改訂新版 世界大百科事典 「ベルギー独立戦争」の意味・わかりやすい解説
ベルギー独立戦争 (ベルギーどくりつせんそう)
1830年8月にフランスの七月革命に触発されて勃発したベルギー独立革命と,それに続くオランダ対ベルギー,フランス,イギリスの戦争をいう。ウィーン会議(1814-15)の結果フランスから切り離され,国民の意志に反してウィレム1世を国王とするネーデルラント王国に編入されたベルギーでは,その非民主的政治体制,とりわけベルギーに対する差別や,オランダ商業資本の利益に沿いベルギー産業資本をイギリスの競争にさらす自由貿易政策に対するブルジョアジー=自由主義者の不満が高まった。また保守派のカトリックも,カルバン派の国王による公立学校設置(教育の教会からの分離),国家による聖職者養成に反抗し,1828年以来両者は統一同盟を結成するにいたった。ところで29年以来の経済不況,凶作,産業革命による離職者の増大は,一般民衆の現体制への憎悪をつのらせていた。こうした中で七月革命の報がベルギーに伝わり,8月25日にブリュッセルのモネ劇場で上演されたオーベールのオペラ《ポルティチの啞娘》(17世紀にスペインの圧政に抗して立ち上がったナポリ人を題材としていた)でテノールが〈聖なる祖国愛〉と〈自由〉を歌うと,興奮した聴衆は外に飛び出し,オランダの駐在大臣の公邸やオランダ系の御用新聞社を襲った。この暴動はベルギーのワロン地方(南部のフランス語圏)に広がり,同時にフランスのリールからドイツのアーヘンまで,全土で機械打毀(うちこわ)し運動が荒れ狂った。政府当局がこれを鎮める力を失っている間,ベルギーのブルジョアジーは市民軍を組織して治安を回復し,ブリュッセルやワロン地方諸都市の実権を握った。当初ベルギーのブルジョアジーも,完全独立までは考えておらず,オランダとベルギーの行政上の分離を要求しただけであったが,ウィレム1世は2000の兵を送ってこれを鎮圧しようと試みた。同年9月,革命派はベルギー各地の市民軍の応援で,オランダ軍を4日間の戦闘の末ブリュッセルから撃退し,アントウェルペン(アントワープ)とマーストリヒトを除くベルギーのほぼ全域を制圧し,独立のため憲法制定議会を召集した。オランダ側はベルギー独立承認を拒み,その要請でロンドンで列国会議が開かれた。会議では,フランスは独立を支援し,イギリスも不安定なオランダに見切りをつけたのに対し,オランダに肩入れするロシア,プロイセン,オーストリアは,ポーランド独立戦争に忙殺され有効な支援を果たすことができず,結局,31年1月の〈18ヵ条議定書〉により,ベルギーの永世中立と1790年当時の国境による両国の分離が定められた。同年2月,きわめて民主主義的な憲法が制定され,これに基づいてザクセン・コーブルク公レオポルドが国王に推挙された(国王レオポルド1世となる)。オランダはロンドン会議の決定を認めず,同年8月再度ベルギーに進攻し,ベルギーはフランス軍の来援でやっとこれを食い止めたものの,リンブルフ州東部,リュクサンブール州のドイツ語地域のベルギーからの分離と旧ネーデルラント王国の公債のほぼ半ばの継承など,一段と不利な〈24ヵ条条約〉をのまねばならなかった。この条約をも拒否したオランダをイギリスとフランスが海上から封鎖して圧力をかけた結果,32年オランダ軍もアントウェルペンから撤退し,33年5月無期限の休戦を迎え,事実上独立戦争は終了した。38年オランダが〈24ヵ条条約〉を承認し,39年最終講和条約を締結した。
執筆者:石坂 昭雄
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