ウィレム1世(英語表記)Willem I

改訂新版 世界大百科事典 「ウィレム1世」の意味・わかりやすい解説

ウィレム[1世]
Willem I
生没年:1533-84

オランダ独立戦争初期の最高指導者。〈寡黙〉の異名がある。ドイツのナッサウ伯家に生まれ,1544年にオラニエ公を継ぎ,カール5世の庇護下にブリュッセル宮廷で成人した。フェリペ2世の下でホラント,ゼーラント,ユトレヒト3州の総督(1559-67,72-84)を務めたが,専制政治に反対し,エグモント伯らと同盟して王の腹心A.P.deグランベルを退去させた(1564)。その後も政府批判の態度を変えず,67年アルバ公の来任に先立って故郷に亡命,自ら起こした解放の軍はいずれも失敗したが,72年末ホラントに赴き,〈海乞食(乞食団)〉の活躍により進展中の反乱を指導した。76年〈ガンの和平〉により一時は全ネーデルラント結束宿願を果たし,ブリュッセル,ついでアントワープでこの結束の強化に腐心したが,79年アラス,ユトレヒト両同盟の成立とともに南北間に深い亀裂が生じた。81年フェリペ2世の廃位を決定,その後新君主として迎えたフランス王弟アンジュー公の不人気と暴挙により,ウィレム自身も不評を買い,83年ホラントに帰り,翌年デルフトで暗殺された。彼の政治理想は旧来の諸特権に基づく中世的貴族支配の維持,宗教的寛容による全ネーデルラントの結束強化にあったが,結果はそのいずれも実現を見ず,北部(オランダ)だけが市民主導の新教国家として独立することになった。しかしこうした歴史的展開の上に残した彼の足跡はやはり大きい。
八十年戦争
執筆者:


ウィレム[1世]
Willem I
生没年:1772-1843

オランダ国王在位1815-40年。オラニエ=ナッサウ公,ルクセンブルク大公。本名Willem Frederik。オランダ共和国の総督ウィレム5世(在位1751-95)の子。1795年フランス軍のオランダ侵入により国外に亡命し,プロイセン軍に入ってナポレオン1世に抗戦した。1815年オランダ,ベルギー,ルクセンブルクを含むオランダ王国の国王となり専制的な統治を行い,30年ベルギー住民は革命を起こしてベルギー諸州の独立を宣言。40年,ウィレムは国民の人気を失い,退位。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィレム1世」の意味・わかりやすい解説

ウィレム1世(沈黙公)
ウィレムいっせい[ちんもくこう]
Willem I, de Zwijger; Prins van Oranje

[生]1533.4.24. ディレンブルク
[没]1584.7.10. デルフト
オランダ独立運動の指導者。オランニェ公,ナッサウ伯。西部ドイツのナッサウ伯家に生れ,1544年にオランニェ公領を継いだ。同家はネーデルラントに多くの所領をもつオランダ随一の大貴族。若くして神聖ローマ皇帝カルル5世とその子,スペイン王フェリペ2世に仕え,ホラント,ゼーラント,ユトレヒト3州の総督に任じられた。フェリペのネーデルラント統治が新教徒を弾圧し,中央集権化を意図して大貴族を国政から疎外していることに対し,エフモント伯,ホールネ伯とともに抗議。 66年以降,中小貴族,カルバン派市民らによって激化した反乱を鎮圧するためフェリペが派遣した将軍アルバ公の弾圧政治を恐れて,67年ドイツに亡命し,オランダ国内および亡命したカルバン主義者と連絡をとりながら,反乱を指導した。 72年亡命カルバン主義者らの組織する「ゼーゴイセン (海乞食) 」がゼーラント,ホラント2州の諸都市を占拠すると,反乱側の指導者として迎えられた。 76年反乱側地域とスペイン支配下の地域との戦争を停止するため「ヘントの平和」を結び,全ネーデルラントの平和と統一の実現に成功した。 79年南部諸州がアラス同盟を結成してカトリック信仰とスペインの支配を確認し,スペイン側と和を結んだことにより,北部7州はユトレヒト同盟を結成,81年スペインから独立したが,ウィレムは一貫して指導に全力を傾けた。 84年デルフトの居館でカトリック教徒に襲われて死亡。ウィレムは知謀すぐれた英雄で,新旧両教の融和と寛容を信条とした。

ウィレム1世
ウィレムいっせい
Willem I

[生]1772.8.24. ハーグ
[没]1843.12.12. ベルリン
オランダ (ネーデルラント) 王国初代の王 (在位 1815~40) 。オランニェ=ナッサウ公,ルクセンブルク大公。オランダ連邦共和国総督ウィレム5世の子でウィレム6世とも数えられる。 1791年プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム2世の娘ウィルヘルミナと結婚。 95年フランス軍の侵入により家族とともにイギリスに亡命したが,のちプロシア軍に参加してナポレオン軍と戦った。 1813年ナポレオン1世敗北後オランダに帰国し,主権者として迎えられた。 15年ウィーン会議の結果,オランダ,ベルギー,リエージュ,ルクセンブルクを含むオランダ王国が成立し,ウィレム1世として国王になった。崩壊したオランダ経済の復興に手腕を発揮したが,その強圧的な統治はベルギー住民の不満を高め,30年パリに七月革命が発生すると,ベルギーは独立運動を起した。 30~31年列国はロンドン会議を開きベルギー独立を認めたが,ウィレムは 39年にいたってようやく独立を承諾した。翌年退位。

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367日誕生日大事典 「ウィレム1世」の解説

ウィレム1世

生年月日:1533年4月16日
スペインに対抗し,オランダの独立に尽した指導者
1584年没

ウィレム1世

生年月日:1772年8月24日
ネーデルラント国王(在位1814〜40)
1843年没

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世界大百科事典(旧版)内のウィレム1世の言及

【オラニエ=ナッサウ家】より

…16世紀前半,ナッサウ家の長男ヘンドリック(ハインリヒ)3世はネーデルラントを含むライン左岸の領地を相続し,ハプスブルク家に仕え,結婚により南仏オランジュOrange(オラニエ)公領を手に入れた。次男のウィレム(ウィルヘルム)はライン右岸領すなわちナッサウ家伝来の領土を得た。ウィレムの子ウィレム1世(1533‐84)は父の領土を相続し,1544年伯父ヘンドリック3世の子ルネが没すると,ナッサウ家に伝わる全領土を継承してオラニエ=ナッサウ公家の創設者となった。…

【オランダ共和国】より

… ネーデルラント住民はフェリペがスペイン流の異端審問所をこの地方に導入することを恐れ,伝統的に享受してきた自治の特権が侵犯されることを警戒した。ことにこの地方で大勢力を張ってきたオラニエ公ウィレム1世,エフモント公ら大貴族は,統治の中枢から排除されることを恐れ,政庁に公然と反抗を開始した。66年,数百名の中小貴族がブリュッセルに集まって盟約を結び,執政パルマ公妃マルガレータに面会して新教禁止の緩和を訴え,乞食団を結成した。…

【八十年戦争】より

… スペイン国王フェリペ2世(在位1556‐98)の中央集権政策に対して身分的,地域的諸特権を擁護する貴族や都市の反抗,また厳酷なカトリック政策に対する新教徒や寛容派の反抗はすでに1560年前後に始まった。まず司教区制の改革をめぐる紛議ではオラニエ公ウィレム1世エグモント伯ら上級貴族が結束し,64年執政パルマ公妃マルガレータ(マルハレータ)Margarethaの側近筆頭グランベルA.P.de Granvelleを退去させたが,65年いっさいの政策変更を峻拒した王の〈セゴビア書簡〉を契機に反抗の主導権は下級貴族の手に移り,その〈貴族同盟〉は66年4月請願書を執政に提出して宗教迫害の停止を求めた。これに勢いを得たカルバン派は組織活動を一段と強め,また折からの経済危機を背景に同年夏,聖像破壊(イコノクラスム)の暴動が西フランドルから各地に波及すると,民衆運動に恐怖した多くの貴族は執政と協定して同盟を解散し,立ち直った政府はカルバン派の反乱をことごとく鎮圧して,オラニエ公ら多数が亡命を余儀なくされた。…

【オラニエ=ナッサウ家】より

…16世紀前半,ナッサウ家の長男ヘンドリック(ハインリヒ)3世はネーデルラントを含むライン左岸の領地を相続し,ハプスブルク家に仕え,結婚により南仏オランジュOrange(オラニエ)公領を手に入れた。次男のウィレム(ウィルヘルム)はライン右岸領すなわちナッサウ家伝来の領土を得た。ウィレムの子ウィレム1世(1533‐84)は父の領土を相続し,1544年伯父ヘンドリック3世の子ルネが没すると,ナッサウ家に伝わる全領土を継承してオラニエ=ナッサウ公家の創設者となった。…

【オランダ】より

…〈海乞食〉(乞食団)の蜂起による反乱側のホラント,ゼーラント両州占拠(1572)を経て,ネーデルラント北部の7州は,1579年ユトレヒト同盟を結成し,81年スペイン人に対する独立を宣言した。反乱の指導者オラニエ公ウィレム1世が84年暗殺されると,オルデンバルネフェルトが共和国の政治を指導し,オラニエ公の遺子マウリッツを指揮官にスペイン軍と戦い,1609年にはスペインと12年間の休戦条約を結んで実質的な独立を達成した。オランダ共和国(正式にはネーデルラント連邦共和国)は独立の達成とともに,ヨーロッパで最も富裕な商業国家になった。…

【ベルギー独立戦争】より

…1830年8月にフランスの七月革命に触発されて勃発したベルギー独立革命と,それに続くオランダ対ベルギー,フランス,イギリスの戦争をいう。ウィーン会議(1814‐15)の結果フランスから切り離され,国民の意志に反してウィレム1世を国王とするネーデルラント王国に編入されたベルギーでは,その非民主的政治体制,とりわけベルギーに対する差別や,オランダ商業資本の利益に沿いベルギー産業資本をイギリスの競争にさらす自由貿易政策に対するブルジョアジー=自由主義者の不満が高まった。また保守派のカトリックも,カルバン派の国王による公立学校設置(教育の教会からの分離),国家による聖職者養成に反抗し,1828年以来両者は統一同盟を結成するにいたった。…

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