目次 人間と写真の歴史 写真の出現 芸術写真の系譜 肖像写真の系譜 記録写真の系譜 美術と写真の相互関係 写真とはどのようなメディアか 写真の技術 写真の発明と発展 写真のプロセス 写真像の形成 新しい写真 写真の用途 写真の画質 粒状性 鮮鋭度 解像力 光を媒体として物体の像を感光性記録材料の上に画像として記録する方法,およびこれによって得た画像をいう。一般にはレンズを備えたカメラ に感光性記録材料として写真フィルム を収め,光の下で被写体を撮影,現像して写真画像を得る。
人間と写真の歴史 写真の出現 いわゆる〈写真術photography〉が発明される前に,カメラの原型に相当する装置はすでに存在していた。10~11世紀のアラブの学者アルハーゼン(イブン・アルハイサム )は,日食観測に用いた〈ピンホール〉利用の装置を,光学についての研究報告書のなかで明確に説明している。しかし彼自身の考案とは書いていないので,この装置はその前からよく知られていたものと考えられる。また後にレオナルド・ダ・ビンチによって書き残されたメモのなかにも,〈カメラ・オブスキュラ 〉の名がたびたび使われており,それが実在していたと推測される。そして同じイタリアの自然哲学者G.B.dellaポルタの《自然魔術》(1558)の記述では具体的に,カメラ・オブスキュラの絵画への応用を推奨している。カメラ・オブスキュラとはラテン語の〈暗い部屋〉の意味で,閉じた暗い部屋(箱)の側面に小穴を設け,向いの側面に,この穴を通して外部の画像を写し出す装置のことである。のちには小穴(ピンホール)の代りに凸レンズを取り付け,像の映る側面をすりガラスにして,これに紙を当てがい,像を鉛筆でなぞって引き写す道具とした。18,19世紀になるとカメラ・オブスキュラやこれに類似する装置は,絵画の補助手段としてしだいに普及し,画家の常備する道具となった。もしカメラ・オブスキュラの光像を,鉛筆でなぞるのではなく,そのまま固着させる方法があれば,これに越したことはない。こうして写真術発明への下地は,時代の要請の中に形成されていったのである。あとは光像をなんらかの方法によって固着させる技術の開発が残されていただけであった。その開発には当時の化学者や発明家がさまざまな動機のもとに取り組んでいた。銀板写真(ダゲレオタイプ)の発明者L.J.M.ダゲールは,もともと画家でありオペラの背景等のディオラマの作家でもあった。彼の絵はこの時代にふさわしく,きわめて客観的・自然主義的な作風であり,またディオラマも当然のことながら現実再現的な味わいの濃い巧みなもので,どちらも高い社会的な評価を得ていた。そうしたダゲールが写真術の発明を志すのも,その芸術的な立場からすれば当然の道程であったといえる。
写真は,初めから今日にみるような種々の用途を目標として開発されたわけではなく,さまざまな人々が初めてみる写真の画像から,その特徴を一つ一つ発見しながら,応用の途を広げてきたのであった。たとえば,初めて写真を見た人々が,写真に写された舗道の敷石の数や形が現実と寸分の違いもないことに驚嘆したという話や,1人の肖像を撮るのも2人以上何人撮るのも同じ時間でできるという初期の営業写真家の宣伝文句は,のちに写真の用途が多方面に繰り広げられてゆく前段階の挿話として,きわめて象徴的である。
最初の実用的な写真術としてダゲレオタイプが公表されたのは,1839年8月にフランス学士院 で催されたアカデミー・デ・シアンス(科学アカデミー)とアカデミー・デ・ボザール(美術アカデミー)の合同会議の席上であったが,このほかにも多くの研究家(J.N. ニエプス,W.H.F. タルボット,ベイヤール,ウェッジウッド,ハーシェル等)がほぼ同時期におのおのの考案を前後して開発していた。それぞれに方法は違っていても,それらが芸術への利用を目的として開発されている点は同じであったし,後続する写真の開拓者たちの場合も,目標はつねに芸術表現の可能性に向けられていた。そのため当初の写真の対象は風景,静物,肖像といった絵画的主題が中心となっていた。当時の状況を考えると,写真が絵画芸術を手本として出発するのは当然であり,現実に写真を新しい表現媒体として利用することに意欲を見せたのも,多くは画家たちであり芸術愛好家たちであった。
だが画家たちのすべてが,写真の登場を喜んで迎え入れたわけではなかった。人の手をわずらわせずに現実の像が描けるということは,古くから多くの画家にも望まれていたことであったが,いざ写真術の実現をみると,フランスの画家P.ドラローシュが〈今日を限りに絵画は死んだ〉と叫んだというほど,画家たちは大きな衝撃を受けた。なかでも肖像画家,ミニアチュール画家,シルエット画家,風景画家,複製画家などにとって,写真は脅威的なライバルとなり,事実,職を失う者も多かったという。あるドイツの新聞は,写真は〈神への冒瀆である〉という論説を載せて発明者ダゲールを非難したし,パリの美術家たちは写真の禁止を要求して政府に陳情したという。かのD.アングルなどもその反対運動の先鋒に立っていたが,しかし彼は写真の力は正当に認めていた。彼の《泉》(1856)が,実は写真をもとに描かれていたという事実が,今日明らかにされている。写真の出現は画家たちを一時的にもせよ混乱に陥れたことはまちがいない。しかし,写真の像が本質的に絵画と異なる点が明らかになるにつれ,逆に20世紀に向かって絵画は独自の方向を見いだしていくが,これは同時に写真が独自性を発見してゆく道でもあった。写真を参考として利用した画家としては,クールベ,セザンヌ,アンリ・ルソー,ピカソなどがいるが,とくに積極的に公然と写真にもとづいて描いた画家としては,E.ドガやT.ロートレックがよく知られている。
芸術写真の系譜 上述のように当初の写真においては絵画の主題を手本とするのが当然のように考えられていた。O.G.レイランダー の〈人生の二つの道〉(1857)のような寓意的,教訓的な主題による合成写真や,ロビンソンHenry Robinson(1830-1901)の感傷的な場面の演出写真などが,そうした意味あいから〈芸術写真〉として一般に迎えられ高く評価されていた。それはたしかに技術の水準も高く演出も巧みであり,写真の可能性の一面を早くから開拓した作品ではあった。しかし,そうした主題は当時の芸術意欲の退廃した局面と呼応したものであり,こうした絵画的主題の採用は,のち長い間いわゆる〈芸術写真〉の〈様式〉として固定概念化してしまい,写真本来の表現特性を発揚した作品の登場を阻害していた。とくに1890年ころから1910年ころまでは,この芸術写真,あるいは絵画主義(ピクトリアリズム )の全盛の時代であり,後年,対象の本質を的確に把握してすぐれたリアリズムの作品を数多く残した,A.スティーグリッツ やE.スタイケン にしても,この絵画主義から出発していた。だが,初期の芸術写真の中に見られたもののうち,たとえば合成写真という技法自体は,のちG.グロッス,J.ハートフィールド,あるいはE.リシツキー,M.エルンストなどの,フォトモンタージュ やフォトコラージュ という非合理だが統一的な空間を構築するという近代芸術の中で新しい光をあびるのであった。
〈理想化された映像〉,あるいは典型的には女や風景などの〈美しいものの表現〉としての芸術写真の系譜は,アマチュア写真家が中心になって引き継がれ現代にまで至るが,これは絵画芸術のような技術的習熟を必要としないという写真の性格によるもので,誰にでも,比較的短期間に写真のひと通りの技術は修得することができた。それに写真技術の修得や機器の操作それ自体が,けっして無味乾燥なものではなく,興味深い対象でもあった。〈いわゆる芸術写真〉の様式に即すならば,容易に〈芸術〉的な表現が得られるという大衆性から,いわば趣味として一般化し普及したのである。現在高く評価されているいくつかの芸術写真も,基本的にはこうした土壌と文脈の中から生まれ出たものであり,このような特質を考慮することなしに,その写真を語ることはできない。その意味で西欧のいわゆる〈サロン写真〉が果たした役割はきわめて大きいが,それと同様に,日本でも当初の写真表現と技術の開発は,アマチュア写真家やその団体,クラブなどの活発な活動によって支えられてきた。
日本における写真の歴史は,1840年(天保11)ころに長崎に入港したオランダ船によってダゲレオタイプが渡来し,薩摩藩の御用商人であった上野俊之丞がこれを入手したことに始まると言われる。移入された当初の事情は必ずしもよくわかっていないが,わずかな情報と化学薬品や器具の調達に苦心した末に,俊之丞の子の上野彦馬 や下岡蓮杖 が写真術を修得した。2人の先覚者の下に多くの弟子が生まれたが,彼らはすべての意味における職業的写真家,すなわち技術者,研究者であると同時に,肖像写真を主体とする営業写真館の経営者でもあった。芸術という自覚のもとに写真を撮る者があらわれるのは,後の写真を趣味とするアマチュア写真家たちの出現を待たねばならない。すでに明治の後期にそのような動きはあったが,そうした系統の写真家として,1923年に日本で最初の写真芸術論というべき《光と其諧調》を発表した福原信三 ,野島康三 ,中山岩太 を代表としてあげることができる。日本のアマチュア写真家も西欧と同様に絵画的主題からの影響はまぬがれなかったが,しかしなじみ深い山水画をはじめとする文化的・風土的背景の影響は,日本の地方色として著しい特徴となっている。このため明治期の多くの写真には独特の抒情性が見られ,この主題を助長するために〈ピグメントpigment法〉という写真に顔料を用いる技法が流行した。このプロセスでは手作業による強調と省略が自由に行えるので,絵画的なイメージにいっそう接近させることができた。こうした芸術写真の傾向は,時代が進むにつれてしだいにモダニズムの影響を受けはじめるが,1930年ころを境に〈新興写真 〉と名付けられたいわば前衛的な写真が急速に目だつようになった。構成主義,シュルレアリスム,新即物主義などの芸術思潮がその作品とともに日本に紹介され,こうした契機から新進気鋭の写真家が単なる趣味を脱した写真表現者としての立場から,写真活動を行うようになった。またこの前後の時期にはグラフ・ジャーナリズムの隆盛から,営業写真家以外のジャーナリスティックな職業写真家が活動の場を得ることになるのだが,その土壌となったのもアマチュア写真家の広い層であった。
肖像写真の系譜 写真の歴史において肖像写真はその初期の段階から特別な地位を占める。みずからの肖像 を画家に描かせそれを得ることは,長く人々(とくに上流階級の人々)にとっての,強く社会的な性格を帯びた一つの欲求であったが,それは画家を長期間にわたって雇わなくてはならないので,14,15世紀以来貴族や富豪など権力者でなければできることではなかった。肖像画はいわば社会的地位の象徴であり,大衆にとっては無縁のものであった。だから,写真が発明されるとまず何よりも求められたのは,この肖像写真であり,そのような求めはかなりの勢いでおし寄せたので,たちまちのうちに肖像写真は写真家の主要なビジネスとなった。比較的安価に,しかも一時に多くの需要に応えることができたので,客は尽きることがなかった。大衆は長いあいだ,肖像を残すことにあこがれていたのである。フランスのディスデリAndré Adolphe-Eugène Disdéri(1819-90?)は同時に8枚から12枚の写真が撮れる〈名刺判写真〉をくふうして手数を省き,普通は1枚50~100フランしていた肖像写真を20フランで撮影したという。人々はさらに友人,知人や家族との肖像写真の交換・収集を行うようになり,そこからいわゆる家族アルバムのようなものも生まれていった。しかし,増大する肖像写真の需要は,一方でこうした状況を見のがさない未熟な職業写真家をはんらんさせ,写真の品質を低下させもした。明治期の日本においても肖像写真の初期の経緯はこれとまったく同じであった。
しかしこれとは別に,初期の時代にすぐれた肖像写真を残した写真家もいた。J.M.カメロン は1863年,48歳になってから写真を始めたが,広い交友関係から詩人のA.テニソン,R.ブラウニングや,科学者のC.ダーウィンなど,数多くの著名人の肖像写真を今日に残している。彼女の写真は今でいうクローズ・アップの手法を用いた先駆でもあるが,〈人物の内面性〉をとらえていることで高い評価を得ている。その評価の一端は,彼女の用いたカロタイプcalotype(またはタルボタイプ)という写真術に負うものであった。この方法はW.F.タルボットの考案によるもので,紙の上に感光材料を塗って撮影し,これを現像した後,再び同じ感光紙にプリントするので,何枚も同じ写真の複製を作ることができた。現代の写真法と同じこのネガ・ポジ法は,1枚の写真しか作れない,当時主流であった銀板写真にまさっていたが,紙を透してプリントするため微細な描写には欠けていた。しかしその反面,なまなましい描写が和らぐので,芸術的な気品が高まるとして好んで使う者も多かったのである。また当時の写真は感光度が鈍く長時間の露出が必要だったので,被写体も長時間,表情をひきしめ,また同じ姿勢をとり続けなければならなかった。しかし,これがかえって威厳のある肖像写真を作る原因ともなっていた。カメロン夫人のほかにD.O.ヒル とアダムソンRobert Adamson(1821-48)もカロタイプを使っていたが,彼らのすぐれた芸術的資質に加えてこうした撮影条件が,彼らの肖像写真のスタイルを決定づけていた。そして写真(フィルム)の感光度が高くなるまで,こうした古典的な肖像画の様式を踏襲したともいえるスタイルは,一般的な傾向として続いたのである。このほかにも初期の時代の著名な肖像写真家として,アメリカのM.B.ブラディ ,フランスのナダール らがいる。ブラディは多くの名士を撮りその写真集を出版,1861年には年間3万枚を超える肖像を撮ったといわれる。ナダールもパリのスタジオを訪れる名士たちのすぐれた肖像を撮っていたが,彼はほかにも気球の上から空中写真を撮るなどさまざまな撮影を試みた才人であった。また同じころに《不思議の国のアリス》の作者L.キャロルは少女たちの愛すべき写真の数々を残している。
このように肖像というものは当時の写真の主要な表現主題であったが,大衆の要求に応えた大量の肖像写真は,社会史的に見れば,人々が写真そのものと親しみを深める役を果たし,絵画とは違う写真の特性についての知識の普及に役立った。のちに素人にも容易に撮れるイーストマン・コダック社の写真システムや,乾板,ロールフィルム等の普及によって誰にでも写真が撮れるようになったことから,営業的な肖像写真の需要自体は減少したものの,写真はいっそう身近なものとなり,写真画像の日常生活への浸透は急速に進むことになった。またフィルムの感光度がいっそう高くなりスナップ撮影(スナップ写真 )が容易になると,瞬間的な表情や姿態が撮影できるようになったため,人々は肉眼ではとらえられぬもう一つの人間像を写真の上に見いだすことになった。この視覚体験は現在考えるよりはるかに大きな影響を人々に与えたはずである。
こうしていわゆる〈肖像写真〉は転機を迎えて,いわゆる記念写真,家族写真なども含めた広義の〈記録写真〉一般の中に融合されてゆくが,しかしいうまでもなく,今日においても肖像写真は個人を同定する視覚物として,またある意味でその存在自体を示し得る視覚物として,決して意味を失ってはいない。たとえば毎日の新聞紙上をにぎわす写真の大半は顔写真を含めた人物写真で占められており,結婚式や成人の日など,人生の結節点には必ず撮影される人物を中心に置いた記念写真,あるいは親しい者のあいだで少なからず行われているであろう肖像(顔)写真の交換,さらに歴史的にはブロマイドに始まり,今日では種々のメディアを通じてはんらんしている他者(芸能人,有名人)の肖像など,これらは種々の別な要素を含むものではあるが,大枠としては上述の肖像写真の系譜の中に位置づけることができるであろう。
記録写真の系譜 写真の最も基本的な性質をあげるならば,それは記録機能であろう。そのことは初期から注目されていた本質であり,写真について論じる場合に,つねにその議論の中心として考えられてきた。初期の時代には,単なる記録写真は写真の機能をむき出しにした生で低次なレベルのものとして考える風潮があり,写真家の解釈と操作が表だって現れてこそ良い写真なのだ,と考えるところもあったが,多くの写真家は,写真の記録性を率直に,あるいは信じるままに認めて,これを表現と伝達に向けて素直に利用していたのであった。
たとえば,日本においては,明治の北海道開拓の組織立った記録が,田本研造(1831-1912)らによって撮影され,今日それは,撮影者の意図を超えたレベルで,時代の貴重な記録(ドキュメント)としてその価値を再認識されている。また陸軍測量部員小倉倹司らの従軍撮影による《日清戦争実記》などの出版(1894)もみられた。海外の例をみると,1855年にイギリスのロジャー・フェントンRoger Fenton(1819-69)が世界で初めての従軍写真家としてクリミア戦争を撮影し,これを元とした木版刷りの絵が新聞に載せられた。当時は写真印刷がまだ開発されていなかったので,しばらくの間は〈写真を元として描かれた〉という注釈によって写真と同様の信憑性を得ていた。また,旅行者や探検家は異国や僻地を撮影してこれを公表し,見る者は未知の土地を知る喜びを,素直に味わったのである。人々はこれらの写真の記録によって,直接経験できない時間と空間を身近にすることができたのであった。アメリカの肖像写真家であったM.B.ブラディは,アレクサンダー・ガードナーAlexander Gardner(1821-82)らとともに南北戦争の記録を精力的に撮り,そのため財産を使い果たしたといわれる。また,20世紀初頭のパリではE.アッジェ が,パリの庶民の生活や風俗をさかんに撮影していたが,それも一つの時代のドキュメンテーションであったということができるだろう。こうした記録写真あるいは写真による記録への執着は,写真が〈芸術〉であるとしても,記録性に基づいてこそその特質が発揮されるのであり,また記録性自体の力によって成立する写真も,世界を知るもう一つの方法として重要なのだ,といった考え方が早くから芽ばえていたことを証明するものであろう。
たとえば,後の映画の発明にもつらなるものとしてよくあげられるE.マイブリッジ が撮った有名な馬が駆ける連続写真(1877)にしても,当時の人々にとっては,馬が疾駆する様子を分析的に見ることなどは,誰にとっても初めて出会う視覚体験であったはずで,そうした驚異は深い感動とともに味わわれたことだろう。この無垢の好奇心を満たすのが,記録写真の最初の動機であり,風景写真にしてもその点は同じであったと思われる。それが〈芸術〉であるか否かは問題ではなかった。日本でも江崎礼二が隅田川で行われた水雷爆破の瞬間を撮影(1883)して,〈早撮り〉写真の評判を高めたが,これも初見の写真が驚異として迎えられたからにちがいない。記録写真は記念や確認という目的とともに,こうした心的作用もその成立・発展の大きな要因を形成しているものと考えられる。
写真というメディアはこのようにして,人間のコミュニケーションあるいは情報伝達の場において,一つの重要な地位を占めることになるのであるが,この記録するものとしての写真は,大量複製手段である印刷メディアと結びつくことにより,さらに開花することとなる。それはいわゆるグラフ雑誌の出現である。アメリカの《ライフ 》誌(1936創刊)を代表とする世界的なグラフ・ジャーナリズム の盛況は,多くの意欲ある写真家に活躍の場を与えるとともに,フォト・エッセイ,組写真 といった写真ジャーナリズム独特の新しい手法・スタイルを生み出し,確立させていった。R.キャパ ,M.バーク・ホワイト ,E.スミス ,H.カルティエ・ブレッソン といった写真家は,そのようななかから現れた写真家である。日本でジャーナリズムにおける写真の位置づけを明確にしたのは,名取洋之助 ,木村伊兵衛 らによる理念の実践としての〈日本工房〉(1933創立)の出版活動に始まるといえる。もちろんその前にも写真はジャーナリズムの中で盛んに使われていたが,多くは文章の挿絵であったり,図的な資料としての写真であった。しかし名取は写真主体の編集を行いその要素としての写真を,一貫した論理のもとに刊行物として具体化していった。このころから日本は戦争の泥沼の中にしだいにはまり込んでいくわけであるが,戦時体制の強化は写真を否応もなくその中に巻き込んでいった。写真は上述のように,社会性の強い説得力のあるコミュニケーション手段であったので,国策の宣伝,戦意の発揚の一手段として大いに利用され,写真界の様相も大きく変わっていったのであった。なおナチスにおいても,写真が,より徹底した形でその独特の宣伝方法の中に組み入れられていたことはよく知られる通りである。
第2次世界大戦後のグラフ・ジャーナリズムは,基本的には戦前の延長線上にあり,その事情は,土門拳 ,木村伊兵衛ら戦前派を中心に復興した日本の場合も同じであった。そして,明るいレンズの開発,フィルム感光度の向上,ストロボ・ライトの開発など,戦前から積み重ねられてきたさまざまな写真機材の開発およびその性能の向上は,写真が記録できるものの幅を飛躍的に広げ,多くの人々に種々の印刷メディアを通じて,さらに新しい視覚体験を提供し続けたのであった。1950年代のテレビの登場によって,いわゆるグラフ雑誌自体は視覚メディアとしての特権的な地位を降りることになるが,今日,むしろ写真自体は雑誌メディアを含めたさまざまなメディアのなかに浸透しており,その記録性あるいは写〈真〉性は,広告,報道,研究,各種記念・記録など多くの目的のために利用されている。なかでも,戦後から今日に至るまでの広告写真 の発展にはめざましいものがあるといってよい。 執筆者:大辻 清司
美術と写真の相互関係 当初は一部の画家たちによって写真がデッサンなどの実制作に利用されていたが,19世紀後半以降は写真の特性そのものが美術に影響を与えるようになる。本来,写真を撮ることは絵を描くことよりもはるかに簡単で身軽であったから,自在な視覚をものにできたし,一つの物の多様な像も作り出せた。このような写真の出現を前に,絵画の遠近法,画面の完全な構図が揺らぎはじめる。見慣れない視角から物を見ることや,静的な構図の構成から経過の途中の一瞬の把握という移行が,とくに後期印象派にあらわれてくるのは,明らかに写真の影響である。運動の解析的な把握はE.マイブリッジやマレーÉtienne-Jules Marey(1830-1904)によって行われるが,それはやがて世紀を超えて未来派 の表現のなかに姿をあらわすようになる。写真は1枚の画面では遠近法的でありながら,その全体で,人間に遠近法的視覚,あるいは遠近法的認識を解体させるように働いた。この間の美術の展開に対して,写真が外界のイメージの再現を引き受けたため,美術は再現でなく,みずからの構造の探究に向かったという解釈もある。しかし,19世紀後半からの美術の変容は,むしろ写真との直接間接の相互関係のなかで眺める方が正確であろう。たとえばM.レイ の写真やダダイストのフォト・モンタージュは,美術と写真を峻別することからは理解できない。また,モホリ・ナギが理論的な中心となるバウハウス (1919設立)は,単にデザインの近代化を目ざしただけではなく,広範な視覚表現全体を統合して眺める視野を形成していたのである。
第2次大戦後の現代美術において,美術と写真の相互関係はもっと明確に概念化されるようになる。たとえば,一見,視覚表現を抜け出したように見えるパフォーマンスにおいて,写真は事後の記録という以上にあらかじめ前提とされるのである。また,1960年代末には,写真と見まがうほどの極度の写実的描写を特色とする〈スーパーリアリズム 〉が現れる。これは,絵画によって写真を模倣しようとするものというより,写実主義の虚構性を問うものであったと言えよう。 執筆者:多木 浩二
写真とはどのようなメディアか 今日,われわれの生活の中には,写真が満ちあふれている。部屋の中を見渡しただけでも,新聞,雑誌,書籍はいうまでもなく,カレンダーやポスターあるいは種々のパンフレットの中にそれは使われているし,町を歩けば写真を利用した数多くの広告や掲示を目にする。また,今日ではほとんどすべての人がカメラを操作することが可能であり,家庭内外の記念や記録のために,またあるいは仕事上,研究上の記録のために,さらには一種の趣味としてそれ自体を楽しみに,写真を撮るという行為を行っている。かつて,驚きの目を持ってみられた写真は,もはや,われわれの環境の一部と化していると言っても過言ではあるまい。このわれわれが日々に接する写真というものは,はたしてどのような性格を持ったメディアなのか,そしてわれわれはそれをどのように読み,また読まされているのだろうか。
フランスの哲学者・記号論学者R.バルト は〈写真はコードのないメッセージである〉と定義した(《写真のメッセージLe message photographique》1961)。われわれは言語表現によってある現実を言語に移しかえる場合,その社会に流通する言語体系によって現実の一局面を切り刻み,それを音韻,形態,統辞,意味などさまざまなレベルでコード化することによってメッセージを形成する。ところが写真の場合には,そのようなコード化の過程がまったく存在しない。そこになんらかの縮約はあるにせよ,写真はいわば〈現実そのもの〉,あるいはかなり完璧な現実の相似物であって,現実から写真へ移行するにあたり,なんらかの形でこの現実を有意義な単位に細分化し,さらにそれを解読(ディコードdecode)すべきものとして再組織するといったような行為は,そこではまったく行われていない。このような〈コードのないメッセージ〉はほかに存在するだろうか。たとえば,一見,似たような視覚メディアとしては,絵画,映画,演劇などをあげることができる。確かにこれらのメッセージが伝えるものは,たとえば日本語における〈犬がほえている〉という発話が,ある特定の小動物の,ある特定の時間(現在)における,ある特定の行動として,ほとんどすべての人々にかなりはっきりと理解されるというほど明解ではない。しかし,それらの中には程度の差はあるにせよ,必ずいくつかの,あらかじめ特定の意味を担わされながら分節された構成要素(たとえば絵画の場合なら図式,色彩など,また演劇の場合なら身ぶり,衣装,発声法などの歴史的・社会的なステロタイプのストック)が,画家や演出家,監督などの手によって内在させられており,その点ではこれらのメディアの意味作用もコードに基づいたものと言うことができる。こうしてみると〈コードのないメッセージ〉あるいは〈そのものずばりの現実〉としての写真というメディアは,社会に流通する種々のメディアの中で,きわめて特殊な性格を持つものと見ることができよう。
日本における〈写真〉,すなわち〈真を写す〉というこの技術と行為に対する命名は,その意味で的確にこのメディアの本質をついているが,写真のこの本質的な〈真実らしさ〉あるいは〈客観性〉といったものは,一方で〈神話化〉の危険を大いにはらんでいる。写真メディアの基本的な性格が,まさに〈コードのないメッセージ〉あるいは〈そのものずばりの現実〉であることによって,写真は写真だけで自立して解読可能なメッセージを形成するのではなく,多くのより大きな構造の要素として他の要素と関係づけられながら,一つのメッセージを形成しているのである。たとえば,一つの雑誌の中の写真は,キャプションや見出し,あるいはそれに添えられた記事などといったさまざまな言語表現と形態的にも意味的にも併存しているし,さらには雑誌全体の中での配列のされ方,またその雑誌に対する社会的な評価(アカデミックか娯楽的要素の強いものか,進歩的か保守的か,大部数か少部数か等々),さらにはその雑誌に対してそのような評価を下す社会(時代)を歴史的視点から見た場合に行いうる一定の性格づけ……,といったように,1枚の写真はさまざまのより大きな枠組みの中に関係づけられてメッセージを形成しているのである。そしてこのような外的な関係構造は,何も写真の場合だけではなく,言語,絵画,映画,演劇等々,およそありとあらゆるメディアの場合にも存在する。たとえば先の〈犬〉というある特定の小動物を意味(表示denote)する語が,ときにある種の(その語を用いる人にとっては)嫌悪すべき人物を意味(共示connote)しうるのは,上記のような外的な枠組みのいずれかにこの語が置かれた場合であるし,〈バラ〉というある特定の植物(の花)を意味(表示)する語が,ときに愛情を意味(共示)しうるのも同様の例であろう。また,〈前向きに検討する〉という言葉が表示義,共示義の2通りの読みができることは,説明するまでもなく,われわれのよく知るところである。言語の場合に,この表示義と共示義は,しばしば併置され,ときに重なり合い,またときに対立しながらわれわれに何らかのメッセージを伝えるのであるが,そのような視座から見た場合の写真メディアの特殊性は,一方の表示義,あるいはそれに相当する部分が,〈そのものずばりの現実〉あるいは〈論議の余地のない真実〉として,多くの人々にかなり強く意識されているという点である。そこではどのような現象が起こるのであろうか。
それは共示義の表示義への寄生,言いかえればある種の価値観の〈真実らしさ〉への寄生である。写真が第一義的に〈そのものずばりの現実〉であるという意識は,社会的・歴史的・文化的な文脈の中で必然的にある種の価値観や意図をもって形成される写真の共示義をも,〈真実らしさ〉の中に巻き込んでしまい,それすらも,一見,現実そのものであるかのように,われわれの目の前に提示するのである。つまり,逆に言えば,人は伝えたい事柄を写真の〈真実らしさ〉に託し,効果的にそれと意識されることなく伝えることが可能なのである。写真が社会的にきわめて説得力を持ったコミュニケーションの手段であることは先にも述べた通りであるが,そのような説得力というものも,このような写真の本質的性格によるものである。アメリカのニューディール政策時における写真メディアの活用にせよ,ナチス・ドイツの戦意高揚のための写真の利用にせよ,あるいは現代消費社会における広告写真の隆盛にせよ,すべてそのような視点からとらえることが可能であろう。
また,一般に写真に付せられるキャプションや見出しが決定的に重要であるのもこのことによるし,写真家の表現行為もあらかじめ社会的,歴史的な文脈から生ずる共示義をかなりの程度意識しつつ,その意識に対応したある具体的な時間と空間をみずから切り撮り,そこにメッセージを託す,そのような行為であると考えることができよう。 執筆者:大辻 清司
写真の技術 写真の発明と発展 レンズを備えた暗箱(カメラ・オブスキュラ)で風景や人物の像を作ることは16世紀に実現されていたが,この像を絵画のように記録として保存することはできなかった。一方,化学の発達に伴って硝酸銀ほか種々の銀塩,水銀塩などが光の作用で変色したり黒化することが見いだされた。多くの人々が光の像を記録に残すことを研究したが,1826年ころにフランスのJ.N.ニエプスが光の作用によるアスファルトの溶解性の変化を利用して,ようやく光による像を記録することに成功した。これに続いてフランスのL.J.M.ダゲールは,銀板にヨウ素蒸気を当ててヨウ化銀層を作り,これを感光板として写真を撮影し,この感光板を水銀蒸気に当てて像を目に見えるよう現像することに成功した。この発明は政府から年金を受ける約束で,39年8月19日にフランス学士院における科学アカデミーと美術アカデミーの合同会議の席上で公表され,この日をもって写真誕生の日とされている。ダゲールは,感光板を現像したのちチオ硫酸ナトリウム水溶液で処理して未感光ヨウ化銀を除去すると画像が変色せずに保存できること,すなわち定着されることも見いだした。ダゲールの方法は,ダゲレオタイプdaguerreo typeと呼ばれ,撮影,現像,定着という今日の写真のプロセスをすべて織り込んでいる写真の原型である。ダゲレオタイプでは1枚の感光板を使って1枚の写真だけしか得られないが,41年にイギリスのW.H.F.タルボットは,ヨウ化銀感光紙を使って写真のネガ像を作り,このネガを感光紙に焼き付けてポジ像を作るネガポジ法を考案した。これをタルボタイプtalbotypeまたはカロタイプcalotypeと呼ぶ。51年にはイギリスのアーチャーFrederick Scott Archer(1813-57)がヨウ化銀をコロジオン(ニトロセルロースをエーテルに溶解したもの)に分散してガラス板に塗布し,乾かない間に写真を撮影するというコロジオン湿板法を発表した(湿板写真 )。
その後,感光材料の研究は急速に進んで1871年には現在の写真フィルムの乳剤の原型である臭化銀ゼラチン乳剤がイギリスのR.L.マドックスによって考案され,写真感光材料の感度が著しく高くなり取扱いも容易になった。この発明ののち,写真乾板を工業的に製造する機運が高まり,1877年のイギリスのJ.W.スワンの商会に続いて,83年にはアメリカのイーストマン社から乾板が売り出された。イーストマン社は現在のコダック社の前身で,88年に紙のロールフィルムを売り出して写真が一般大衆に親しまれる端緒を作った。コダックは89年にセルロイドを使ったロールフィルムを,98年には映画用フィルムを製造して写真工業の基盤は確固たるものとなった。
一方,日本に目を転ずると,写真の初期のダゲレオタイプは1840年代初期にオランダ船によって日本に渡来し,幕末から明治初期にかけて薩摩藩の島津斉彬はじめ進歩的な藩主,蘭学者らが写真術を研究した。1870年代には写真用薬品や石版材料を輸入販売する写真材料店が創立され,1885年には小川一真がはじめて写真乾板の製造を試み,1906年には日本写真乾板会社が設立された。このころ写真会社として小西六写真工業の前身の六桜社(工場)が1902年に,東洋乾板,オリエンタル写真工業が19年に設立され,日本最初の写真フィルムが29年小西六本店から発売された。34年には富士写真フイルムが創立されて国産初の映画用フィルムが製造販売された。
写真の黎明期を脱して1930年代になるとドイツ精密機械工業の産物としてライカ,コンタックスはじめ各種小型カメラが世界の市場を満たし,パンクロフィルムや感度の高いロールフィルムがアメリカのイーストマン・コダック社とドイツのアグファ社から発売されて乾板の時代は去り,映画もトーキー時代を迎える一方,加色法カラー映画フィルムも使われて写真は社会生活に深く浸透した。カラーフィルムが減色法多層乳剤型式の発明によっていっそう身近な商品になろうとするころ,第2次大戦勃発となって,写真は軍用を中心として地道な研究,資源の探索,限定された生産に追い込まれた。第2次大戦が終了し,アメリカのドイツ占領報告によってドイツが開発した写真乳剤の金増感技術が公開されたのを契機に,世界の写真感光材料メーカーは乳剤の増感技術の研究を進め,ISO200級フィルムが相次いで市販された。一方,カラーフィルムの研究も進んで大戦直後には映画のテクニカラー・ブームが起こり,日本でもスチル写真では48年国産のカラー反転フィルムの発売,1950年代に入ってネガ・ポジカラー材料が国産化された。以後,現在に至るまで一般アマチュア写真を中心として写真撮影はカラー化時代を迎え,映画はテレビジョン放送媒体としても発展し,また写真感光材料工業は一般アマチュア,プロ用感光材料のほか複写用フィルム,製版用フィルム,X線用フィルムなど業務用の感光材料を多量生産している。 →カラー写真
写真のプロセス 被写体にカメラを向けてシャッターを作動させるとカメラ内のフィルムが感光する。この操作でフィルムは露光されるのであるが,この段階ではフィルム上には画像は現れず,潜像の状態で記録されており,このフィルムを現像すると潜像は画像になる。しかしこの画像は一般には被写体と明暗が逆のネガ像(陰画)である。このネガ像を印画紙に焼き付けて再び現像すると被写体の明暗が再現されたポジ像(陽画)を得る。この写真撮影の過程を例として写真のプロセスを考えるならば,写真とは,光の強弱とか色とかの情報を持った光エネルギーを,フィルムのような感光性材料に照射してその材料の物性(化学的あるいは物理的)変化を起こさせ,つぎに現像を施して画像を作るプロセスで構成されている。すなわち,光源→被写体→光信号→露光→潜像→現像・定着→画像→鑑賞・評価・解析という流れになる。写真のネガからポジのプリントを作る過程も露光,現像,画像形成の過程であって独立した写真のプロセスである。
以上は一般写真撮影の例であるが,写真技術の広い応用を含めて考えると,写真のプロセスもいっそう拡張して考えなければならない。まず第1に写真フィルムは光のほか紫外線,赤外線,X線,γ線,さらに電子線などの粒子線に対しても感じて潜像を作る。このような写真においてはレンズを備えたカメラは必ずしも適さず,直接的な記録も行われる。また感光材料については広く一般に使われるハロゲン化銀乳剤を塗布したフィルムのほか,複写に用いるジアゾ感光紙(ジアゾタイプ ),電子写真 の光伝導性材料あるいは写真製版に用いる感光性樹脂もある。これらの材料を含めて画像形成過程を考えると,現像の過程が種々多様であり,得られる画像の形,色も種々あることがわかる。したがってこれらを含めた写真のプロセスは,エネルギー情報→露光・露出→画像形成と表される。このプロセスで得る画像は,原則的に二次元平面上の可視像の形であることが写真の特徴といえる。
写真像の形成 一般写真撮影,映画,X線写真などに使われるフィルムは,ハロゲン化銀(臭化銀)に微量のヨウ化銀を混ぜてゼラチン中に分散させた写真乳剤を,支持体フィルムに塗布,乾燥したものである。写真撮影によってフィルムを露光するとハロゲン化銀は光化学変化を起こしてハロゲン化銀結晶中に銀原子集団を作るが,この状態では乳剤の外観の変化は起こらず潜像が形成された状態である。潜像を有する乳剤を還元剤に触れさせて初めて潜像は可視像に成長する。この操作を現像 と呼び,現像によって潜像の少量の銀は101 0 倍も増幅されて銀画像になる。この増幅は銀塩写真の大きな特徴であって,銀塩フィルムの感度が高いのは現像の増幅のおかげである。銀塩写真では被写体の微妙なトーン(調子)をよく再現することができるが,現像処理の処方によって画像コントラストを変化させたり,画像の色調を変えたりすることもできる。また,通常の現像ではネガ像が得られるが,ネガの現像を終わってからこの画像を漂白し,残存するハロゲン化銀を現像してポジ像を得る方法(反転現像)もある。写真フィルムを現像した場合,このままではフィルムに光が当たると残存ハロゲン化銀が感光するため,残存ハロゲン化銀をチオ硫酸ナトリウム溶液で溶かし,続いて水洗して感光層から取り除く。この処理を定着 という。写真フィルムや印画紙を露光してから画像を作るには現像,定着,水洗の処理が必要で,このため銀塩写真では撮影してから写真を得るまでの仕上り時間(アクセスタイム)が長く,数十分程度を要する。この仕上げ処理を効率化するために自動現像処理機を用いて30℃付近のやや高い温度で現像が行われる。また,銀塩写真を早く仕上げるシステムとして1950年代に黒白のインスタントフォトグラフィー,63年からカラーのインスタントフォトグラフィーが開発され,撮影後約1分間で写真の印画が得られるようになった。黒白のインスタントフォトグラフィーでは拡散転写法を使って現像仕上げが行われる。これは,露光を与えたネガフィルムを,現像核を含むポジ材料と密着させ,ハロゲン化銀溶解剤を添加した現像液で現像するもので,未感光のハロゲン化銀がポジ材料に拡散して現像核の位置で現像されてポジ像を作る。 →インスタントフォトグラフィー
新しい写真 ハロゲン化銀を感光主体とする銀塩写真システムは,一般写真撮影をはじめ業務用写真に広く利用され,写真の主流を占めている。銀塩以外に感光性の化合物は無数といってよいほど存在しているのであるが,記録材料として銀塩にまさる感度,色と調子の再現性,画質を備えた材料は当分見いだされる気配がなく,少なくとも撮影用システムとして銀塩の王座は守られる見通しである。しかし銀資源の窮乏,アクセスタイムの長いこと,経済性などの点で不利な面もある。第2次大戦後の化学と化学技術の発展の中で多くの感光性物質が研究され,写真撮影以外の写真システムの中では非銀塩材料のシステムが開発されて成功を収めている。非銀塩写真システムの一つは文書の複製とマイクロ複写のコピーに利用されるジアゾタイプである。ジアゾニウム塩の感光性と発色性を利用するジアゾタイプは,露光によって直接ポジ像を作る便利さ,乾式または半湿式現像の手軽さと経済性によって複写用銀塩印画紙を圧倒した。またオフィスコピーの分野では,1950年代に開発された電子写真システムが迅速な仕上り,水性現像液不用という点で歓迎され,近年では高速で拡大縮小あるいはソーター機能を備えた電子写真複写機が普及している。非銀塩写真システムの成功例として写真製版用の感光性樹脂も見のがすことができない。写真製版には古くから重クロム酸塩の感光性を利用する重クロム酸卵白あるいはグルーが使われてきたが,この時代には材料の保存性が悪いため作業者がみずから製版用感光材料を準備しなければならなかった。1960年代になってジアゾ樹脂をアルミニウム板に塗布したPS版がオフセット印刷製版材料として開発され,重クロム酸塩の材料はしだいに姿を消した。また,光重合によって不溶化する感光性樹脂がアメリカのデュポン社によって凸版用材料として開発され,新聞印刷用の鉛版が感光性樹脂凸版に置きかえられるようになった。さらに,ポリケイ皮酸ビニルほか一群の感光性樹脂は露光によって分子間架橋を作り,薄層で腐食性薬品に対する防護性をもち,フォトレジストとして有用で,種々の材料に微細な加工を施すフォトエッチング技術に利用されている(フォトファブリケーション )。これらの非銀塩感光材料は,銀塩写真時代には考えられなかった新しい写真とイメージングの分野を開いて,写真の応用技術を著しく拡大した。
非銀塩感光材料は以上のほか多数の興味ある材料が研究され,たとえば露光によって色像を形成し,加熱によってこの画像が消失するフォトクロミズム材料,紫外線露光によって色像をプリントアウトするラジカル写真材料,樹脂中にジアゾニウム塩を配合して紫外線露光による光分解により樹脂中に微細気泡の画像を作るベジキュラー写真材料などがあり,これらの一部はマイクロ複写,色分解写真の校正あるいは製版のマスク材料などに使われる。写真撮影以外の記録においては記録材料の感度が必ずしも高くなくても目的を達し,また光源として強力なレーザーあるいは電子線などを使って非銀塩記録システムが作られる。X線写真の例ではフィルムの代りにX線記録板を置いてX線照射量を記憶させ,ついで記録板をレーザービーム走査してX線照射量に対応する発光を起こさせ,この光を電気信号に変換し,画像処理ののち再び電気信号を光に変えてフィルム上にX線写真を作るシステムが発表され,実用されている。このシステムは光電変換や画像処理を採り入れ,X線被ばく線量低減にも効果をあげている。写真技術はエレクトロニクス技術の導入によって近代化され,カメラの自動露出設定,自動焦点機構,モータードライブなどを達成したばかりでなく,1981年にはCCD素子による全電子式スチルカメラが発表された。これは,従来のフィルムに代わって記録機能を電子的に行うもので,この技術の発展が将来期待される。
写真の用途 写真は広く一般に撮影用としてアマチュア,営業写真家,写真作家,報道関係に使われるほか,宣伝,印刷原稿,各種記録に用いられる。また写真技術の応用では映画,テレビジョン録画媒体,医学診断および工業材料検査のX線写真,複写,写真製版に多量に使用されている。写真感光材料工業の生産量から見ると,近年の先進国では一般撮影用フィルムよりも業務用およびX線用感光材料が多く製造され,生産金額では一般撮影用と業務用とが1:1に近くなっている。写真の用途の中で一般撮影に近いものとして航空写真,写真測量あるいは宇宙写真があるが,高度の宇宙空間から地表の写真を撮影する技術はリモートセンシング と呼ばれ,地球資源探査,気象観測,海洋や地表の汚染調査等に利用され,国際間の協力の下に業務が進められている。宇宙空間からの観測の場合,写真撮影とテレビジョン技術ならびに通信技術が総合されて画像が得られるので,電気信号を地上で受信して最終的に写真像を作る場合もある。科学技術分野の写真の応用としては天文写真,顕微鏡写真,電子顕微鏡写真,分光写真,高速度写真および高速度映画,オートラジオグラフィー,粒子線写真などがあり,写真技術的観点から見ると紫外線写真,赤外線写真,写真測光,立体写真などが挙げられる。非銀塩感光材料のシステムは複写,マイクロ複写,写真製版,X線写真,フォトレジストなどへの応用が主となっている。
写真の画質 写真の画像を心理的に評価した場合の総合的な品質を,写真の画質と呼んでいる。黒白写真の画像は現像によって形成された微細な銀粒子から成っており,カラー写真の場合も色像は三原色の各色素が現像の過程で色素雲と呼ばれる塊状を呈してでき上がっている。写真像を大きく拡大するとこの粒状構造がわかるが,大きい引伸し写真にも画像の細部の粒状が認められる。写真像の粒状の性質を粒状性という。写真像が粒状性を呈することから,写真では被写体の細部の再現には限度があることが理解され,これと関連して写真像が鮮明に仕上がっているか否かという評価がなされる。写真像の鮮明さは鮮鋭度で表される。写真像の粒状と鮮鋭度は画質に関係する因子として重要視され,粒状と鮮鋭度をまとめて像構造image structureという。
粒状性 写真像は現像によってできた微細な銀粒子から成っているが,写真像を拡大して観察される粒状は個々の現像銀ではなく,写真層中に分散している現像銀の重なり合った結果できたものである。黒白写真,カラー写真ともに高感度のフィルムは低感度のものよりも粒状が大きくなって目だちやすい。また同一フィルムでも現像時間を長くすると粒状は大きくなる。写真像の粒状は画像濃度によっても異なり,写真濃度の値で0.3~0.6の低濃度部で粒状が目だちやすい。写真像の粒状を相互に比較する場合,二つの方法がある。第1は肉眼観察による方法で,この場合の粒状を心理的粒状性と呼び,第2はマイクロ濃度計などで測定する方法で,この場合の粒状を物理的粒状性と呼ぶ。心理的粒状性を測るには写真像を種々の倍率で拡大し,ちょうど粒状の識別される倍率を求める。また,拡大した写真像を種々の距離で観察し,粒状の識別される限界の距離を求める方法もある。物理的粒状性を求めるには写真像をマイクロ濃度計で走査して多数の測定点の濃度の偏差の2乗平均根を求める方法があり,この方法で求めた粒状はRMS粒状度という。
鮮鋭度 写真像の鮮鋭度は,撮影に用いるカメラのレンズの性能とフィルムの性能のほか,フィルムの現像条件とネガからポジを作る際の焼付け条件などによって異なり,最終的に得られる写真像の鮮鋭度を良くするには撮影から仕上りまでの全体のシステムについて吟味する必要がある。感光材料の品種については一般に低感度の微粒子乳剤を使ったフィルムは高鮮鋭度の画像を与え,また同一乳剤でも乳剤塗布層を薄くし,ハレーション やイラジエーションirradiation(感光層に入射した光の乳剤内部での反射・散乱によって,正規の像の周辺まで感光すること)を防ぐ対策を採れば画像の鮮鋭度が増す。写真の画像が高鮮鋭度を持つ,すなわちシャープな印象を与えるということは,画像の濃淡の境界が明確な状態であり,フィルムの現像の場合にエッジ効果(乳剤膜の高露光域と低露光域との境界で,濃度が,高露光域では一段と高く,逆に低露光域では低くなる現象)を起こすような方法を使うと,画像の輪郭が明瞭になって画像の鮮鋭度が増す。近年のカラーフィルムでは現像中にエッジ効果を強調する化合物を用いて画像鮮鋭度の向上をはかっている。画像の鮮鋭度が高いか否かの判断は感覚的なものであるが,写真像の物理的測定から鮮鋭度に関係の深い量を求めて,鮮鋭度を客観的に扱う方法も考えられている。
解像力 写真像が被写体の微細な部分を画像として記録しうる能力を解像力という。解像力も撮影に用いる写真レンズ,感光材料の品種,現像処理条件によって異なるほか,被写体コントラスト,露光量,光の波長によっても異なる。感光材料の品種については鮮鋭度と同様,微粒子低感度のフィルムは高い解像力をもち,撮影用ネガフィルムよりも映画のポジフィルム,複写用フィルム,マイクロ写真用フィルムなどが高い解像力をもっている。解像力を測るには,等しい幅の黒と白の線が並んだテストチャートを撮影して現像し,画像が離れた線として記録できる限界の線幅を求める。一般撮影用黒白ネガフィルムの解像力は60~80本/mm程度で,カラーフィルムはこれより解像力が低い。解像力は鮮鋭度とは異なる概念であって,解像力が高くても必ずしも高い鮮鋭度の画像とは限らない。 執筆者:友田 冝忠