目次 自然 住民,社会 歴史 政治 経済 基本情報 正式名称 =ニジェール共和国République du Niger 面積 =126万7000km2 人口 (2010)=1520万人 首都 =ニアメーNiamey(日本との時差=-8時間) 主要言語 =ハウサ語,フランス語 通貨 =CFA(中央アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine
西アフリカの内陸国。北はアルジェリア,リビア,東はチャド,南はナイジェリア,ベニン,西はブルキナ・ファソ,マリと国境を接する。北部のサハラ砂漠が国土の2/3を占め,その南に続く北部サヘル地帯では牧畜が,南部サヘル地帯とニジェール川流域のスーダン地帯ではおもに農耕が行われているが,可耕地は国土の10%にすぎない。世界で最も暑い地域の一つである。 執筆者:大林 稔
自然 南西から北東にのびる国土は,かなり複雑な地形を示すが,おおまかにみると北高南低の起伏となっている。中央部から平均標高約800mをこすアイルAïr山地が北にのび,その東部のチャド湖盆水系と西部のニジェール水系との分水界をなしている。南東端にはチャド湖があり,南西端をニジェール川が流れ,周辺の南部一帯はあまり高度のないラテライト(紅土)の台地となっている。
気候はほとんど乾燥型で,中部,北部は砂漠気候,南部はステップないしサバンナ気候である。気温は高温で,年平均30℃前後であり,年降水量は最も多い最南部でも600mmをこす程度である。植生は,最南部はスーダン型のサバンナとなるが,北に向かうほど植生は貧弱となり,中部以北は砂漠となる。 執筆者:端 信行
住民,社会 住民の大部分は西部のニジェール川流域と,南部のサヘル地帯に集中している。人口の多い部族をあげると,ハウサ族 (54%),ソンガイ族および近縁のジェルマ族Djerma(23%),フルベ(フラニ,プール)族(10%)などで,ほかにトゥアレグ族 (3%)もいる。住民の85%がイスラム教徒で,残りのほとんどは部族固有の伝統宗教を信仰している。歴史的には,西部はソンガイ帝国 ,中部はハウサ諸国 ,そして東部はカネム・ボルヌー帝国 にそれぞれ支配された。サハラ砂漠の南縁のこの地方は,砂漠を縦断する隊商交易の南の基地となり,早くからジンデル,マラディなどの町が開けた。10~11世紀には早くもイスラムが入り,都市住民は改宗したが,村落部にまで行き渡ったのは19世紀である。
ハウサ,ソンガイ,ジェルマ,カヌリ族Kanuriなどの農耕民は,土壌の肥沃な南部を占め,ミレット,モロコシなどの雑穀を主作物として栽培するほか,ラッカセイやワタなどの商品作物を生産している。ソンガイはニジェール川で,カヌリはチャド湖での漁労も行う。これらの人々は交易にも盛んに従事し,都市,町,村落を結ぶ市場の発達も進んでいる。ハウサはとくに有能な商人として知られている。もともと遊牧民であったフルベ族は,今では村落や町に定住する者が多く,遊牧の生活様式を守る者はボロロと呼ばれている。雨季と乾季で規則的に移動し,乾季には農耕民の収穫が終わった畑に入り,切り株などを牛に与え,同時に畑に施肥を行う。1960年代末と70年代初めの大干ばつにより,牧畜民と農耕民との共存は破れ,牛などの家畜の大半は失われた。農業への打撃も大きく,住民の多くはナイジェリア,ガーナ,トーゴ,コートジボアールなどへ出稼ぎに出た。公用語はフランス語であるが,ハウサ語が広く普及している。 執筆者:赤阪 賢
歴史 この地域は植民地化されるまで,単一の領土に統合されたことはなかった。ニジェール川流域には9世紀ごろにソンガイ帝国がおこり,16世紀前半には北のアイル山地から南のハウサ諸国までを支配下におき,同じころ膨張期を迎えた東のカネム・ボルヌー帝国と領土を接したが,16世紀末にモロッコ軍に倒された。黒人系部族が住んでいた北部には7~11世紀にトゥアレグ族が浸透し,以後諸部族の抗争が続いた。中南部には14世紀ごろまでにハウサ諸国が形成されたが,19世紀初めフルベ族のウスマン・ダン・フォディオ のジハード(聖戦)によって滅ぼされた。19世紀末にイギリス,フランスがこの地域に進出し,1890年と98年の両国の協定でフランスの支配が確定,1904年と06年の両国の合意により現在の国境がほぼ定まった。フランスは21年までかかって現地アフリカ人の激しい抵抗を平定し,22年にニジェール植民地を発足させ,フランス領西アフリカ 連邦の一部とした。
ニジェールの独立運動は50年代末,親仏派のディオリHamani Dioriの指導するアフリカ民主連合ニジェール支部にあたるニジェール進歩党(PPN)と,左派バカリDjibo Bakaryのニジェール民主同盟(UDN)とによって進められた。57年に自治政府が認められ,自治共和国としてフランス共同体内にとどまるか否かを問うた翌58年9月の国民投票では,ディオリは賛成を,バカリは共同体からの離脱を主張したが,結果は78%が賛成票であった。同年12月の総選挙でPPNが勝利を収め,ニジェールはディオリを首相とし,フランス共同体内の自治共和国となった。ディオリは59年にUDNの後身サワバ党を禁止した。60年8月3日,ニジェールは完全独立を達成,ディオリは初代大統領となり,強権的支配体制をしいた。
政治 1967-74年のサヘル干ばつでニジェールは最大の被害国となったが,ディオリ政権は腐敗と非能率のため適切な救援を行うことができなかった。74年4月,クンチェSeyni Kountche参謀総長がクーデタを起こし,みずから最高軍事評議会議長に就任,軍政をしいた。その後数度のクーデタ未遂事件が起こるなど政情は安定しなかったが,ウラン開発の進展による経済成長に支えられて,クンチェ議長はしだいに権力基盤を固めた。83年1月には首相職を新設して政策の調整と執行の権限を与え,また〈発展社会〉と名づけられた総合機構への国民の組織化を進めるなど,民政移管への体制づくりを図った。またクンチェ政権は成立後ただちに駐留フランス軍を撤退させ,外交・経済関係の多角化を図った。83年8月に始まった全国開発評議会(CND)は立法権をもたず,諮問機関にすぎなかったが,87年6月,将来の新憲法の基礎となる国民憲章が採択された。87年11月,クンチェ最高評議会議長がパリで病死し,クンチェのいとこである国軍参謀長アリ・セイブAli Seybou(1940- )が後任に選ばれた。89年9月,新憲法が国民投票で承認され,同年12月の大統領選挙ではセイブ議長が選ばれた。
経済 1人当りGNPは220米ドル(1995)であり,同国はアフリカ(1人当りGNP平均490米ドル)でも特に貧しい国の一つである。ニジェール経済は農業への依存度が高い。同国の経済構造(1995)は農業39%,工業18%,サービス44%で,農業のシェアはサハラ以南アフリカの平均(20%)の約2倍である。また農業は91%(1995)の労働力を吸収している。他方,工業生産のほとんどが鉱業に依存し,製造業の発達が見られないのも特徴のひとつである。
1971年に開始されたウラン生産は輸出のおよそ70%を占める経済の近代部門の中心に成長した。このためニジェール経済はウランの国際市況に依存して大きな変動を経験するようになった。製造業は農産物加工(ラッカセイ搾油,繰綿,精米)と輸入代替(紡績,建材,ビール)の軽工業からなる小規模なものである。
内陸国であるため,海外との貿易はおもにベニンのコトヌー港経由で行われている。鉄道はない。貿易はフランスが輸出入とも約半分を占め,その他の輸出相手国は日本,ナイジェリア,輸入相手国はナイジェリア,アルジェリアなどである。ナイジェリアと国境を接しており,インフォーマルな交易や歴史的結びつきが強い。このためナイジェリアの経済的影響を強く受ける。ECとのロメ協定に調印し,西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA),西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS),協商理事会などの地域協力機構に加盟している。 執筆者:大林 稔