西アフリカ東部の国。正称はベナン共和国République du Bénin。ベニンとも表記する。旧称ダオメー。東はナイジェリア、西はトーゴに挟まれた南北に細長い国で、北はニジェール、ブルキナ・ファソと接し、南はギニア湾に面する。面積11万4763平方キロメートル(2020)、人口617万(2000推計)、1000万8749(2013センサス)。首都はポルト・ノボ。
[大林 稔]
国土は地理的に、(1)潟が多く、湿地帯の広がる海岸平野、(2)肥沃(ひよく)な粘土質の南部平野、(3)花崗(かこう)岩と片麻(へんま)岩の結晶質の台地で、国土の大半を占める中部地方、(4)ニジェール川とオティ川の河谷が形成する北部国境の低地帯、(5)北西部の降水量の多いアタコラ山地、の5地域に大別される。気候的には、南から北に3地域に大別され、南部では乾期と雨期が各2回ずつみられる。高温多湿だが年降水量は比較的少なく、沿岸の東端に近いポルト・ノボで1200ミリメートル、西端のグラン・ポポでは800ミリメートルである。北部では雨期は5~9月の1回だが、やはり高温多湿で年降水量は950~1300ミリメートルである。中部は南北の気候の転換点にあたる。南部は熱帯雨林であったが、ほとんど切り開かれており、中・北部は森林サバナをなしている。12~3月には3~6週間にわたり北のサハラ砂漠から乾燥した熱風ハルマッタンが吹き、その影響は海岸地方にまで及ぶ。
[大林 稔]
植民地化以前のこの地域の歴史は、海岸地方以外はあまり明らかではないが、現在の国境内での統一的な歴史は存在しなかった。北部ではバリバ人が活動していたが、南部とはつながりをもたなかった。中部ではマイ人、ヨルバ人がサバルー、サベーに小王国をつくり、ともに文化的独自性を保ち続けていた。南部の内陸地帯は、18世紀に南下したウェメヌ人、西から移動したフォン・アジャ系、東からきたヨルバ系の諸集団によって占められていた。もっともよく知られているのはこの地方とりわけダオメー王国の歴史である。海岸地方の人々のほとんどは、伝承によれば中部ベナンのタドに共通の起源をもち、そこから南下したといわれる。17世紀には海岸線に沿ってジャキン、ウィダー、グラン・ポポなどの小国家が、そしてそのすぐ背後には海岸地方一帯の最高権力であったアラーダ王国が、奴隷貿易によって栄えていた。当時この海岸はヨーロッパ人によって「奴隷海岸」とよばれ、ギニア湾岸最大の奴隷貿易地帯となっていた。17世紀初めアラーダ王国の2人の王子が国を去り、ポルト・ノボ(アジャチェ)とダオメー(アボメー)の二つの王国をつくったという。そのうちの一つ、ダオメー王国はド・アクリンによって1625年ごろ建設されたといわれ、ウェグバジャ王(在位1650~1685)の時代に勢力を強め、アガジャAgadja王(在位1708~1740)の治世に至って強力な軍事国家となり、ヨーロッパ人との直接の交易を求めて南下した。1725年にアラーダ王国を侵略し、1727年海岸地帯に進出してウィダー、ジャキンなどの諸王国を攻略し、1740年代にはこの地方一帯をほぼ支配するに至った。その後ダオメー王国はアゴングロAgonglo王(在位1789~1797)とゲゾGuézo王(在位1818~1858)の下で高度に中央集権化された軍事大国としてその繁栄の頂点に達した。
しかし、19世紀に入り、奴隷貿易が廃止されるとともにヨーロッパ諸国によるアフリカ植民地化の時代が訪れた。ゲレレGlélé王(在位1858~1889)の時代には、フランスおよび隣接地域に進出したイギリス、ドイツなどとの軋轢(あつれき)が増大し、フランスはゲレレの子ベハンガン(在位1889~1894)と軍事衝突を起こした。1890年のウィダー条約による和解も長続きせず、ふたたび戦争が起こり、1892年ダオメー軍は敗れ、ダオメーはフランスの保護領とされた。ベハンガンはその後も抵抗を続けたが1年2か月後に降伏し、1894年マルティニーク島へ流された。こののちダオメー、ポルト・ノボ、アラーダ3王国はフランス植民地ダオメーとして統合された。1904年ダオメーはフランス領西アフリカの一部に編入され、1958年フランス共同体に属する自治共和国となり、1960年ダオメー共和国として独立した。初代大統領にはユベール・マガHubert Maga(1916―2000)が選出された。
独立から1972年までは、地域閥の指導者(北部のマガ、南西部のアピティ、南東部のアホマデグベの三者)の権力争いと軍の介入という事態が続いたため、安定した政権は成立しなかった。マガ政権は南北対立が激化した1963年10月、大佐ソグロChristophe Soglo(1909―1983)のクーデターによって倒された。しかし、その後成立したアピティSourou-Migan Apithyを大統領、アホマデグベJustin Ahomadegbé-Tomêtin副大統領とする新政府も統治能力を欠き、1964年12月にはソグロがふたたび介入、法律家のザンスーを含む市民協力政府を樹立。1967年、今度は若手の少佐クァンデテMaurice Kouandété、中佐アレイAlphonse Amadou Alleyのクーデターが成功し、彼らは地域閥の三大政治家を排除してザンスーÉmile Derlin Henri Zinsouを大統領兼首相の座に据えた。しかし地方に支持基盤をもたないザンスー政権は国政の安定を図ることができず、1969年12月のクーデターによって倒され、中佐ド・スーザPaul-Émile de Souzaが権力を握った。軍事政権下の1970年5月、マガ、アピティ、アホマデグベ三者からなる大統領会議が開かれ、三者による大統領輪番制という制度が発足した。しかしこの体制も1972年10月、少佐マチウ・ケレクMathieu Kerekou(1933―2015)のクーデターにより崩壊した。
ケレク政権は軍内部の対立に苦しんだが、ケレクはこれを粛清と軍の再編成で乗り切り、他方で左翼イデオロギーの導入による国内統合を図った。1974年11月にマルクス・レーニン主義を公式のイデオロギーとすることを宣言、12月には教育機関と主要産業の国有化を実施した。翌1975年12月にはベナン人民革命党(PRPB)を創立し、自ら中央委員会議長に選出されるとともに、国名をベナン人民共和国と改めた。1977年新憲法が制定され、これに沿って1980年6月、ケレクを大統領とする一党制政治体制へと移行した。
独立以来終始良好であった対フランス関係はケレク政権下の産業国有化、軍事協力協定の破棄などにより冷却し、1977年1月の外国人雇兵部隊によるコトヌー襲撃事件によりフランス大使の引き揚げに発展した。しかしまもなく両国は和解、フランスの援助も再開された。社会主義的な国内政策とイデオロギーにもかかわらずベナンはフラン圏にとどまり、1980年以降は西側諸国への接近を強めた。
[大林 稔]
1980年代末、債務危機から政府はIMF(国際通貨基金)・世界銀行主導の構造調整プログラムを導入した。構造調整は従来の社会主義経済から一転して経済の自由化を図るものであり、しかも緊縮政策を伴うために、従来の政府支持基盤の離反を招いた。
1990年2月国民各層からなる国民会議を開催、元世界銀行理事のソグロNicéphore Soglo(1934― )が首相となった。12月には国名のベナン共和国への改称、複数政党制の導入などを盛り込んだ新憲法が国民投票によって承認された。1992年2月複数政党制による初の総選挙が実施され、3月の大統領選では首相ソグロがケレクに勝ち、大統領に就任した。国民会議にはじまるこうしたベナンの民主化プロセスは、フランス語圏アフリカの平和的移行のモデルとみなされた。この過程で大統領となったソグロは、国内的な困難とは反対に国際社会で高い評価を得、リベリア、トーゴの内紛では調停役を担うなど、国際的に活躍した。1996年3月18日の大統領選挙はふたたびソグロとケレクとの対立となったが、ケレクが僅差で勝利し、大統領に復帰した。ケレクは2001年3月に行われた大統領選挙で再選を果たした。
ベナンは西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA、フラン圏)、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、ニジェール河流域開発公社に加盟している。
[大林 稔]
ベナンは低所得国に分類されている。1980年から1993年の間の1人当り国民総生産(GNP)増加率は0.4%で、この期間に国民の貧困化が進んだ。しかし1990年代なかばには成長率がプラスに転じた。これは国内の民主化とIMF(国際通貨基金)・世界銀行の構造調整による経済改革の成果を評価して、海外からの援助と民間投資が増加したたためで、1994年のフラン切下げも資金の流入を加速した。他方で構造調整プログラムは経済の自由化と緊縮財政を進めたため、ストライキの多発など社会不安を招いた。
ベナン経済は開放体制にあり、第一次および第三次産業に依存している。農林水産業は雇用人口の58%、GDP(国内総生産)の37%を占める(1994)。主要商品作物は綿花であり、おもな食糧作物はヤムイモ、キャッサバ、メイズである。1980年代以降の農業生産増加率は、人口増加率を上回っているが、天候に依存しているために不安定である。第三次産業(おもに商業)はGDPの51%(1994)を占め、ベナンの主要経済部門である。立地条件を生かし、コトヌー港を利用した近隣諸国への中継貿易がその64%を占める。他方工業の中心は農産物加工業であるが、その役割は小さく、GDPの13%(1993)、雇用人口の6.9%を占めるにすぎない。
主要輸出品目は綿花、燃料、パーム油製品である。最大の輸入相手国はフランスであり、ほかにオランダ、アメリカ、カナダなどが重要である。主要輸出先はアメリカであり、ポルトガル、中国、ナイジェリア、イタリアがこれに続いている。
[大林 稔]
多数の民族が隣接国にまたがって居住している。ダオメー王国をつくったフォン人およびフォン系諸民族がもっとも多く、ほかにモノ川沿岸のアジャ人、アタコラ山地のソンバ人、北東部のバリバ人、南東部のヨルバ人、北部のプール人などがおもなものである。国民の多くは伝統的宗教を信仰し、ほかはキリスト教徒が20%以上(主としてカトリック)、およびイスラム教徒である。ダオメーの伝統宗教であるブーズー教は、奴隷貿易によりハイチをはじめアメリカ各地に伝えられたことで知られている。公用語はフランス語である。
ベナンの社会指標は同程度の所得の国の水準を下回る(1993)。平均寿命は男51.71歳、女55.22歳で、サハラ以南のアフリカの平均よりやや低い。成人識字率は約40%とサハラ以南アフリカ(平均55%)のなかでも下位に位置する。
[大林 稔]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新