横浜(読み)よこはま

精選版 日本国語大辞典 「横浜」の意味・読み・例文・類語

よこはま【横浜】

神奈川県東部の地名。県庁所在都市。東海道沿いの漁村であったが、安政六年(一八五九)開港場となり急速に発展。神戸とともに二大貿易港の一つとして知られ、重化学工業が立地する京浜工業地帯の中核都市でもある。山下公園三渓園総持寺金沢文庫(称名寺)などがある。明治二二年(一八八九)市制。

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デジタル大辞泉 「横浜」の意味・読み・例文・類語

よこはま【横浜】

神奈川県東部の市。県庁所在地指定都市東京湾に面し、安政6年(1859)の開港以来、国際貿易港として発展。重化学工業が盛んで、京浜工業地帯の中核をなす。人口369.0万(2010)。
[補説]横浜市の18区
青葉区旭区泉区磯子区神奈川区金沢区港南区港北区栄区瀬谷区都筑区鶴見区戸塚区中区西区保土ケ谷区緑区南区

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改訂新版 世界大百科事典 「横浜」の意味・わかりやすい解説

横浜[市] (よこはま)

神奈川県東部,東京湾に臨む県庁所在都市。県の政治・経済・文化の中心地をなす。1859年の開港当時は一漁村にすぎなかったが,今日では国際貿易港,重工業都市であり,首都圏内の住宅都市としての機能をあわせもっている。1889年,当時の横浜区(1878年久良岐郡から独立して設置)の範囲で市制を施行。当時の面積5.4km2,人口約12万人。その後隣接の町村を合併,1927年鶴見,神奈川,中,保土ヶ谷,磯子の5区を置き,39年に現在の市域がほぼ定まり,港北,戸塚の2区が新設された。43年には南区,44年に西区,48年に金沢区が,従来の区域を変更して新設され,56年9月に政令指定都市となった。69年に港南,旭,緑,瀬谷(せや)の4区,86年には戸塚区が栄,泉,戸塚の3区に分区,さらに港北区内に青葉・都筑(つづき)の2区がおかれ,現在の18区となった。市域の総面積437km2,人口368万8773(2010)。人口では東京23区に次いで全国第2の都市である。

現市域には江戸時代,東海道沿いに神奈川保土ヶ谷戸塚の3宿があり,神奈川は江戸湾に臨む港でもあったが,横浜は砂州上の一寒村であった。1853年(嘉永6)のペリー来航,58年の日米修好通商条約によって59年6月2日横浜は開港した。横浜村の砂州に波止場が設けられ,背後に運上所(のちの横浜税関),町会所が置かれた。波止場から海に向かって右側が外国人居留地,左側に日本人による商業町が生まれた。大岡川とその支流中村川,それらに直交する掘割り,この三方の水路に囲まれた区域が港地区である。東海道に通じる横浜道が掘割りを渡るところに日本最初の鉄橋(吉田橋)が架けられ,その橋際に関所が設けられたことから,港地区を〈関内〉と呼んだ。今日でもこの関内地区に県庁,税関をはじめとする官庁や金融機関,貿易・海運関係の商社が立ち並び,横浜の中央業務地区を形成している。

横浜港は明治中期以後近代化が進み,1896年には大桟橋と防波堤が完成し,明治末期に新港埠頭,昭和前期に瑞穂(みずほ)埠頭(現在はアメリカ軍が使用)が造成された。第2次大戦後,アメリカ軍の接収により港湾機能は一時壊滅したが,その後山下埠頭が造成され,高度経済成長期には本牧(ほんもく)の地先にコンテナーバースをもつ本牧埠頭のA~D突堤が建設された。北部の工業地区には工業専用埠頭があったが,根岸湾岸の埋立て(1959着工)によって南部にも工業埠頭が生まれている。鶴見の大黒町地先にも大黒大橋で結ばれた大黒埠頭があり,大黒埠頭と本牧埠頭とを結ぶベイブリッジも1987年完成し,東京湾岸道路の主要部が完工している。

 開港当時,日本のおもな輸出品は生糸で,その玄関口であった横浜は活況を呈し,1894年には横浜取引所(のちの横浜生糸取引所)が設立された。生糸は横浜の輸出総額の5~6割を占めていたため,生糸取引の盛衰が横浜経済の消長を表していた。第2次大戦後,生糸貿易の不振によって横浜の貿易は大打撃を受けた。だが,その後の経済復興にともなって工業地帯が整備・充実されると,工業原料の輸入港,製品の輸出港として躍進を続け,横浜港は総輸出入額では成田空港を除いて全国一の座を占めている。

横浜の市街地の形成は関内地区から始まり,古くからの弁天通りや,国鉄横浜駅(現,JR桜木町駅)と港とを結ぶ馬車道に沿って,いわゆる文明開化の先駆けとなった商社が立ち並んだ。その後,大岡川の三角州の水田が埋め立てられて伊勢佐木町が生まれ,横浜一の繁華街となった。〈ザキ〉の名で愛称され,当時東京の銀座と並ぶ東日本の代表的な町並みであった。今日では改装され常時〈歩行者天国〉となっている。港の北西にあたる野毛山(のげやま)は日本人の住宅地として開かれ,南東の山手(やまて)地区の〈港の見える丘〉は外国人のための居住地であり,洋館や教会,女学校が立ち並んだ。これらの丘のふもとには野毛と元町の商店街がある。元町は初め外人のための家具や食器類の店が多かったが,しだいに舶来品を扱うようになり,今日では中国料理店の並ぶ山下町の中華街(南京(ナンキン)町)とともに横浜で最もエキゾティックな町並みとなっている。

 初め大岡川や帷子(かたびら)川の谷間と,臨海部の鶴見,磯子に延びた市街地は,しだいに内陸の丘陵地に広がった。ことに1923年の関東大震災と45年の戦災で,市街地は壊滅的な打撃を受けたが,その後の丘陵地の都市化の進展は著しい。東急東横線,国鉄(現JR)横浜線,相模鉄道線沿線の開発が進み,戦後の高度経済成長期には東急田園都市線,国鉄(現JR)根岸線の沿線に大規模な住宅団地が造成された。これらの交通路の結節点である横浜駅周辺は55年ころからめざましく変容した。西口の開発は駅ビルと大型百貨店の開設に始まり,のち大地下街が造成され,81年には横浜駅の大改築による東口も再開発され,デパートや大型ビルが立ち並ぶ。横浜駅~桜木町駅間の北東側,旧三菱重工業横浜造船所跡地の利用を中心とした〈みなとみらい21〉地区もランドマークタワーを中心として高層ビル群が整備されつつある。

横浜の工業は初め横浜港の貿易と関連して製茶,製陶などが行われたが定着せず,近代工業のはしりとして横浜船渠(ドツク)(1891設立。のちの三菱重工業横浜造船所),横浜電線(1896設立。のちの古河電気工業)などがあった。これらはいずれも孤立的であり,工業地帯が形成されたのは,明治末年から大正・昭和にかけて鶴見川河口一帯の臨海埋立地が造成されてからである。ここに日本鋼管,旭硝子,東芝,日産自動車,キリン麦酒などの大工場が設立され,川崎市の臨海部と接続して,いわゆる京浜工業地帯の中核部が形成された。第2次大戦後,戦災によって一時衰退したものの,その後の経済成長により,戦前に勝る工業地帯の充実をみた。1959年から71年にかけては南部の根岸湾岸一帯の工業化が進み,日本石油精製,石川島播磨重工業などの大工場が設立された。また近年,鶴見川沿いの都筑,港北両区も自動車,電器などの大企業の進出によって内陸工業地域をなす。なお埋立地造成は南の金沢区地先まで延び,新市街地が生まれている。

横浜の交通網の特色は首都東京との直結である。鉄道では1872年(明治5)日本最初の鉄道(現,東海道本線)が新橋~横浜(現,桜木町)間に開通し,87年には国府津(こうづ)まで延び,89年には神戸まで全通している。JR横浜駅はこれまで,その位置を3回移動し,現在地に定まったのは1928年である。戦後73年には京浜東北線が延長されて横浜~大船間が根岸線として開通し,関内地区への交通が便利になった。民営鉄道では,京浜急行線が1931年に品川~浦賀間が,32年には東急東横線の渋谷~桜木町間が全通,相模鉄道線(もと神中鉄道)は33年に横浜駅に乗り入れている。東海道新幹線は市域の北部を通過し,64年には新横浜駅が開設されたが,横浜駅との連絡は横浜線のみで不便であった。横浜市は72年伊勢佐木長者町~上大岡間に地下鉄を開通させ,76年に横浜駅,上永谷(かみながや)間に延長されたが,85年には新横浜駅まで開通,さらに港北ニュータウン地区を北上して,東急田園都市線のあざみの駅まで延伸する。一方,横浜南郊を横断する高速鉄道は,横須賀線の戸塚駅を経て小田急江ノ島線の湘南台駅に直結するべく,工事が進められている。主要な道路は東京との間に第一京浜国道(国道15号線),第二京浜国道(国道1号線),第三京浜道路があるが,横浜新道(国道1号線)の新保土ヶ谷インターチェンジから分かれた横浜・横須賀道路は三浦半島中央部の衣笠まで達している。東名高速道路のインターチェンジもある。

 市内には横浜国立,横浜市立,神奈川,関東学院,慶応,フェリス女学院,横浜商科などの大学がある。観光地としては曹洞宗大本山の総持寺,真言律宗の称名(しようみよう)寺と境内にある金沢文庫,海岸通りの開国史跡,マリンタワーや氷川丸のある山下公園,庭園の美しい三渓園,動物園もある野毛山公園などがあり,市域の北西端に〈こどもの国〉,南東端の海上に八景島シーパラダイスがある。5月初旬,横浜港まつりが行われる。
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横浜[町] (よこはま)

青森県北東部,上北郡の町。人口4881(2010)。下北半島の中央部,下北丘陵西斜面を占め,陸奥湾に面する。JR大湊線と国道279号線が南北に通じる。西部の平野部では米作が行われるが,〈やませ〉と呼ばれる夏の冷湿な偏東風のためふるわない。1955年から国営の機械開墾事業が近隣の町村とともに進められ,丘陵では酪農や肉牛の飼育も行われている。中心の横浜はかつてはヒバやカシワの集散地として,またナマコの特産地として知られ,港がにぎわった。現在,陸奥湾の沿岸漁業は不振であるが,ホタテガイの養殖は盛んである。町内にある横浜館の跡や八幡神社は,源義家がこの地方に遠征したとの言い伝えにその由来をもっている。南部には小沢沼を中心としたはまなす公園がある。
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旺文社日本史事典 三訂版 「横浜」の解説

横浜
よこはま

神奈川県の県庁所在地
通商条約で神奈川の開港が定められたが,幕府は横浜を開港場とした。そのため幕末まで一漁村であったこの地が,以後貿易港として発展した。1889年市制を施行。現在,日本最大の国際貿易港。

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世界大百科事典(旧版)内の横浜の言及

【開国】より

… これらの条約で日本は,まず首都(江戸)に公使を,開港場に領事を駐在させ,彼ら各国外交代表の職務上の国内旅行権を承認した。また神奈川(横浜),長崎,箱館,ついで新潟,兵庫(神戸)を開港場とし,江戸と大坂を開市場として官吏の干渉なき自由貿易を行うことも認めた。各開港場には居留地を設定してそこに外国人が居留すること,開市場に逗留することにも同意した。…

【神奈川】より

…結局,神奈川宿は宿場の役割を中心とした近世都市であった。1858年の日米修好条約にもとづく開港場となり,アメリカの駐日領事ハリスはじめ外国人が宿場内に居住したが,実際の開港場は横浜となり,商業的活動は神奈川宿から横浜に移ったのである。1889年,神奈川町となり1901年横浜市に編入,27年区制施行。…

【中国料理】より

…そして戦後大陸からの引揚者が中国の食文化を持ち帰り,これが日本各地に中国料理を広げる素地になったといわれる。横浜は戦前南京町(横浜中華街)に中国そば屋が数軒あった程度であったのが,戦後になって中華街と名前が変わり,大発展を続けて130軒ほどの中国料理店が軒を連ねるようになった。戦後は東京,大阪の大都会に中国料理の大飯店が建ち並び全国に中国料理店,中国そば店の類が普及した。…

※「横浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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