西アフリカ南西部の国。正称はリベリア共和国Republic of Liberia。南西は約560キロメートルの海岸線で大西洋に面し、北西はシエラレオネ、北はギニア、東はコートジボワールに接する。1847年7月、アメリカから移住したアフリカ系解放奴隷が建設した、アフリカ最初の共和国として知られる。面積11万1369平方キロメートル(2020)、人口291万(2000推計)、347万6608(2008センサス)。首都はモンロビア。
リベリアの先住民は、12~16世紀に北方および東方のサバナ地帯から移動してきた人々と推定されている。1461年にポルトガル人のペドロ・ダ・シントラPedro da Cintraが来訪し、以後沿岸地帯で先住民とヨーロッパ人との間でコショウなどの取引が行われ、この地域は胡椒(こしょう)海岸とよばれた。1822年にアメリカのキリスト教団体が設立したアメリカ植民協会が、アフリカ系解放奴隷を現在のモンロビアの地域に入植させた。彼らは1847年7月26日に独立を宣言して憲法を制定、1865年までに約2万人の解放奴隷が入国した。入植者によってサトウキビ、タバコ、綿花、果樹類、野菜などが栽培され、コーヒーおよび砂糖のプランテーションが発達し、とくにリベリア・コーヒーは品質のよさで知られた。しかし、1870年代にコーヒー、砂糖はブラジルやキューバとの競争に敗れ、国家財政は破綻(はたん)し債務が累積され、国の経済は約50年間停滞した。
1926年にアメリカのファイアストン社が世界最大のゴム・プランテーションを建設し、1934年からゴムの輸出が開始された。第二次世界大戦中にはアメリカの空軍基地が建設され、モンロビアの港湾施設がアメリカ軍によって改築された。また、1944年大統領に就任したタブマンWilliam Vacanarat Shadrach Tubman(1895―1971)による門戸開放政策(外資の導入)や国内統一化政策(入植者系住民と内陸部に住む先住民との格差の縮小)は、リベリアの経済開発に刺激を与えた。1971年タブマンが死去し副大統領のトルバートWilliam Richard Tolbert Jr.(1913―1980)が大統領に就任した。トルバートはタブマンの政策を継承し、1975年の大統領選挙では無競争で選出された。
中央銀行としてリベリア国立銀行National Bank of Liberiaがリベリア・ドル紙幣を発行している。リベリア・ドルとアメリカ・ドルとは平価で交換可能であったが、1982年から1989年に至る時期の新5リベリア・ドル貨幣の乱発により、アメリカ・ドルの退蔵化が始まり、内戦がさらにそれを悪化させた。アメリカ・ドル紙幣は、リベリア・ドル紙幣の30倍以上の交換比率となり、1996年4月から5月の戦闘時期には、72対1の比率になった。1992年1月に発行された新5リベリア・ドル紙幣(通称リバティー・ダラー)は、NPFLが非合法通貨とみなしていたが、1994年3月に暫定国家評議会(TCS)成立後、旧紙幣・新紙幣とも合法とされた。
71年タブマンの死去により,副大統領のトルバートWilliam Richard Tolbert(1913-80)が大統領に昇格した。トルバートは,すべてのリベリア人の平等を表明し,縁故主義的支配の廃止,行政の改革を進め,輸入が増加しつつあった主食の米の自給化に努力した。対外的には73年に隣国シエラレオネとマノ川同盟(マノ川は両国の国境を流れる川。のちにギニアも加盟)を結成し,地域協力を推進した。79年に入って政府は米価の値上げを発表したが,市場の女商人,学生,アメリカに留学していた学生によって1975年に組織されたリベリア進歩同盟(PAL)が,4月にモンロビアで反対デモを行った。デモには多くの失業者も参加して暴動となり,軍隊が出動して鎮圧したが,70~100名の死者があったと推定されている。デモの指導にあたったPAL,1973年に在米リベリア人によって組織された知識人層を中心とするアフリカ正義運動(MOJA)は政府批判を継続し,79年12月にPALは進歩人民党(PPP)として合法化された。PPPは80年3月にゼネストを呼びかけてトルバート体制の打倒をはかったが,党首のマシューズをはじめ指導部が逮捕された。マシューズらの裁判は4月に開かれる予定であったが,公判当日の未明,PPPに同調するドエSamuel Kanyon Doe(1952-90)曹長が軍事クーデタを決行し,大統領ら閣僚13名を処刑した。ドエはクル・グループに属するクラーンの出で,このクーデタによりアメリコ・ライベリアンによる少数支配体制は倒された。