の例ではフィルムの代りにX線記録板を置いてX線照射量を記憶させ,ついで記録板をレーザービーム走査してX線照射量に対応する発光を起こさせ,この光を電気信号に変換し,画像処理ののち再び電気信号を光に変えてフィルム上にX線写真を作るシステムが発表され,実用されている。このシステムは光電変換や画像処理を採り入れ,X線被ばく線量低減にも効果をあげている。写真技術はエレクトロニクス技術の導入によって近代化され,カメラの自動露出設定,自動焦点機構,モータードライブなどを達成したばかりでなく,1981年にはCCD素子による全電子式スチルカメラが発表された。これは,従来のフィルムに代わって記録機能を電子的に行うもので,この技術の発展が将来期待される。
写真は広く一般に撮影用としてアマチュア,営業写真家,写真作家,報道関係に使われるほか,宣伝,印刷原稿,各種記録に用いられる。また写真技術の応用では映画,テレビジョン録画媒体,医学診断および工業材料検査のX線写真,複写,写真製版に多量に使用されている。写真感光材料工業の生産量から見ると,近年の先進国では一般撮影用フィルムよりも業務用およびX線用感光材料が多く製造され,生産金額では一般撮影用と業務用とが1:1に近くなっている。写真の用途の中で一般撮影に近いものとして航空写真,写真測量あるいは宇宙写真があるが,高度の宇宙空間から地表の写真を撮影する技術はリモートセンシングと呼ばれ,地球資源探査,気象観測,海洋や地表の汚染調査等に利用され,国際間の協力の下に業務が進められている。宇宙空間からの観測の場合,写真撮影とテレビジョン技術ならびに通信技術が総合されて画像が得られるので,電気信号を地上で受信して最終的に写真像を作る場合もある。科学技術分野の写真の応用としては天文写真,顕微鏡写真,電子顕微鏡写真,分光写真,高速度写真および高速度映画,オートラジオグラフィー,粒子線写真などがあり,写真技術的観点から見ると紫外線写真,赤外線写真,写真測光,立体写真などが挙げられる。非銀塩感光材料のシステムは複写,マイクロ複写,写真製版,X線写真,フォトレジストなどへの応用が主となっている。
写真の画像を心理的に評価した場合の総合的な品質を,写真の画質と呼んでいる。黒白写真の画像は現像によって形成された微細な銀粒子から成っており,カラー写真の場合も色像は三原色の各色素が現像の過程で色素雲と呼ばれる塊状を呈してでき上がっている。写真像を大きく拡大するとこの粒状構造がわかるが,大きい引伸し写真にも画像の細部の粒状が認められる。写真像の粒状の性質を粒状性という。写真像が粒状性を呈することから,写真では被写体の細部の再現には限度があることが理解され,これと関連して写真像が鮮明に仕上がっているか否かという評価がなされる。写真像の鮮明さは鮮鋭度で表される。写真像の粒状と鮮鋭度は画質に関係する因子として重要視され,粒状と鮮鋭度をまとめて像構造image structureという。
写真像は現像によってできた微細な銀粒子から成っているが,写真像を拡大して観察される粒状は個々の現像銀ではなく,写真層中に分散している現像銀の重なり合った結果できたものである。黒白写真,カラー写真ともに高感度のフィルムは低感度のものよりも粒状が大きくなって目だちやすい。また同一フィルムでも現像時間を長くすると粒状は大きくなる。写真像の粒状は画像濃度によっても異なり,写真濃度の値で0.3~0.6の低濃度部で粒状が目だちやすい。写真像の粒状を相互に比較する場合,二つの方法がある。第1は肉眼観察による方法で,この場合の粒状を心理的粒状性と呼び,第2はマイクロ濃度計などで測定する方法で,この場合の粒状を物理的粒状性と呼ぶ。心理的粒状性を測るには写真像を種々の倍率で拡大し,ちょうど粒状の識別される倍率を求める。また,拡大した写真像を種々の距離で観察し,粒状の識別される限界の距離を求める方法もある。物理的粒状性を求めるには写真像をマイクロ濃度計で走査して多数の測定点の濃度の偏差の2乗平均根を求める方法があり,この方法で求めた粒状はRMS粒状度という。
写真像の鮮鋭度は,撮影に用いるカメラのレンズの性能とフィルムの性能のほか,フィルムの現像条件とネガからポジを作る際の焼付け条件などによって異なり,最終的に得られる写真像の鮮鋭度を良くするには撮影から仕上りまでの全体のシステムについて吟味する必要がある。感光材料の品種については一般に低感度の微粒子乳剤を使ったフィルムは高鮮鋭度の画像を与え,また同一乳剤でも乳剤塗布層を薄くし,ハレーションやイラジエーションirradiation(感光層に入射した光の乳剤内部での反射・散乱によって,正規の像の周辺まで感光すること)を防ぐ対策を採れば画像の鮮鋭度が増す。写真の画像が高鮮鋭度を持つ,すなわちシャープな印象を与えるということは,画像の濃淡の境界が明確な状態であり,フィルムの現像の場合にエッジ効果(乳剤膜の高露光域と低露光域との境界で,濃度が,高露光域では一段と高く,逆に低露光域では低くなる現象)を起こすような方法を使うと,画像の輪郭が明瞭になって画像の鮮鋭度が増す。近年のカラーフィルムでは現像中にエッジ効果を強調する化合物を用いて画像鮮鋭度の向上をはかっている。画像の鮮鋭度が高いか否かの判断は感覚的なものであるが,写真像の物理的測定から鮮鋭度に関係の深い量を求めて,鮮鋭度を客観的に扱う方法も考えられている。
写真像が被写体の微細な部分を画像として記録しうる能力を解像力という。解像力も撮影に用いる写真レンズ,感光材料の品種,現像処理条件によって異なるほか,被写体コントラスト,露光量,光の波長によっても異なる。感光材料の品種については鮮鋭度と同様,微粒子低感度のフィルムは高い解像力をもち,撮影用ネガフィルムよりも映画のポジフィルム,複写用フィルム,マイクロ写真用フィルムなどが高い解像力をもっている。解像力を測るには,等しい幅の黒と白の線が並んだテストチャートを撮影して現像し,画像が離れた線として記録できる限界の線幅を求める。一般撮影用黒白ネガフィルムの解像力は60~80本/mm程度で,カラーフィルムはこれより解像力が低い。解像力は鮮鋭度とは異なる概念であって,解像力が高くても必ずしも高い鮮鋭度の画像とは限らない。
執筆者:友田 冝忠
中国美術で肖像画のことをいう。中国では,肖像画は像主の外形を似せるだけでなく,その本質,精神性をも表現しなければならないという要求があった。それが真という文字にあらわれているのである。肖像画をさす言葉としてほかに,伝真,伝神,写照,写貌などがあり,伝真,伝神には写真と同じ,精神性を表現しようとする傾向が読みとれる。
執筆者:戸田 禎佑
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
光と物質との相互作用を利用して,被写体を目に見える画像として記録すること,あるいはその記録物をいう.通常は,レンズによって被写体像を感光材料面上あるいは撮影素子面上に結像させて記録する.より広義には,光またはX線や粒子線そのものの記録または記録物も写真という(分光写真,天文写真,高エネルギー線の飛跡写真など).記録,複写,製版,医療診断,科学的検出などに広く用いられる.感光材料としては,ハロゲン化銀の感光作用を利用したものがもっとも一般的である(銀塩写真).カラーフィルム,印画紙,X線フィルム,印刷の製版に用いられるリスフィルムなどがある.感光したハロゲン化銀粒子で目に見えない潜像が形成され([別用語参照]写真感光理論),潜像をもった粒子のみが現像によって還元され,目に見える銀画像あるいは色素像を形成する.このほかに非銀塩感光材料も用いられている([別用語参照]非銀塩写真法).デジタルカメラなどに用いられる撮影素子としては電荷結合素子(CCD)が一般的であり,記録されたデジタル情報は銀塩写真,インクジェット法,感熱記録法などさまざまな方法で目に見える画像として出力される.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
字通「写」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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[現代絵画]
ジャンルの序列を重んじた西欧アカデミズムの絵画観は19世紀中葉以降大きく揺らぎ,主題よりも表現を重視する近代的絵画観が確立するとともに,絵画は色と形の自律的構成に向かうようになる。写真の登場によって,これまで絵画に担わされてきた記録,記念,伝達,教育などの機能が大きく写真に奪われたことも,絵画の自律化を促す要因となった。20世紀の抽象絵画(抽象芸術)はその一つの到達点である。…
…一般に山や丘,野原や水辺,田園の風景など,四季を通して移り変わるさまざまな自然の景物を主題とした写真をいう。添景としての人物などを取り合わせる場合もあるが,これが主要な対象となるときは,普通,風景写真とはいわない。…
…このようにして,〈複製〉という言葉のよってきたるところを探りだすことにより,われわれは複製という概念が,そもそもは強く数量の意識としてあったであろうことを知るわけであるが,そのような数量としての複製が,それを支える種々の技術的発展によってほとんど爆発的な増殖をみせ,ある質的な転換をも示すようになるのは,19世紀中葉から20世紀にかけてのことであった。 今日われわれは,精巧な複製画や画集によって絵画と向かい合い,レコードやテープによって音楽に親しみ,写真やテレビの映像によって人物と対面する。現代はいわば〈複製文化〉の時代であり,かつてW.ベンヤミンが《複製技術の時代における芸術作品》(1936)で指摘したように,われわれはこれらの〈複製体験〉によって,その意識下に大きな影響を被っているということができる。…
※「写真」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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