1887年にスイスで生まれ、後にフランス国籍を取得。米国のフランク・ロイド・ライト、ドイツ出身のミース・ファン・デル・ローエとともに20世紀を代表する「近代建築の3巨匠」と呼ばれる。絵画や家具などにも多くの作品を残し1965年に死去。国立西洋美術館本館の設計に際し、55年に来日した。本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレ。
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スイス出身のフランスの建築家、画家。本名はジャンヌレCharles Edouard Janneretで、10月6日ラ・ショー・ド・フォンに生まれる。同地の美術学校に学んだのち、ペレやベーレンスの事務所で短期間働いたが、建築はほとんど独学。1917年からパリに定住し、1920年代から本格的に活動を開始する。まず画家オザンファンと『エスプリ・ヌーボー』誌によりピューリスム(純粋主義)の運動を主張、旺盛(おうせい)な執筆活動のかたわら、絵画ではキュビスム風の静物画に基づき、さらに形と色の整頓(せいとん)された作品を描いている。『エスプリ・ヌーボー』の論文は、のち『建築をめざして』(1922)、『ユルバニスム』(1924)にまとめられ、また具体的に都市のスケールでまとめた計画案「現代都市」(1922)、「パリのボアザン計画」(1925)などによって、国際的な合理主義建築思想を打ち出していった。実作は住宅が中心で、エスプリ・ヌーボー館(1925)、ワイセンホフ・ジードルンクの住宅(1927)、ガルシェのシュタイン邸(1929)、ポワッシーのビラ・サボワ(1931)などが知られる。このうちビラ・サボワは、端正な白亜の幾何学的形態のなかに、いわゆる近代建築の五原則(ピロティ、独立骨組みによる水平建築窓、自由な平面、自由な立面、屋上庭園)を織り込んだもので、初期のル・コルビュジエのスタイルを決定づける作品となった。
1927年、ジュネーブの国際連盟会館の競技設計で、彼の応募作が最終段階で審査員団に拒否されたことを契機に、近代主義の建築思想を組織化する必要を痛感し、翌年CIAM(シアム)(近代建築国際会議)の結成を主宰し、以後この組織の事実上の推進者となった。1930年代の実作品には、パリのスイス学生会館(1932)、パリ郊外週末の家(1935)、ブラジルの教育保健省(O・ニーマイヤーと共同設計、1945)などがあるが、この時期はCIAMを舞台にした都市計画の提案に多くの労力を割いた。
第二次世界大戦後は、国連の会議事務施設のための企画と基本設計に始まり、マルセイユのアパート「ユニテ・ダビタシオン」(1952)、奔放な彫刻的形態のあるロンシャンの礼拝堂(1955)のほか、リヨン近郊のラ・トゥーレット修道院(1960)、東京の国立西洋美術館(1959)などを残した。また、1950年代にはインドのチャンディガルの都市計画にも意欲を示し、高等裁判所(1955)などの庁舎建築を設計している。1965年8月27日、南フランスのロクブリュヌ・カップ・マルタンで没。
彼は生涯を通じて近代合理主義を推進しながらも、その基調にはギリシア以来の古典主義美学に対する優れた感覚があり、これをさらに洗練させて鉄筋コンクリート建築の新しい局面を切り開いた。この意味でも、近代建築における巨匠としての位置づけがなされているのである。
[高見堅志郎]
2016年には、ル・コルビュジエが設計した代表的な17の建築作品が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「ル・コルビュジエの建築作品:近代建築運動への顕著な貢献」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。構成資産は以下のとおりである(かっこ内は所在地)。
【フランス】
ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸
Maisons La Roche-Jeanneret
(パリ)
ビラ・サボワ(サボワ邸)と庭師小屋
Villa Savoye et loge du jardinier
(ポワッシー)
ペサックの集合住宅(シテ・フリュジェ)
Cité Frugès
(ペサック)
カップ・マルタンの休暇小屋
Cabanon de Le Corbusier
(ロクブリュヌ・カップ・マルタン)
ポルト・モリトーの集合住宅
Immeuble locatif à la porte Molitor
(パリ)
マルセイユのユニテ・ダビタシオン
Unité d'habitation, Marseille
(マルセイユ)
ロンシャンの礼拝堂
Chapelle Notre Dame du Haut
(ロンシャン)
ラ・トゥーレット修道院
Couvent Sainte-Marie de la Tourette
(エブー)
サン・ディエの工場
Manufacture à Saint-Dié
(サン・ディエ)
フィルミニの文化の家
Maison de la Culture, Firminy
(フェルミニ)
【日本】
国立西洋美術館
Musée National des Beaux-Arts de l'Occident
(東京)
【ドイツ】
ワイセンホフ・ジードルンクの住宅
Maisons de la Weissenhof-Siedlung
(シュトゥットガルト)
【スイス】
レマン湖畔の小さな家
Petite maison au bord du lac Léman
(コルソー)
イムーブル・クラルテ
Immeuble Clarté
(ジュネーブ)
【ベルギー】
ギエット邸
Maison Guiette
(アントウェルペン)
【アルゼンチン】
クルチェット邸
Maison du Docteur Curutchet
(ラ・プラタ)
【インド】
チャンディガルの都市計画(キャピトル・コンプレックス)
Complexe du Capitole, Chandigarh
(チャンディガル)
[編集部 2017年2月16日]
『吉阪隆正訳『建築をめざして』(1975・鹿島出版会)』▽『樋口清訳『ユルバニスム』(1976・鹿島出版会)』▽『W・ボジガー編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集』全8巻(1977~1979・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『R・D・フスコ著、横山正訳『ル・コルビュジエの家具』(1978・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『C・ジェンクス著、佐々木宏訳『ル・コルビュジエ』(1978・鹿島出版会)』▽『S・V・モース著、住野天平訳『ル・コルビュジエの生涯――建築とその神話』(1981・彰国社)』
スイス出身のフランスの建築家,画家。本名ジャンヌレCharles Édouard Jeanneret。故郷ラ・ショー・ド・フォンLa Chaux-de-Fondsの工芸学校卒業後,ウィーンのJ.ホフマン(1907),リヨンのT.ガルニエ(1908),パリのA.ペレ(1908-09),ベルリンのP.ベーレンス(1910-11)の事務所で働き,これら高名な建築家から多く学ぶ。さらに遠くギリシア,トルコまで旅行した後,1917年パリに定住して仕事をはじめる。すでに1914年〈ドミノ・システムDomino system〉を発表,コンクリート造の柱と床に荷重を受け持たせ,壁を自由にした近代建築の構造原理を示した。さらに22年,〈近代建築の5原則〉を発表し,ピロティ,独立骨組み,自由な平面,自由な立面,屋上庭園こそ近代建築の備えるべき特色であると指摘する。また,家は〈住むための機械machine à habiter〉であると語り,近代建築理論を導いた。
他方,1917年,画家A.オザンファンと出会い,翌年彼と《キュビスム以後》を著し,装飾に堕したとキュビスムを批判し,機械にイメージを求めて明確・簡潔な抽象造形を目ざす〈ピュリスムpurisme〉を唱える。また20年《エスプリ・ヌーボーL'Esprit Nouveau(新しき精神)》誌を創刊。同誌に発表した建築,絵画から文学にまで及ぶ論文は《建築へ向かって》(1923)にまとめられるが,これは彼の建築論の原型をなすものといえる。彼はさらに関心を建築から都市へと広め,22年のサロン・ドートンヌに人口300万の現代都市案を出品。25年には都市論《ユルバニスムUrbanisme》を刊行,パリ改造計画案のほか,パリの〈現代装飾・工業美術国際展〉(アール・デコ)でエスプリ・ヌーボー館を手がけ,彼の高層都市住宅の単位住戸を実物大で建てる。都市に再び緑と太陽と大地を取りもどそうという主張は,これらの著述,建築にすでに明らかに示されている。27年,国際連盟本部ビルの競技設計に参加入賞しながら不当の扱いを受け,S.ギーディオンと語らい,28年スイスのラ・サラにW.グロピウスをはじめ各国の進歩的建築家の参加を求め,CIAM(シアム)(近代建築国際会議)を発足させる。以後CIAMは,第2次大戦後の第10回(1956)まで,毎回最も現代的な課題を掲げて,世界の建築家を集め提案,決議を行い,憲章(1933年の〈アテネ憲章〉が著名)を発表して大きな影響力をもったが,その中心にはつねにル・コルビュジエがいた。32年,H.R.ヒッチコックとP.C.ジョンソンにより国際様式建築が定義づけられ,かつこれからの近代建築のあるべき姿として多くの共感を呼んだが,それに先立って発表されたル・コルビュジエのシュタイン邸(1927),サボア邸(1928-31)などはその最も有力な確証を与える作品であった。正規の建築教育を受けていない彼は,〈成長する美術館〉計画(1939),〈輝く都市〉計画(1935)など多方面にわたる問題作を発表するが,実現したのはスイス学生会館(1930-32)などわずかに過ぎぬまま第2次大戦を迎える。
大戦中,基準尺の研究を進めて独自の〈モデュロールModulor〉を得,より自由なプランと造形の可能性を手中にした。戦後の,都市の巨大住居単位として実現したマルセイユの集合住宅ユニテ(1946-52)や,これまでと違って自由で彫塑的な造形を示すロンシャンRonchampの教会(1951-54)は,その飛躍と変貌で人々を驚かしたが,いつも基調にはモデュロールが置かれている。さらにインド,パンジャブ州の新州都チャンディーガルで初めて都市計画の夢を実現(1955)。また東京・上野の国立西洋美術館(1956-59)など国外にも多くの作品の設計をはじめたが,不慮の事故により没した。著作は多く,上述したもののほか,《今日の装飾美術》(1925),《カテドラルが白かった時》(1937)などがある。なお,彼に師事した日本の建築家に前川国男,坂倉準三,吉阪隆正がいる。
執筆者:山口 廣
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1887.10.6 - 1965.9.25
スイスの建築家,都市計画家,画家。
ラ・ショー・ド・フォン生まれ。
ラ・ショー・ド・フォン工芸学校卒。
本名Charles Edouard〉 シャルル・エドワール〈Jeanneret ジャヌレ。
1910年ベルリンのP.ベーレンスの事務所で働き、ヨーロッパ各地で学び、フランスを中心に活動。画家オザンファンとともに‘キュビスム以後’宣言を発表、キュビスムを批判し、ピュリスムを唱える。’20年雑誌「新精神」を創刊。’22年従弟ピエール・ジャンヌレと建築事務所を開く。著書に「建築をめざして」(1922年)、「今日の装飾芸術」(’25年)など。主要建築に「サヴォワ邸」(’30年)、「ノートルダム・デュ・オ教会」(’54年)、「大集合宅」などがある。日本人の弟子に前川国男、坂倉準三、吉坂隆正がいる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
1887~1965
スイスに生まれフランスに帰化した世界的建築家,画家。機能主義を唱え,住宅建築から都市計画に至るまで広範囲に活躍し,国連ビルその他著名な作品が多い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…自然の恵みを神に感謝するという意味の収穫祭と花に象徴される自然美を愛でる精神行事が,バルコニーでの鉢物草花園芸の発達を促し,屋上庭園の系譜にも影響を与えたとする説もある。近代になって,ル・コルビュジエは屋上の照返し緩和,ひび割れ漏水防止,屋外空間の利用という機能的意味を屋上庭園に与えた。日本では1920年代に百貨店の屋上に装飾と園芸売場を兼ねたもの,小学校に屋上教材園が造られたのが最初である。…
…サン・カンタン生れ。初めキュビストとして活躍したがこれに十分満足せず,1918年に画家で建築家のジャンヌレCharles‐Édouard Jeanneret(ル・コルビュジエ)と共に〈ピュリスムpurisme(純粋主義)〉を提唱して,明確な線および形,簡潔な画面構成を強調し,造形言語の純化を企てた。20‐25年,共同で雑誌《エスプリ・ヌーボーL’Esprit Nouveau(新しき精神)》を刊行。…
…建築教程の中心としてのオーダーは,19世紀半ばのゴシック・リバイバルから20世紀の近代建築運動に至る間に否定されたが,建築全体の比例調和の意味でのオーダーは生き残り,近代主義の美学の中心となっていた。特にル・コルビュジエが人体寸法に基づく寸法体系モデュロールを唱えたり,建築の工業化・標準化を進める規格寸法の体系が一般にモデュールの名で呼ばれているのは,そのあらわれと見ることができる。比例[建築]【福田 晴虔】。…
…しかし彼らは18世紀の上流階級のように必要な家具を一定のルールに従って配置する慣習を無視し,もっぱら多数の家具を無秩序に置くことを誇りにした。 このような生活様式の混乱を是正する意図から,建築家ル・コルビュジエは不要な家具を排除し,三つの基本的な家具のカテゴリーを明らかにした。(1)人体を支持する労働・休息の椅子,(2)物をのせたり作業するためのテーブル,(3)物を収納・整理するためのユニット式戸棚である。…
…イギリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの影響を受けて1907年ドイツ工作連盟Deutscher Werkbundが設立され,ここでは機械生産(大量生産と規格化)を前提としたデザインが提唱されてゆく。これらの試みと並行して,20世紀初頭にグロピウス,F.L.ライト,ル・コルビュジエが,合理性と機能性に基づく完全に新しい造形によってヨーロッパ建築に影響を与えるようになる。機能主義建築
[国際様式]
1920年代に入ると,20世紀初頭に見られた建築の動きはヨーロッパ全体に影響を与える運動となってゆく。…
…収蔵作品数は約850点(1983年末)で,ティントレット,ルーベンス,ロイスダール,ドラクロア,コロー,モネ,ルノアール,ドガ,セザンヌらの絵画があり,ロダンの彫刻は質量ともにパリ,フィラデルフィアのそれに次ぐ。本館はル・コルビュジエの設計で,日本における彼の唯一の作品。79年に新館を増設。…
…これは特筆すべき変化で,従来の建築家は教会堂や宮殿,貴族の大邸宅を設計することはあっても,一般の家庭生活のための個人邸宅を設計することはなかったのである。ル・コルビュジエは1914年に〈ドミノDomino〉と呼ぶ建築の原型を提出したが,これは床と柱と階段だけからなるモデルであり,専用住居を想定したものであった。彼に限らず,20世紀初頭の建築家たちは独立専用住居を建築の原型と考えたのであった。…
…インドとパキスタンの分離独立(1947)により旧パンジャーブ州の州都ラホールはパキスタン領となり,それにかわる新州都として建設された。1952年ル・コルビュジエの第1期計画の設計案が決定し,人工湖のほか29の長方形セクター(住区)からなる人口15万人の都市建設を目ざした。北東端の高所に官庁街カピトル,北西にパンジャーブ大学,南東に工業地区,中央に中央商業区を配し,おのおの都市の頭,手と足,心臓にあたるという有機体的な都市として構想された。…
…それは生産工程の変化を背景とするものではあるが,これまでの重々しい建築とはまったく異なる軽やかな印象を与え,やがて生産主義,機能主義に立つ美学の源流となった。のちにル・コルビュジエが建築についてのマニフェスト(宣言)を書くときに言及したのが航空機やサイロ,高速客船であったことを思いあわせればよい。第2の例としては,ドイツの家具製作者M.トーネットによる曲木椅子の制作があげられる。…
…またこの発想の展開によって衛星都市satellite citiesの概念が登場し,第2次世界大戦後,イギリス政府によるニュータウン政策に引き継がれた。 ハワードの田園都市とならんで,後世に大きな影響を与えたものとして,ル・コルビュジエの理想都市があげられる。彼は1922年〈人口300万人の現代都市〉を発表して以来,次々に新しい発想を展開した。…
…また近代の工業化は,尺度に対する新しい要求(モデュラー・コーディネーション)を提起しており,その手段としての〈モデュール〉設定が望まれるようになった。ル・コルビュジエのモデュロールは,こうした二つの要求を同時に満たそうとしたもので,人体寸法を基準とし,フィボナッチ数列を駆使した複雑な体系からなっている。しかしこれはル・コルビュジエの期待に反し,彼の一門の人々以外からはほとんど用いられることがなかった。…
…ル・コルビュジエによって提案された建築モデュールの一つ。男性が手をあげた姿勢の指先,頭,みぞおち,つま先の間の三つの寸法が黄金比になっていることに着目し,これらをもとにフィボナッチの数列に展開したものである。…
※「ルコルビュジェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
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