〈近代建築Modern Architecture〉という言葉は西洋において,近代産業社会の中で生み出された建築全体に対して用いられる。過去の様式(歴史的様式)から離脱し,鉄,ガラスなどの新しい建築材料を用いた建築を生み出した19世紀末から20世紀初頭の建築に対しては,一般に〈近代運動Modern Movement〉という呼称が,また,過去の様式にはよらない新しい造形が確立された1920~30年代の建築に対しては〈国際様式International Style〉もしくは〈国際近代International Modern〉という呼称が用いられる場合が多い。
建築運動の中で〈近代〉という言葉が最初に用いられるのは,1860年ロンドンの建築協会の集会における〈近代主義Modernism〉という発言であったといわれ,そこでの,様式的に過去から離反しようとする意識は近代建築の基本的性格でありつづけた。国際様式という概念はグロピウスの著書《国際建築Internationale Architektur》(1925)に触発されて,1932年にニューヨーク近代美術館で開かれた建築展に際して,H.R.ヒッチコックらによって命名されたものである。したがって近代建築という一般的呼称を用いる際には,何をもって建築の近代性ととらえるのかをはっきりさせておかねばならない。一般には近代建築の基本的性格は,(1)過去の様式の模倣から離脱した抽象的造形の追究,(2)工業技術や工業製品(鉄,ガラス,コンクリート)を使用した構造の採用,(3)工業化された社会に適合した機能的建築の推進,の3側面に整理される。この諸側面はすでに18世紀中ごろから個別的に現れていた。
1750年代以降の新古典主義建築家の中には,ルドゥー,ブーレー,ジリー,ソーンのように,抽象的かつ幾何学的な建築形態を追究する者が現れ,理念的に建築の原型を想定するロージエMarc-Antoine Laugier(1713-69)のような理論家も存在した。ここに近代建築の萌芽の一つが見いだされる。また18世紀半ばから始まった産業革命の結果,人口の都市集中が起こり,工場,駅などの大規模建築が多く建設され始めた。これらは大部分が過去の様式を用いて建設されたが,内部には大量の鉄骨が使われる例が多く,やがては1851年のロンドン万国博会場のクリスタル・パレスのように,建物全体を鉄とガラスで覆う例も現れた。こうした新たな材料と技術は,直接的に近代運動を用意するものであった。これに並行して新しい産業社会の矛盾を批判する都市論,デザイン論も19世紀になると現れてくる。ラスキンやW.モリスの芸術論(アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント)がその例であり,R.オーエンやフーリエのユートピア思想も近代建築の理念に影響を及ぼしている。また,19世紀建築に対してはゴシック様式が強い影響力をもっており(ゴシック・リバイバル),産業革命後の社会に対する批判や,あるべき建築の姿の探究にもゴシックの造形原理,中世の都市やデザイン工房組織を理想に据える態度が見られる。建築を同時代の社会観・宗教観の反映と見るピュージンや,ゴシック建築を構造合理性の極致として解釈してみせたビオレ・ル・デュクはその典型である。中世をモデルとする態度は19世紀の建築,都市論の特徴といってよいが,それは20世紀の〈田園都市Garden City〉やバウハウスなどの理念にも受け継がれている。しかし,実際の造形がゴシック様式や他の歴史様式を基調とする限りにおいては,それらを近代建築と呼ぶことはできない。
建築が歴史主義を脱した造形を模索し始めるのは,1870年代にイギリスの郊外住宅を中心にクイーン・アン様式あるいは〈フリー・クラシック〉と呼ばれる造形が現れて以降であるが,90年代からヨーロッパ全体にアール・ヌーボーが流行するにいたって,それは決定的になった。アール・ヌーボーの代表的作例であるオルタによるタッセル邸(1892-93)やギマールによるパリの地下鉄入口では,創意に満ちた曲線的モティーフが見られた。同時にアール・ヌーボーの周辺では,〈シカゴ派〉に属するL.H.サリバンが高層ビルの原型を実現しつつあり,グラスゴーではマッキントッシュがオーストリアに影響を与えることになる直線的様式を発展させつつあり,またスペインのガウディは,ゴシック原理に基づきつつ,うねるような曲線を多用した独自の造形を追究していた。北欧やオランダでは中世建築の手づくりの造形を新しく再生させる試みがつづけられ,20世紀に入ってから,〈アムステルダム派〉を形成してゆく。
アール・ヌーボーは20世紀に入ると急速に衰え,直線的な造形が主流を占めるようになる。オーストリアのO.ワーグナーは《近代建築Moderne Architektur》(1895)を著して近代運動の先駆となり,その影響下にベーレンス,ロース,J.ホフマンらを輩出した。またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatolede Baudotらによる試みをさらに発展させた。都市のイメージに対しても,1918年T.ガルニエが〈工業都市〉案を提出し,中世都市をモデルとする都市理念を払拭した。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの影響を受けて1907年ドイツ工作連盟Deutscher Werkbundが設立され,ここでは機械生産(大量生産と規格化)を前提としたデザインが提唱されてゆく。これらの試みと並行して,20世紀初頭にグロピウス,F.L.ライト,ル・コルビュジエが,合理性と機能性に基づく完全に新しい造形によってヨーロッパ建築に影響を与えるようになる。
→機能主義建築
1920年代に入ると,20世紀初頭に見られた建築の動きはヨーロッパ全体に影響を与える運動となってゆく。1919年に設立されたバウハウスは,ナチスの迫害を受けながらも,総合的な造形教育システムを打ち立て,校長を務めたグロピウスやミース・ファン・デル・ローエらの建築理念に基づき新しいデザインを推進した。特に後者の〈ガラスの摩天楼Glass Skyscraper〉案(1921)は,彼が後に発展させることになるカーテンウォールの高層ビルの原型を示すものであった。バウハウスの主力メンバーはのちにアメリカに移住し,第2次大戦後アメリカの建築,デザインの形成に大きく寄与した。28年ル・コルビュジエはS.ギーディオンらとシアムCIAM(近代建築国際会議Congrès Internationaux d'Architecture Moderne)を結成し,第2次大戦後に至るまで,国際様式の推進の中心となった。国際様式は,建築を空間のボリュームの組合せとして構想し,古典主義的左右対称性に替わって繰返しの規則性によってリズム感を生み,装飾を排した仕上げによって建物をつくり上げるものであった。こうして,白い箱のような近代建築のイメージができ上がる。幾何的抽象の美学を建築にもたらそうとする考えはG.T.リートフェルト,J.J.P.アウトら,〈デ・ステイル〉グループの建築家によっても,またサンテリアなどのイタリア未来派の建築家たちによっても提唱された。しかしその一方で,抽象的ではあるが彫塑的な性格の強い造形を行うE.メンデルゾーンらのドイツ表現主義の建築家たちもいた。さらには,パリでの国際装飾博覧会(1925)に名称の起源をもつアール・デコと呼ばれる直線的な装飾性をもつ建築がニューヨークの摩天楼(スカイスクレーパー)や商業建築の様式を支配していたし,欧米の銀行や公共建築の大部分はなおもバロックを基調とした歴史的様式でつくられていた。しかし,これらは決して反動的傾向ではなく,30年代までは,むしろ古典主義の延長線上にある造形が建築の主流をなしていた。古典主義の立場で創意を示した建築家の典型例に,イギリスのラッチェンスがいる。
第2次世界大戦の勃発によって建設活動は停滞したが,戦後の復興を迎えたとき建築を支配したのは国際様式であった。安価な建設と大量の建設という課題にこたえ得る様式としては,それが最も受け入れやすいものであった。ミース・ファン・デル・ローエのカーテンウォールによるレーク・ショア・ドライブ・アパート(1949-51,シカゴ),ル・コルビュジエによる集合住宅ユニテ(1946-52,マルセイユ)は,その宣言であった。イギリスのニュータウン法(1946)に基づく新都市建設は,都市理念における近代運動の勝利であった。建築に風土的な個性を与えたフィンランドのアールトー,大胆な構造を建築表現に高めたイタリアのP.L.ネルビ,打放しコンクリートの肌を粗々しく表現する〈ブルータリズムBrutalism〉などが1950年代に現れたが,歴史様式が建築造形に用いられることはなかった。
→国際様式建築
国際様式は世界中の高層事務所建築の主流となったが,その画一的かつ非個性的な空間を嫌う声が60年代から現れてくる。すでにル・コルビュジエのロンシャンに建つ教会(1954),デンマークのウッツォンJørn Utzon(1918- )によるシドニー・オペラ・ハウス(1956設計),丹下健三設計の国立屋内総合競技場(1964)などの作品が,機能の充足のみからは説明のできない造形を示していたし,70年代に入るとフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)における設計の伝統であった古典主義的造形を標榜するアメリカのL.I.カーン,またAT&Tビル(1978設計)によって高層ビルに象徴的表現を復活させたP.C.ジョンソンらの影響力が強まった。構造技術の表現,工業生産力の建築への応用という近代建築の一貫したテーマは,J.スターリング設計のレスター大学工学部(1959),ピアノ=ロジャーズ設計のパリのポンピドゥー・センター(1977)などの表現を生んだが,プレハブ建築や工業化された建築部材はすでに先進国の日常生活そのものとなっていた。むしろ新しい課題として登場したのが,歴史的建造物の保存再生計画であり,74年の石油危機以降,ボローニャの都市計画に見られるような都市規模での歴史的遺産の継承再利用が図られるようになってきた(町並み保存)。これに呼応するかのように,歴史的様式を連想させるモティーフを造形に用いるグレーブスMichael Graves(1934- )らが注目されたり,無装飾の新古典主義というべき造型を示すロッシAldo Rossi(1931-97)が現れたりして,1920年代に成立した国際様式は新たな多様化を迎え始める。70年代から顕著になるこの傾向を,〈近代建築〉はすでに歴史的に完了したとする立場から,〈ポスト・モダニズムPost-modernism〉と呼んでいる。
執筆者:鈴木 博之
1868年,日本が明治維新を迎えたとき,欧米ではすでに〈歴史的様式〉を否定し,やがて近代建築に到達するはずのさまざまの萌芽的徴候が生まれていた。しかし明治の日本が欧米の建築に注目したのは,そのような新しい動きではなく,むしろ当時の欧米諸都市を埋めつくしていた〈歴史的様式〉であって,明治政府は他の工業や軍事的能力とともに建築と都市もまた,ヨーロッパと同様の水準に到達することを望んだのであった。明治時代の建築における主要な関心は〈近代化〉ではなく〈西欧化〉であり,このことがのちの日本の近代建築成立期に独特の方向性を与えることとなる。建築の西欧化は明治政府の主導のもとに進められた。それは次のような局面をもつ。第1に御雇外国人を招いて主要な建築の設計を委嘱したことである。大きな足跡を残した人物として,造幣寮(1871,大阪)などを造ったウォートルス,工部大学校本館(1887,東京)などを設計したボアンビルC.de Boinville,陸軍参謀本部(1881以降,東京)などの設計者カペレッティ,それにコンドル,エンデHermann Ende,ベックマンWilhelm Böckmannらがいる。なかでもコンドルは来日後死去するまでの間ほとんど日本に滞在し,設計ならびに後進の指導などを通じて最も日本に貢献したといえる。第2は上記のようなヨーロッパ人建築家・建築技術者に替わるべき日本人の教育を開始したことである。1871年,工部省内に工学寮を設けて,他の工学教育とともに外人教師による建築教育が始まる。工学寮は77年工部大学校と改称,79年には最初の卒業生を世に出すが,そのなかには辰野金吾,片山東熊など造家学科(のちの建築学科)学生4名が含まれていた。第3に,明治政府は個々の建築の洋風化だけでなく,首都の美化すなわち東京を全体として西欧風に整備することに強い関心を抱き続けた。1872年から77年にかけて建設された銀座煉瓦街,86年,ベルリンのエンデ=ベックマン建築事務所に計画を依頼した日比谷地区の官庁街計画,89年から事業が開始された東京市区改正などはそうした政府の意図を端的に物語るものである。第4に,殖産興業の一環として,鉄,セメント,ガラスの生産も明治政府の手によって保護育成がはかられた。これらの資材の国産化は直接建築の西欧化を目標とするものではないが,のちの近代建築成立期の技術的背景を形成した。明治時代の主要な建築として,上野博物館(1881,コンドル),三菱一号館(1894,コンドル),東京裁判所(1896,エンデ,ベックマン,ハルトゥング),日本銀行本店(1896,辰野金吾),横浜正金銀行(1904,妻木頼黄(よりなか)),赤坂離宮(1909,片山東熊)などが挙げられる。明治における西欧風様式建築導入に見られる著しい特色は,西欧の建築体系をその全体でなく,日本が必要としていた側面においてのみ積極的導入がはかられたことである。教育において建築が工学の一領域とされたことにそれはよく表れており,完成された様式の全体系を単に技術として把握することによって,日本は被植民地化意識なしに受け入れることに成功したといってよい。また1891年の濃尾地震で煉瓦造の耐震性が疑われると,ただちに鉄骨造・鉄筋コンクリート造の導入の方向に向かうのも,技術主導性が強かったからにほかならない。
以上のような政府による西欧建築の移植のほかに,民間における洋風摂取の試みも活発であった。江戸末期から明治初年にかけて,横浜,神戸,長崎などの居留地では,政府による組織的導入に先がけて洋風の建築が実現されていた。それらは大工棟梁や職人の活躍に負うもので,在来の構法を駆使しつつ洋風らしさを表現しようとした。築地ホテル館(1868,東京)や第一国立銀行(1872,東京)などを造った清水喜助はその代表的人物である。またそのような木造洋風建築は,学校,病院,役場などを対象として全国的に普及した。開智学校(1876,松本),済生館本館(1879,山形)などがその代表的遺構である。
近代建築の条件の一つである技術的発展,とくに鉄とコンクリートによる構法は明治時代の後半にはすでに用意されていた。最初の鉄骨造は1890年代の中ごろ,鉄筋コンクリート造は1900年代の中ごろに出現する。一方,19世紀末の新しい造形としてのアール・ヌーボーも少し遅れて日本に導入されており,福島邸(1905,東京,武田五一),松本邸(1910,北九州,辰野・片岡事務所)などのほか,赤坂離宮にすらその影響が見られる。しかしこうした新技術・新傾向の採用がただちに近代建築の成立をもたらしたのではなく,日本もまたヨーロッパと同様,過去の様式の否定の上に新しい造形を築くという生みの努力を必要とした。1910年代はそのような時代であったといえるであろう。ヨーロッパ19世紀の様式の導入に一応は成功したものの,それをみずからの力で発展させるべき内的必然性がなく,むしろ〈西欧化〉の姿勢そのものを問うことが〈近代化〉を推進する力となることがようやくそのころ理解され始めた。すなわち19世紀の様式からの脱却は新傾向の模倣によって可能だったのではなく,模倣からの脱却こそがその原動力であることを発見したのであった。1910年代に岡田信一郎(1883-1932),後藤慶二,高松政雄らはそうした思索を繰り返し,やがてそれは20年の分離派建築会に受け継がれる。
分離派建築会は過去の様式からの分離と決別をうたい,内から湧き出る創造力を賛美する姿勢を明らかにした。この会は東京帝国大学を20年に卒業する学生たちによって発足したが,その若さにもかかわらず,当時の建築界の状況を反映したために広く共感を呼び,その後展開する近代建築運動の先駆となった。日本の近代建築はこうした運動のなかから1930年代に徐々に形成されていく。第2次大戦前の代表的な例として東京中央郵便局(1931,吉田鉄郎),日本歯科医専付属病院(1934,山口蚊象),東京逓信病院(1937,山田守),大島測候所(1938,堀口捨己),慶応義塾寄宿舎(1938,谷口吉郎)などがある。ヨーロッパにおける1920年代の国際様式建築はこうしてほぼ10年ほど遅れて日本でも実現したことになる。しかし同時にそのころ日本は第2次大戦に傾斜しつつあって,近代建築の造られる土壌は急速に衰えていく。戦時中の国粋的風潮のなかで近代化への情熱はひっそくし,わずかに前川国男が懸賞設計で時流に抵抗する姿勢を見せるにとどまった。
近代建築の発展と日本の風土のなかへの定着は第2次大戦後にもちこされる。1950年代にいたって,戦前・戦中に蓄えられたエネルギーが一挙に開花した。日本の近代建築は,戦中・戦後の10年間を空白として,その前後はそのまま結びつくといってよい。戦後の復興期に続く50年代は,30年代のそのままの継続といえるような様相を呈した。経済の高度成長期である60年代にいたって,建築と都市は従来にない速度と規模をもって急速に展開する。それは次のような特色をもつ。第1に,初期の近代建築運動が意図した造形上の変革はすでに終了しており,平均化した近代様式が市街地を埋めつくした。第2に,都市・建築を支える技術の発展がめざましく,超高層ビルの出現,室内気候の人工化など,建築の大型化,複合化,設備化が進展した。第3に,日本の国土はこの時期に大規模開発によって再編成され,都市,郊外,田園のすべてが,従来とは次元の異なる広域的機能をもつ構造に転換した。第4に,前衛的建築家は近代後(ポスト・モダン)を模索し始めるが,近代初期のような連帯感は失われており,それぞれが個別に理想と方法を追求した。戦後60年代までの代表的な建築として,神奈川県立近代美術館(1951,坂倉準三),リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1951,レーモンド),香川県庁舎(1958,高松,丹下健三),東京文化会館(1961,前川国男),国立屋内総合競技場(1964,丹下健三),国立京都国際会館(1966,大谷幸夫),霞が関ビル(1968,山下寿郎設計事務所)などが挙げられよう。
ヨーロッパにおける近代建築は,19世紀までの伝統の継承の上に展開したのではなく,むしろそれからの意識的な断絶を標榜しつつ成立した。生気を失った過去の様式から人間を解放することが近代建築の目標であった。一方日本の場合,明治時代の主要な努力は,ヨーロッパ19世紀の様式建築,すなわちやがて勃興する近代の変革がまさに否定し去ろうとするものを移植することに費やされた。異質の建築文明に接触し,それに同化しようと努力することは,明治の日本にとって希望に満ちた行為であったが,そのような歴史を歩んだために,20世紀における日本の建築の発展の過程で,日本的伝統が固有な影を落とすこととなる。それは次のような理由による。第1に,西欧様式の移植が前近代の日本的伝統に対するなんらの顧慮も評価も伴わずに達成されたこと,すなわち伝統を完全に無視した地点に新しい文明が接木されたこと,そして第2に,近代建築の成立期には日本もまた過去からの〈分離〉をうたうのであるが,その過去というのは,明治時代の移植が創造を伴わない安易な模倣の姿勢に終始したことを指すのであって,ここでも日本的伝統に対してどのように対処するかという視点は欠落したままであったこと。こうしたことの結果として,日本の木造建築の伝統は建築家の意識の外で生き残る一方,近代建築の成立・発展の途上で様式上の行きづまりが自覚されると,日本的個性をよみがえらせるものとして,つねに伝統が想起されるという現象が生じた。1890年代には早くも木造建築の技法によって造られた公共建築が出現する。奈良県庁舎(1895,長野宇平治),日本勧業銀行本店(東京,1899,妻木頼黄)などがそれであって,どちらもヨーロッパ風の配置とブロックの構成を基本にしつつ日本建築の技法とモティーフによって外観を構成したものであった。1910年,建築学会で〈我国将来の建築様式をいかにすべきや〉というテーマで討論会が行われたのは,西欧様式の移植がようやく定着しながらも,将来の様式的発展を展望できない悩みが建築界全体に重くのしかかっていたからにほかならなかった。10年代の新様式模索の段階で,煉瓦造の壁体の上に社寺建築風の屋根をのせたものが試みられる。30年代以降,軍国主義への傾斜が強まるなかで,鉄筋コンクリート造による同種のものが国策を担う造形として推進されていくが,近代建築を標榜する建築家はこうした傾向に強い反感を示した。第2次大戦前,日本の伝統的様式はしばしばこのように奇怪な形で復活したのであった。このような歩みとは別に,一部の建築家によって,日本の木造建築の伝統を継承発展させようとする試みがなされている。それは近代建築の成立期における一つの顕著な傾向であって,空間的性格が近代建築と親近性の強い書院造,数寄屋,庭園の伝統を積極的に評価し,それらの近代における再生を意図したものであった。堀口捨己,吉田五十八,谷口吉郎らはそのような仕事を進め,また33年に来日したドイツの建築家B.タウトは伊勢神宮や桂離宮の造形を賛美して,日本の伝統への注意を喚起した。戦後においても日本的伝統の問題は解決したわけではなく,むしろ60年代の高度経済成長期以後,ポスト・モダンがささやかれるなかでようやく伝統を総体的に見直す動きが現れてきた。伝統に対する評価,継承の方法,近代との妥協などについてはさまざまの主張・立場・方法があり,それはちょうど普遍的様式としての近代建築が各国において定着していく過程で当面せねばならぬ問題の日本的展開とみなすことができる。60年代以降の伝統に対する関心は,民家の造形,民家群や集落の構成・景観,木造建築の細部の技法,構法のシステムなどきわめて多岐にわたっている。これらを通じていえることは地域的・土着的なものに対する関心ということであって,いわば近代建築の普遍性に対置される土着的なものへの希求が基底にあるということであろう。
執筆者:稲垣 栄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また,同じく構法上の理由から,一般に修理がはなはだ困難で,修復するよりも建て替えたほうが手早いと見なされてしまう場合が多い。それにもかかわらず,都市の過密化や経済的理由から近代建築が大いに歓迎され,それによって歴史的建造物や伝統工法が各国で駆逐されているのが現状である。しかし,その近代建築が1世紀前後の耐久力しかないとすれば,これはやがて世界の建築文化と都市文明にとって深刻な結果をもたらすにちがいない。…
…しかし,先進諸国が理想とした議会制民主主義の進展とともに貴族階級が衰退して,建築家は有力なパトロンを失い,また新興の富豪や事業家,官僚はますます実利本位の建築を求めたため,エンジニアの優位は決定的なものとなり,建築家の教育もしだいに技術主義に傾いて今日にいたっている。しかし,近代建築運動が定着するに従って,画一的な近代建築に対する疑問が生じており,伝統的建築との融和や,より穏健で安定した形式,より多様な芸術性が求められるようになったため,建築家の性格や能力についても新たな展開が期待され始めている。
[建築家の任務]
古代の〈大技術家〉,近世の〈大芸術家〉の理想から見て,近代の建築家は,みずからが選んだ建築の機械化および工業化,そして建築業務の専門分化によって,かえって自縄自縛に陥ってしまったように思われる。…
※「近代建築」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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