精選版 日本国語大辞典 「古典主義」の意味・読み・例文・類語
こてん‐しゅぎ【古典主義】
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ヨーロッパにおける芸術様式の一つで、ロマン主義に対する概念。端正な形式美の重視がその特色をなす。
[小林路易]
文学史的にみると、その端緒はルネサンス期における古代ギリシア・ローマ古典への心酔で、これが当時の人々の理性尊重の精神、バロック調(気障(きざ)趣味・戯作(げさく)趣味など)への反発とない交ざって、しだいに方法的に整備され、17世紀文学、ことにフランス悲劇においてもっとも典型的な形で開花した。狭義の古典主義は1630年代から1680年代にかけてのこの最盛期の文学の特徴をさし、悲劇のコルネイユとラシーヌ、喜劇のモリエールを頂点に、寓話(ぐうわ)詩のラ・フォンテーヌ、風刺詩のボアロー、箴言(しんげん)のラ・ロシュフコー、心理小説のラファイエット夫人、書簡のセビニエ夫人、説教のボシュエ、回想録のレー枢機卿(すうききょう)Cardinal de Retz(1613―1679)、やや遅れて風俗観察のラ・ブリュイエール、教育小説のフェヌロンらがこれを代表する。また、やや広義には、この傾向の先駆的詩人マレルブが現れる17世紀初頭からルイ14世の没する1715年ごろまでの文学主潮を、さらに広義には、その準備・生成の時期と凋落(ちょうらく)・崩壊の過程、およびイタリア、イギリス、ドイツなどヨーロッパ各国における同様の志向(擬古典主義など)を含む16世紀から19世紀初頭までの文芸潮流をさす。
[小林路易]
狭義のフランス古典主義はさらに、1660年ごろまでの前期と、それ以後の後期に大別され、若干その性格を異にする。前期の際だった特徴は各ジャンルにわたる文学作法の法則化で、この時代には、アリストテレス、ホラティウスを宗とする16世紀イタリアのビーダMarco Girolamo Vida(1485?―1566)、スカリジェルGiulio Cesare Scaliger(1484―1558)、カステルベトロCastelvetro(1505―1571)らの詩学(創作論)の継承・発展と体系化・教条化が熱心に行われた。シャプラン、ドービニャック、メーレ、ラ・メナルディエールHippolyte Jules de La Mesnardière(1610―1663)ら、当時のいわゆる「博学の士」によって主唱され、のちにボアローの『詩学』(韻文、1674)に集大成される古典主義理論の骨子は、おおよそ次のようなものである。
(1)古代ギリシア・ローマの傑作は不朽の手本であり、これをよく学び、そこから帰納的に引き出した諸法則にのっとって創作することによって名作が生まれる(古典模倣)。
(2)文学は民衆をひきつけ楽しませると同時に、それを教育し矯正するものでなければならない(効用主義)。
(3)万人が共有する理性に従うこと。個人的な感性や想像力は理性によって統御され、類型化されなければならない(普遍主義)。
(4)文学の描き出す世界は理性に照らして真実でなければならないが、自然そのものを写すのではなく、真実らしくみえるように描くことがたいせつである(真実らしさの重視)。
(5)読者・観客の哲学的、宗教的、道徳的、社会的、儀礼的な理想に抵触してはならない。いかなる場合も粗野であってはならない(よい趣味との合致)。
(6)民衆の関心をそそるため、超自然的な意想外の事柄を扱い、陳腐に陥らないようにする。ただし、怪奇やキリスト教の奇跡は不可(驚異の重視)。
(7)悲劇と喜劇、叙事詩と牧歌など、文学ジャンルを混用したり、中間的ジャンルを用いたりしてはならない(ジャンルの峻別(しゅんべつ))。
(8)古語・俗語・外国語を避け、純正なフランス語を用いること。表現は論理的で簡潔・平明であるとともに、優雅で均整のとれたものでなければならない(洗練された文体)。
(9)作詩法に無理があってはならない。ことに、母音の衝突、不完全な押韻、理不尽な「句またぎ」などを避け、音の諧調(かいちょう)を重んじること(詩法の純化)。
(10)作品を評価するのは博学の士の役目であり、一般大衆の嗜好(しこう)や愚かな批評に左右されてはならない(批評家の権威)。
以上のような一般的な法則に加えて、各文学ジャンルごとにさまざまな細則が定められたが、当時もっとも高位のジャンルとされていた悲劇については制約がことのほか厳しく、さらに徹底して、次のような諸細則が適用された。
(1)悲劇の題材は史実または伝説からとり、現代を扱ってはならない。当代の風俗は喜劇で扱う(題材の制約)。
(2)主役は英雄、王侯貴族、神話の神々などであること(登場人物の制約)。
(3)恋愛はいたずらに美化せず、人間の弱点として描くこと(恋愛観の制約)。
(4)立ち回り、殺傷など生々しい事件そのものは舞台上に出さず、相手役や「腹心」(腰元、乳母(うば)、家庭教師など)に語る形式か独白による(見せ場の制約)。
(5)結末はいずれかの主役の死によって終わる(大団円の制約)。
(6)すべての悲劇は韻文5幕とする(構成の制約)。
(7)笑いを誘う要素はすべて排除する(喜劇との峻別)。そして、古典主義理論中もっとも有名な「三統一の規則(三単一の規則)」。
(8)時の経過が太陽の一巡(24時間)以上にわたってはならない(時の統一)。
(9)全幕が一つの場所、少なくとも一つの宮殿内、一つの市内、一つの島内に設定されなければならない(場所の統一)。
(10)興味を一つの精神的事件に集中するため、筋の展開を一本に絞り、脇(わき)筋があってはならない(筋の統一)。
こうした作劇法の生成期にコルネイユの悲喜劇『ル・シッド』(1636)が大当りしたが、ライバルの劇作家たちは、嫉妬(しっと)も手伝って、さまざまな法則違反を指摘してこれを攻撃、調停役のアカデミー・フランセーズまでが批判者の側にたつ騒ぎとなった。コルネイユはこれを不服として数年間沈黙を守るが、時流には抗しえず、やがて法則を完全に順守した作品を書くようになる。
[小林路易]
1660年から1687年ごろにかけての後期は、文字どおりフランス古典主義の絶頂期で、ラシーヌ、モリエール、ラ・フォンテーヌらの傑作が陸続と出そろう。この時代になると、前期の規則最優先から「良識」優先の考え方に変わり、規則を踏まえながらもそれに隷属せず、むしろそれを自家薬籠(やくろう)中のものとして真の人間像を緩急自在に生き生きと描くようになった。
ことにラシーヌは『アンドロマック』(1667)、『ブリタニキュス』(1669)、『フェードル』(1677)などで崇高美の極限を究め、一つの駄作も残さなかった。ただしバレリーもいうように、その完璧(かんぺき)とも称しうる美文の諧調は、フランス語を母国語とする者以外には鑑賞し尽くせぬうらみなしとしない。フランス文学史上空前絶後の大雄弁家とされるボシュエの『追悼演説』(1669~1687)またしかり。その点、「古典主義の教科書」と称されるボアローの『詩学』は全欧で広く読まれ、イギリスではポープが、ドイツではゴットシェットが、スペインではルサンIgnacio Luzàn(1702―1754)が、イタリアではベッティネルリSaverio Bettinelli(1718―1808)が、ロシアではトレジャコフスキーが、それぞれその紹介ないし祖述者となった。しかしこれまた、18世紀啓蒙(けいもう)主義の時代的要請と各国の文学的状況や言語体系の違いから、そのままでは定着せず、むしろ多くの反撃にあい、大幅な換骨奪胎を余儀なくされて、各国独自の文学純化運動を覚醒(かくせい)させる契機となるにとどまった。ゲルマン古典主義者のレッシングが大の反ボアローであったことは、この間の消息をよく物語る。これに反し、モリエールの『タルチュフ』(韻文、1664)、『守銭奴』(散文、1668)、『町人貴族』(散文、1670)などの喜劇や、ラ・フォンテーヌの『寓話詩』(1668~1694)、ラファイエット夫人の先駆的な心理小説『クレーブの奥方』(1678)などは、つとに世界の古典として広く親しまれ、後世に与えた影響も大きい。
フランス古典主義は政治上の絶対主義王制と時期的にも発想的にも軌を一にする側面をもち、それはすなわちギリシア・ローマの古典を普遍的な永遠の美の典型として疑わないという確信であったが、1680年代中葉から、当代の作家・詩人は古代人に十分匹敵しうるという歴史的相対主義の考え方がおこってこれと衝突し、この「新旧論争」(1687~1716)を契機に古典主義は内部崩壊して凋落期に入る。そして文学史上は、1830年、ユゴーの『エルナニ』の上演で鉄槌(てっつい)が下ったとされる。確かにこのとき、古典主義は時代の流れとしての主流の座をロマン主義に明け渡した。しかしそれは、かならずしも古典主義が完全にこの世から葬り去られたことを意味しない。ロマン主義は相対主義、多極主義である。正しくいうなら、このとき、古典主義はむしろ逆に文学の二大潮流の一つとしての生命を得たのであった。そして、古典主義全盛期の栄光もまた万古不滅のものとなった。このことは、文学よりも絵画や音楽における古典主義の栄光をみればよくわかる。
[小林路易]
一方、端正・崇高なものへの志向、そしてそれが最高の水準に達した古代へのあこがれという意味での広義の古典主義は、フランスのそれと、あるいは有縁に、あるいは無縁にさらに広く分布し、一見相反するロマン主義文学のなかにさえ、抜きがたい文芸基盤を提供している。ロマン主義から古典主義へ回帰したドイツのゲーテ、シラーをはじめ、フランスではボルテールを経てルコント・ド・リール、アナトール・フランス、クローデル、ジッド、ラディゲらに、イギリスではB・ジョンソン、ドライデン、ポープからS・ジョンソン、アーノルドを経て、T・E・ヒューム、T・S・エリオットらに、そして、西洋古典を東洋の古典に置き直せば、日本や中国の文学についても、その至る所に、われわれはこうした美学的理念としての古典主義が揺曳(ようえい)しているのをみることができる。
[小林路易]
古代ギリシア美術の古典期は紀元前480~前330年をいい、ヘレニズム末期のギリシアおよびキリスト降誕前後1世紀のローマに、すでに古典回帰の傾向が認められる。またイタリアの建築家アンドレア・パッラディオは、古代ローマ建築を研究して古典復古の先駆をなした。しかし特定の歴史現象としては、18世紀後半から19世紀前半にかけてヨーロッパに展開された芸術理念および様式をさしていうのが普通である。その特色は、秩序ある簡素な形式と、調和と均衡にたつ冷静で明確な表現の尊重、対象の類型的本質を強調することによる現実の浄化にあり、劇的な表現を重んじるバロックや、装飾に富むロココ様式に対抗し、個性尊重を軸とするロマン主義に鋭く対立してその反対概念をなした。造形芸術では、とくに明晰(めいせき)な輪郭、形象の立体的肉づけ、均整のとれたコンポジションなどによって人間性の尊厳を示すことが重視された。
[野村太郎]
建築では、18世紀中葉のポンペイ、ヘルクラネウム、パエストゥムなどの発掘が刺激となり、ルネサンスの建築書に頼らず古代建築を直接手本にしようとする傾向が、フランスとイギリスの建築家や考古学者によってローマを中心に推進された。サント・ジュヌビエーブ聖堂(パンテオン)を設計したフランスのジャック・G・スーフロー、その弟子ジャン・B・ロンドレJean Baptiste Rondelet(1743―1829)、イギリスのロバート・スマークらはこの傾向を代表する。またベルリン宮、サン・スーシー宮の各室を設計したドイツのフリードリヒ・W・v・エルトマンスドルフFriedrich Willhelm von Erdmansdorf(1736―1800)、「国立劇場プランニング」で名高いフリードリヒ・ギリーFriedrich Gilly(1722―1800)は古典主義の先駆者で、その理念はカール・F・シンケル、ミュンヘンのピナコテークを設計したレオ・v・クレンツェLeo von Klenze(1784―1864)によって継承された。またデンマーク生まれでウィーンに活躍したテオフィラス・E・ハンゼンTheophilus Edvard Hansen(1813―1891)の名も逸することができない。
[野村太郎]
彫刻では、イタリアのアントニオ・カノーバ、デンマーク出身ながらローマ生まれを自称したベルテル・トルバルセンを筆頭に、北ドイツ生まれでローマに死んだアスムス・J・カルステンスAsmus Jakob Carstens(1754―1798)、ドイツのヨハン・H・ダンネッカー、ゴットフリード・シャドーらがいる。
[野村太郎]
絵画では、17世紀にローマにあって古典主義を先取したニコラ・プサンがいるが、思潮としてはフランス革命に続くナポレオンの出現をまたなければならなかった。ルイ王朝の優雅・放逸にかわって厳粛・荘重を求める時代の空気、ヨハン・J・ウィンケルマンの鼓吹した古典美学の影響、ナポレオンの古代ローマへのあこがれを背景として、古典主義絵画はフランスで全盛を迎えるが、その代表的な画家はジャック・L・ダビッドであった。その門下からアンヌ・L・ジロデ、フランソア・P・ジェラールFrançois Pascas Gérard(1770―1837)、アントアーヌ・J・グロを出したが、彼らは同時代の彫刻家ジャン・A・ウードン、オーガスタン・パジューAugustin Pajou(1730―1809)と同様、当初の精神を失った擬古典主義pseudoclassicismを形成したにとどまった。ダビッドの真の後継者はドミニック・アングルで、彼は古典主義絵画の完成者として、若いウージェーヌ・ドラクロワのロマン主義と鋭く対立しつつ、フランス絵画の一潮流を形づくった。ダビッド以後の古典主義を、プサンの時代と区別して新古典主義Neoclassicismとよぶこともある。
なお、同時期のドイツ絵画では、アントン・R・メングスおよびアンジェリカ・カウフマンAngelika Kauffmann(1728―1779)がいるが、2人とも制作の実り多い時期をローマで過ごし、祖国への影響は弱い。
[野村太郎]
『ボワロー著、丸山和馬訳『詩学』(1934・岩波文庫)』▽『小場瀬卓三著『古典主義』(1957・三一書房)』▽『吉江喬松著『仏蘭西古典劇研究』(1931・新潮社)』▽『太宰施門著『仏蘭西古典悲劇の形成』(1942・甲鳥書林)』▽『小場瀬卓三著『仏蘭西古典喜劇成立史』(1948・生活社)』▽『ソーニエ著、小林善彦訳『十七世紀フランス文学』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ヴェルフリン著、守谷謙二訳『古典主義美術――イタリア・ルネサンス序説』(1962・美術出版社)』▽『パリゼ著、田中英道訳『美術名著選書19 古典主義美術』(1972・岩崎美術社)』▽『サマーソン著、鈴木博之訳『古典主義建築の系譜』(1976・中央公論美術出版)』
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ギリシア・ローマの文化を理想とし,その完全な形式美,調和美,格調の高さを再現しようとする芸術上の傾向。文学上ではフランスにおいては17世紀,イギリスでは17世紀末から18世紀中期前半,ドイツでは18世紀中期から19世紀初めに盛んであった。美術上ではこの古代憧憬の風潮を受けて,18世紀末から19世紀初頭にかけ,華麗なロココ様式を退けて明快,簡素な美が追求された。音楽上の古典主義は古代への復帰を意味せず,ハイドン,モーツァルト,バッハを音楽史上の古典と考えて古典派と呼ぶ。
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…これ以降イタリアは,古典古代と人文主義の記念碑的存在となった。新古典主義,ロマン主義のいずれもが,西欧・ラテン文明の象徴としてイタリアを一個の博物館と見るようになったのである。イタリア自身もアカデミー発祥の地として,過去の権威を守るアカデミズムの伝統を保つこととなる。…
…特にイタリア・ルネサンスは絵画や彫刻のモティーフに古代美術の理想化されたアポロンやビーナス像を好んで取り上げたばかりでなく,ミケロッツォやL.B.アルベルティ,さらに16世紀のパラディオらの建築においても古代建築の復活が見られる。このような古典古代への志向は17,18世紀ヨーロッパにおいて著しい発展をみ,いわゆる古典主義を生んだ。絵画ではJ.L.ダビッド,プリュードン,アングル,彫刻ではカノーバやトルバルセン,建築ではシンケルらが出て,古代ギリシアやローマ美術を模した優雅で気品のある作品を残した。…
… しかし17世紀を全体としてみれば,三十年戦争の戦場になったことで,ドイツの文化的な発展はひじょうに遅れた。フランスで古典主義演劇の確立されたこの時期に,ドイツでは旅回り劇団が存在するにすぎず,ウィーンではシュトラニツキーを祖とする道化を中心とした民衆劇やハウプト・ウント・シュターツアクツィオーネンHaupt und Staatsaktionen(道化入りの国事劇)が盛んになったが,文学的な価値をもつものとしては,比較的戦乱の災禍をうけなかったシュレジエンの劇作家A.グリューフィウスの作品と,M.オーピッツの詩論が挙げられるにすぎない。
[18世紀]
18世紀に入っても,西欧各国のなかでドイツ演劇の後進性は明らかであったが,啓蒙時代の風潮のなかでライプチヒの大学教授J.ゴットシェートが,ノイバー夫人一座の協力で,演劇改良運動にのりだした。…
…当時のパリの唯一の常設劇場で受難劇組合の所有だったブルゴーニュ館劇場(日本では〈ブルゴーニュ座〉と通称)の笑劇トリオ(ゴーティエ・ガルギーユGaultier‐Garguille(1572?‐1633),グロ・ギヨームGros‐Guillaume(?‐1634),チュルリュパンTurlupin(1587?‐1637))の成功や,ポン・ヌフ広場のタバラン兄弟の滑稽(こつけい)寸劇に代表される大道芸にそれはうかがえる。
【17世紀――古典主義の成立と展開】
しかし17世紀初頭にアルディAlexandre Hardy(1570ころ‐1632ころ)がブルゴーニュ座座付作者として成功したことは,筋の展開も豊かで劇的葛藤に富む〈悲喜劇(トラジ・コメディ)〉や〈田園劇(パストラル)〉といった新しい〈戯曲の上演〉が時代の好みとなったことを示している。1634年には,マレー地区の掌球場(ジュー・ド・ポーム)を改装したもう一つの劇場がマレー座として常設小屋となる。…
…そのほか近代の散文の確立に寄与したといわれるカルバン,イタリア風の物語の形式のもとで愛のかたちを探ったマルグリット・ド・ナバールの名も,それぞれ16世紀文学のある側面を示すものとして記しておくことにしたい。
[古典主義の開花とモラリストの文学]
17世紀の初めは動乱の時代の延長であり,かつて宗教戦争の渦中で戦ったドービニェが,風刺,幻想を盛りこんだ詩を書いたりした時代である。ドービニェのなかにも,奔放な感情の高揚,変幻変動するものの重視,劇的な誇張の偏愛などで特徴づけられる〈バロック〉の詩人は少なくない。…
…それと同時に,もしセザンヌの晩年の作品とティツィアーノの晩年の作品との間にある共通する表現上の特色が認められるとすれば,時代,地域,個人を超えて,芸術家の〈晩年の様式〉について語ることも可能である。ギリシア美術についても,ルネサンス美術についても,あるいはセザンヌの作品についても〈古典主義的様式〉が問題となるのはそのためである。 もともと西欧語において,スタイルstyle(英語),シュティールStil(ドイツ語),スティールstyle(フランス語)は,〈鉄筆〉を意味するラテン語stilusに由来し,それゆえに,鉄筆で書かれた文章の表現上の特色,すなわち〈文体〉を意味するようになった。…
…
[ドイツにおけるロマン派演劇]
演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテ,シラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。…
※「古典主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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