文学の上で,ロマン主義に対立する表現形態を指すものとして,19世紀初頭のヨーロッパで定着して用いられるようになった言葉。古代ギリシア・ローマの優れた作品を古典(クラシック)すなわち規範としてそれにならおうとする態度であり,その最も豊饒な成果は17世紀後半のフランスに見いだされる。しかし後代が〈古典主義〉の作家とみなす作家が,みずから古典主義を標榜したわけではない。文学史上の時代区分では,古典主義はロマン主義と対立するだけではなく,みずからに先行するものとしてバロックとも対比される。このような歴史概念としての古典主義は,文学・演劇と造型芸術と音楽との間で,同じ時代に同じように現れたわけではない。さらには,事を文学に限っても,ヨーロッパ文化の内部で,その現れ方も現れる時代も一様ではない。また,このような歴史概念から抽象された美学的概念ないし理念としての古典主義のとらえ方もあり(これはロマン主義やバロックにも言える),その観点に従えば,古代ギリシア・ローマの古典にならって成立した作品(たとえば17世紀フランス古典主義戯曲)と共通の美学的特長を,時代や地域を超えて認める考えも成り立つわけである。ともあれそのような文学理念としての古典主義の特長は,均整のとれた隙のない構成と,品位ある明解な言葉と,典型的な主題・状況・人物設定によって人間の普遍的な真実の表現を目ざすものだと,一応は言っておくことができる。
ヨーロッパの文学において,古典主義が一国の文化の精髄を表すとみなされるほどの力と完成に達したのは17世紀フランスをおいてなく,しかもその代表的なジャンルは劇文学,しかも悲劇であった。確かにスペイン黄金時代の劇作家ローペ・デ・ベガやカルデロン・デ・ラ・バルカにも古典主義的要素は認められるし,イギリスでは,B.ジョンソンを先駆とし,J.ドライデンによる古典主義的詩法の確立を介して,18世紀に至りA.ポープを中心とする〈オーガスタン時代〉の出現を見る(ホラティウスにならう風刺詩,書簡詩など)。また,ドイツでは,18世紀に,フランス啓蒙思想と結びついて古典主義が導入され,J.ゴットシェートがその理論家となったが,優れた作品としては,〈シュトゥルム・ウント・ドラング〉の時代を経た後,ゲーテの戯曲《タウリスのイフゲーニエ》やシラーのいくつかの作品を生むにとどまる。このようなヨーロッパ各文化による差異の状況は,一方では17世紀フランス古典主義文学だけが実現した美的完璧と,他方ではそのような作品を成立させ得た歴史的要因の特殊性によると思われる。
17世紀初頭,詩人F.deマレルブに代表される語法・作詩法における明解さ・簡潔さ・正確さ・節度の要求は,古典主義成立の最も重要な事件であったが(のちに詩人N.ボアローは〈ついにマレルブ来たれり〉と歌う),それは16世紀後半のフランスを分断した新旧両徒間の戦いである宗教戦争の時代に生まれたバロックの,主題と表現における過剰さへの反動であった。宗教戦争の終結後,王位についたルイ13世の治下で,宰相・枢機卿リシュリューは,統一国家としての秩序と調和への意志を,政治,経済,文化のあらゆる局面における中央集権体制の確立によって果たそうとする。その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595-1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿 J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。1657年刊のドービニャック師François Hédelin,Abbé d'Aubignac(1604-76)の《演劇作法Pratique du théâtre》は古典主義の規範文書となるが,それに対する反論としてコルネイユは3編の論考を書き(《劇詩論》《悲劇論》《三統一論》),実作者の立場から規則議論を活かそうとした。喜劇はアリストテレスの《詩学》に欠損していることもあって,悲劇よりは自由であったが,規則議論が劇文学の質を急激に高めていく動きの中で,とくにモリエールによって悲劇に拮抗し得る優れた文学ジャンルとなる。こうして1664年にラシーヌが《ラ・テバイッド》で劇壇に登場するときには,すでに悲劇を代表とする劇文学の分野では,のちに古典主義美学と称せられるものの公準と規則はほぼ確立していたが,ラシーヌはそれを自由な発想に対する桎梏(しつこく)とは受けとらず,それを自由に駆使したばかりか,ときにはそれを逆手にとって,ラシーヌ固有の見事な悲劇的世界を構築した。1674年のN.ボアローの《詩法》は,そのような半世紀にわたる詩人,作家たちの実践を整理して,一つの美的公準の言説を作ったものであり,後代に対して古典主義美学の要約として果たした役割は大きい。ラシーヌの友人であるJ.deラ・フォンテーヌの《寓話》や,散文の領域ではJ.B.ボシュエの《追悼演説》,そしてラ・ファイエット夫人の小説《クレーブの奥方》が,劇文学以外の領域での古典主義の記念碑とされる。18世紀には,フランス古典主義は全ヨーロッパ的規模で新しい規範=古典となったし,ボルテールはある意味でその代弁者であったが,ラシーヌ悲劇に匹敵しうるものはついに作られなかった。
フランス古典主義演劇(古典主義文学)の特徴を要約すれば,次のようになるだろう。古代ギリシア・ローマの作家たちにおいて認められると考えられた〈秩序〉と〈調和〉への意志を規範とし,万人に等しく分かち与えられているはずの〈理性〉(デカルトの説く〈良識(ボン・サンス)〉)に照らして“自然な”表現の構造体を創造することによって,読者,観客に知的・感覚的楽しみを与えることを目的とし,そのような〈自然なもの〉の形成のためには最低不可欠の条件として守るべき〈規則〉を追求する志向だ,と。たとえば〈悲劇〉について(すでに述べたように悲劇こそこの時代の演劇と劇文学にとってのみならず,文学全体の中で最も典型的で高貴な形式だった)劇的虚構の場としては,神話的あるいは歴史的古代を選び,日常性の卑近さを排する。崇高な思考と感情を表現するのは洗練された分節言語であり,殴打,殺傷をはじめとする生々しい身体行動の介入を避ける。悲劇の言葉は韻文であり,その大部分は〈アレクサンドランalexandrin詩句〉(もともと12世紀の武勲詩《アレクサンドル大王物語》に使われたもの)と呼ばれる12音節定型詩句であるが,この詩型についても作詩上のさまざまな規則が言語的明解と洗練の名において立てられる(たとえば12音節を6音節目で区切る〈半行詩(エミスティッシュ)〉の原則や〈詩句の跨り(アンジャンブマン)〉についての禁止事項,脚韻の約束等々)。劇作術の上では,約1700行の韻文を全5幕に過不足なく配分するのだが,その際〈三統一の規則〉が至上権をふるう。すなわち,単一の場所で,太陽の一巡(最終的には夜明けから日没まで)という単位時間内に,一つの主筋へと有機的に統合された筋をもつまとまりのある一つの劇的事件が展開されねばならない。この原理が活かされるためには,理性に照らして自然に見える〈真実らしさ(ブレサンブランス)〉つまり劇行為の内的必然性が不可欠であり,またそのような虚構の納得性を保証するものとして読者・観客の〈趣味〉(美的判断)との合致,すなわち〈適切さ(ビアンセアンス)〉が配慮されなければならない。〈悲劇〉と〈喜劇〉という二大ジャンルの峻別も,〈真実らしさ〉と〈適切さ〉の原理を介して,同時代の社会的・文化的階層性に照応している(〈悲劇〉は単に悲壮な物語ではなく,個人の運命と天下国家の運命とが相関的であるような人物,つまり王侯に起こる事件であり,それに対して〈喜劇〉は主として町民階級の日常性を主題にする)。
このように記述すると,17世紀のフランス人が理性に照らして自然と見たものは,きわめて人工的な構築物の印象を与える。しかし,コルネイユの英雄たちの偉大さと栄光を求める超人的な意志の劇にせよ,モリエールのしくむ人間の弱みの剔出(てきしゆつ)・分析そのものの演劇化にせよ,ラシーヌ悲劇の人間をとらえて放さずその破滅へと導く恋の情念にせよ,劇的虚構の訴えかける力はきわめて強い。それは単に溢れる力に桎梏(しつこく)をはめることによって強度が凝縮されたという以上の何物かであり,おそらくフランス古典主義における言語のあり方にかかっていると思われる。
哲学者のM.フーコーはその《言葉と物Les mots et les choses》の中で,彼が〈古典主義の時代〉と呼ぶ17~18世紀を特徴づける最も重要な選択として,分節言語が他のあらゆる表徴(シーニュ)に代わって,意味表象の自立した体系になった事を挙げている。16世紀のように分節言語と並んで森羅万象が言葉を語っていた地平とは異なり,分節言語がすべてに代わって,すべてを表すことができると考えられるようになったのだと。この命題は,劇場における劇文学の君臨の始まり,演劇を構成する諸要素の中での言葉(分節言語)の優位を理解するには有効な鍵である。理性といい良識というのも,言葉の正しい使い方と不可分でありそれと相関的ですらあったが,それは言いかえれば,言葉が新しい自由の場だったという体験である。事実,17世紀フランスの作家を前世紀とはっきり区別するものは,その重要な部分が町人階級(ブルジョアジー)の出身だったということだ。初めは,コルネイユやJ.deロトルーに代表されるように都市の法曹階級であり,その言葉は法律の,法廷の弁証の言葉だったし,売官制度によって貴族の地位を手に入れて〈法服貴族〉と呼ばれる階層が,帯剣貴族に対して中央集権的絶対王政確立に果たす役割は大きかった。モリエールと,そしてルイ14世親政下の新官僚組織の頂点に立つコルベールとが,ともに商業階層の出であることは,記号と権力の経済学を考える際に思い出しておくべきことである。つまり絶対王政とは,帯剣貴族の旧権力と,新興町民階級の権力への渇望とをともに新しい中央集権的権力構造の内部に取り込んでしまうものであって,太陽王という中心に君臨する神格とそれを支える強力な官僚組織が,社会のさまざまな矛盾する力を秩序と調和へと統合していたのである。
言葉によってすべてが表現できるというフランス古典主義文学の基底的了解も,このような政治的・社会的コンテクストにおいて意味をもつ。リシュリュー以来の文化政策の根幹が国語としてのフランス語の統一と洗練にあったように,芸術表現においてもフランス語という分節言語こそがすべての言語態に立ちまさる統一的媒体となった。それが一部知的選良のサロンで純粋詩のようなものとなる代りに,単に宮廷だけではなく,宮廷をも巻き込んで,町民階級を中心とする無名の群集に呼びかける演劇とその劇場とをみずからの舞台としたことは,この言葉中心主義の文化の戦闘的でもあり解放者的でもある様相を雄弁に語っている。しかし4分の3世紀にわたる芸術上の一大変革であった古典主義文学は,その統一と完璧への意志を活性化していた矛盾の劇的均衡が失われると同時に,18世紀にはすでに神格化され,やがて不毛で形骸化した抑圧制度として否定の対象となる。しかしその体験は,近代フランス語の確立とあまりにも深く関わり,かつそのようなものとして教育の場に継承されてきたから,20世紀の現在に至るまで,フランスの文化的アイデンティティの根拠として,つねにフランスの文化の地平に立ちはだかっている。
→フランス演劇
執筆者:渡辺 守章
美術における〈古典主義〉は,(1)完成された手本,ないしは規範としての美術という美学的概念として,(2)安定性,合理性,永遠性,統一性等を表現上の特色とする様式概念として,(3)このような特色をもった美術史上のある時代,流派,作品等を示す歴史概念として,の三つの側面をもっている。この3者は,互いに密接に関連しており,しばしば重なり合う。例えば,前5世紀のギリシアの美術(フェイディアス,ポリュクレイトス等)は,古代ギリシア美術の〈古典主義(クラシック)時代〉にあたるとともに,部分と全体の調和統一,理想的な人体比例,完成された表現等のゆえに〈古典主義様式〉の代表例でもあり,それ以後の美術,とくにルネサンス期以降のヨーロッパ美術において,最高の範例と考えられた。
まず,規範としての〈古典〉という考え方は,すでに古代においても見られるが,とくにルネサンス期の古代復興運動以降,19世紀に至るまで,ヨーロッパ美術を強く支配する理念となった。その結果,芸術家たちの活動や作品の評価に大きな影響を与えた多くの理論書が書かれ,明確な価値の序列が形成された。バザーリは,その《芸術家列伝》(1550,1568)の序論において古代芸術を高く称揚し,シャンブレーRoland Chambray(フレアール・ド・シャントルーR.Fréart de Chantelou,1606-73)は《古代建築と近代建築の平行関係について》(1650)によって,フランス古典主義理論の最初の基礎を置いた。18世紀におけるウィンケルマンの《ギリシア芸術模倣論》(1755)も,そのような規範的美学の展開において大きな役割を果たした理論の一つである。この規範的美学はアカデミーの制度やその教育理念の支えとして,社会的影響力もきわめて大きかった。
第2に,様式概念としての古典主義は,19世紀以降の美術史学の発展の歴史のなかで,とくにバロックとの対比において,しだいに明確な内容を与えられるようになってきた。ウェルフリンは,その《美術史の基礎概念》(1915)において,〈古典主義〉と〈バロック〉の様式上の特質を,〈線的と絵画的〉〈平面性と奥行性〉〈閉ざされた形式と開かれた形式〉〈多様性と統一性〉〈絶対的明瞭性と相対的明瞭性〉の5項の対概念によって分析,それぞれ前者を古典主義の,後者をバロックの特色であるとした。ウェルフリンはこの分析を,16世紀(古典主義)と17世紀(バロック)の建築,絵画,彫刻について行ったが,フォシヨン(《形体の生命》1934)は,それをさらに発展させて,〈アルカイク様式〉から〈古典主義様式〉を経て〈バロック様式〉へと展開していく一般的な様式発展のなかに位置づけた。これにより,古典主義は,限られた地理的,時代的枠組みのなかだけにとどまるものではなく,ある一定の様式上の特質を備えたあらゆる美術に適用される概念となった。中世ゴシックの〈古典主義〉とか,日本仏教美術の〈古典主義時代〉とか,さらにはセザンヌの〈古典主義様式〉などと言われる場合がその例で,いずれも,安定した秩序,完成された表現,節度ある調和等を共通の特色としている。
第3に,歴史概念,ないしは時代概念としての古典主義は,前5世紀のギリシア,16世紀の盛期ルネサンス,17世紀のフランスの美術についてもっぱら用いられる。とくに,同時代の古典主義文学との対比と,多くの芸術理論や強力な社会制度に支えられたその影響力の大きさとのゆえに,フランスの古典主義にこの概念が適用される場合が多い。
ギリシアの古典主義美術は,絵画遺品がほとんどないため,もっぱら建築,彫刻の分野に限られるが,前5世紀中葉,ペルシア戦争後のいわゆるペリクレスの時代のアテナイにおいて,最も完成された成果を見せた。フェイディアスを総指揮者とするパルテノンの神殿の建築および彫刻装飾や,理想的な人体比例の規準を確立したとされるポリュクレイトスの作品(《槍持つ人》,模刻)などがその代表的例である。ポリュクレイトスよりもさらに優美な人体比例を特色とするプラクシテレスやリュシッポスの活躍した前4世紀を,〈古典主義時代後期〉と呼ぶこともある。
ルネサンス期の古典主義美術は,16世紀初頭,ユリウス2世とレオ10世治下のローマを中心として完成された。もっとも,すでに15世紀末にレオナルド・ダ・ビンチは《最後の晩餐》において,完璧な空間構成と鋭い心理的洞察に基づく的確な人体表現によって,みごとな古典主義絵画を実現しているし,同じく15世紀末のミケランジェロのサン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》も,彫刻における古典主義を代表するものである。絵画においては,さらに,ユリウス2世の命によるミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画と,ラファエロのバチカン宮殿〈署名の間〉ほかの壁画装飾(《アテネの学園》等)が最も重要であり,建築では,同じころに活躍したブラマンテ(テンピエット等)がその代表者である。
ラファエロの死(1520)後,ルネサンス美術は,マニエリスムへと大きく変質していくことになるが,盛期にルネサンス時代に確立された古典主義は,その後も長いこと,芸術の規範としての権威を保ち続けた。16世紀末,ボローニャでA.カラッチがアカデミーを創設して古典主義の復興を試み,レーニ,ドメニキーノなどを生み出したが,長くは続かず,古典主義は17世紀のフランスに移植されて大きな成果をもたらした。建築では,S.deブロス,F.マンサール,彫刻ではジラルドンなどがその成立に貢献したが,とくに絵画において,ル・シュウール,G.deラ・トゥール,ル・ナン兄弟,それにバロックの中心であったローマでもっぱら活躍したN.プッサン,クロード・ロランなどによって,深い精神性と静謐な調和に満ちた絵画様式が,しだいに形づくられていった。なかでも,30歳以降のほとんどの時期をローマで過ごしたプッサンは,初期にはバロック的傾向も強く残していたが,やがて古代の思い出と,厳しい構成感覚とがみごとに融け合った堂々たる古典主義様式(《アルカディアの羊飼い》等)を完成した。このプッサンの影響の下に,C.ル・ブランは,コルベールによって創設された絵画アカデミーの指導者として,ベルサイユ宮殿などで華やかな古典主義美術を発展させた。なお,17世紀フランスには,デュフレノアCharles Alphonse Dufresnoy(1611-68)の《絵画論》(1668)ほか,古典主義の美学を説いた理論書も多い。
→新古典主義
執筆者:高階 秀爾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパにおける芸術様式の一つで、ロマン主義に対する概念。端正な形式美の重視がその特色をなす。
[小林路易]
文学史的にみると、その端緒はルネサンス期における古代ギリシア・ローマ古典への心酔で、これが当時の人々の理性尊重の精神、バロック調(気障(きざ)趣味・戯作(げさく)趣味など)への反発とない交ざって、しだいに方法的に整備され、17世紀文学、ことにフランス悲劇においてもっとも典型的な形で開花した。狭義の古典主義は1630年代から1680年代にかけてのこの最盛期の文学の特徴をさし、悲劇のコルネイユとラシーヌ、喜劇のモリエールを頂点に、寓話(ぐうわ)詩のラ・フォンテーヌ、風刺詩のボアロー、箴言(しんげん)のラ・ロシュフコー、心理小説のラファイエット夫人、書簡のセビニエ夫人、説教のボシュエ、回想録のレー枢機卿(すうききょう)Cardinal de Retz(1613―1679)、やや遅れて風俗観察のラ・ブリュイエール、教育小説のフェヌロンらがこれを代表する。また、やや広義には、この傾向の先駆的詩人マレルブが現れる17世紀初頭からルイ14世の没する1715年ごろまでの文学主潮を、さらに広義には、その準備・生成の時期と凋落(ちょうらく)・崩壊の過程、およびイタリア、イギリス、ドイツなどヨーロッパ各国における同様の志向(擬古典主義など)を含む16世紀から19世紀初頭までの文芸潮流をさす。
[小林路易]
狭義のフランス古典主義はさらに、1660年ごろまでの前期と、それ以後の後期に大別され、若干その性格を異にする。前期の際だった特徴は各ジャンルにわたる文学作法の法則化で、この時代には、アリストテレス、ホラティウスを宗とする16世紀イタリアのビーダMarco Girolamo Vida(1485?―1566)、スカリジェルGiulio Cesare Scaliger(1484―1558)、カステルベトロCastelvetro(1505―1571)らの詩学(創作論)の継承・発展と体系化・教条化が熱心に行われた。シャプラン、ドービニャック、メーレ、ラ・メナルディエールHippolyte Jules de La Mesnardière(1610―1663)ら、当時のいわゆる「博学の士」によって主唱され、のちにボアローの『詩学』(韻文、1674)に集大成される古典主義理論の骨子は、おおよそ次のようなものである。
(1)古代ギリシア・ローマの傑作は不朽の手本であり、これをよく学び、そこから帰納的に引き出した諸法則にのっとって創作することによって名作が生まれる(古典模倣)。
(2)文学は民衆をひきつけ楽しませると同時に、それを教育し矯正するものでなければならない(効用主義)。
(3)万人が共有する理性に従うこと。個人的な感性や想像力は理性によって統御され、類型化されなければならない(普遍主義)。
(4)文学の描き出す世界は理性に照らして真実でなければならないが、自然そのものを写すのではなく、真実らしくみえるように描くことがたいせつである(真実らしさの重視)。
(5)読者・観客の哲学的、宗教的、道徳的、社会的、儀礼的な理想に抵触してはならない。いかなる場合も粗野であってはならない(よい趣味との合致)。
(6)民衆の関心をそそるため、超自然的な意想外の事柄を扱い、陳腐に陥らないようにする。ただし、怪奇やキリスト教の奇跡は不可(驚異の重視)。
(7)悲劇と喜劇、叙事詩と牧歌など、文学ジャンルを混用したり、中間的ジャンルを用いたりしてはならない(ジャンルの峻別(しゅんべつ))。
(8)古語・俗語・外国語を避け、純正なフランス語を用いること。表現は論理的で簡潔・平明であるとともに、優雅で均整のとれたものでなければならない(洗練された文体)。
(9)作詩法に無理があってはならない。ことに、母音の衝突、不完全な押韻、理不尽な「句またぎ」などを避け、音の諧調(かいちょう)を重んじること(詩法の純化)。
(10)作品を評価するのは博学の士の役目であり、一般大衆の嗜好(しこう)や愚かな批評に左右されてはならない(批評家の権威)。
以上のような一般的な法則に加えて、各文学ジャンルごとにさまざまな細則が定められたが、当時もっとも高位のジャンルとされていた悲劇については制約がことのほか厳しく、さらに徹底して、次のような諸細則が適用された。
(1)悲劇の題材は史実または伝説からとり、現代を扱ってはならない。当代の風俗は喜劇で扱う(題材の制約)。
(2)主役は英雄、王侯貴族、神話の神々などであること(登場人物の制約)。
(3)恋愛はいたずらに美化せず、人間の弱点として描くこと(恋愛観の制約)。
(4)立ち回り、殺傷など生々しい事件そのものは舞台上に出さず、相手役や「腹心」(腰元、乳母(うば)、家庭教師など)に語る形式か独白による(見せ場の制約)。
(5)結末はいずれかの主役の死によって終わる(大団円の制約)。
(6)すべての悲劇は韻文5幕とする(構成の制約)。
(7)笑いを誘う要素はすべて排除する(喜劇との峻別)。そして、古典主義理論中もっとも有名な「三統一の規則(三単一の規則)」。
(8)時の経過が太陽の一巡(24時間)以上にわたってはならない(時の統一)。
(9)全幕が一つの場所、少なくとも一つの宮殿内、一つの市内、一つの島内に設定されなければならない(場所の統一)。
(10)興味を一つの精神的事件に集中するため、筋の展開を一本に絞り、脇(わき)筋があってはならない(筋の統一)。
こうした作劇法の生成期にコルネイユの悲喜劇『ル・シッド』(1636)が大当りしたが、ライバルの劇作家たちは、嫉妬(しっと)も手伝って、さまざまな法則違反を指摘してこれを攻撃、調停役のアカデミー・フランセーズまでが批判者の側にたつ騒ぎとなった。コルネイユはこれを不服として数年間沈黙を守るが、時流には抗しえず、やがて法則を完全に順守した作品を書くようになる。
[小林路易]
1660年から1687年ごろにかけての後期は、文字どおりフランス古典主義の絶頂期で、ラシーヌ、モリエール、ラ・フォンテーヌらの傑作が陸続と出そろう。この時代になると、前期の規則最優先から「良識」優先の考え方に変わり、規則を踏まえながらもそれに隷属せず、むしろそれを自家薬籠(やくろう)中のものとして真の人間像を緩急自在に生き生きと描くようになった。
ことにラシーヌは『アンドロマック』(1667)、『ブリタニキュス』(1669)、『フェードル』(1677)などで崇高美の極限を究め、一つの駄作も残さなかった。ただしバレリーもいうように、その完璧(かんぺき)とも称しうる美文の諧調は、フランス語を母国語とする者以外には鑑賞し尽くせぬうらみなしとしない。フランス文学史上空前絶後の大雄弁家とされるボシュエの『追悼演説』(1669~1687)またしかり。その点、「古典主義の教科書」と称されるボアローの『詩学』は全欧で広く読まれ、イギリスではポープが、ドイツではゴットシェットが、スペインではルサンIgnacio Luzàn(1702―1754)が、イタリアではベッティネルリSaverio Bettinelli(1718―1808)が、ロシアではトレジャコフスキーが、それぞれその紹介ないし祖述者となった。しかしこれまた、18世紀啓蒙(けいもう)主義の時代的要請と各国の文学的状況や言語体系の違いから、そのままでは定着せず、むしろ多くの反撃にあい、大幅な換骨奪胎を余儀なくされて、各国独自の文学純化運動を覚醒(かくせい)させる契機となるにとどまった。ゲルマン古典主義者のレッシングが大の反ボアローであったことは、この間の消息をよく物語る。これに反し、モリエールの『タルチュフ』(韻文、1664)、『守銭奴』(散文、1668)、『町人貴族』(散文、1670)などの喜劇や、ラ・フォンテーヌの『寓話詩』(1668~1694)、ラファイエット夫人の先駆的な心理小説『クレーブの奥方』(1678)などは、つとに世界の古典として広く親しまれ、後世に与えた影響も大きい。
フランス古典主義は政治上の絶対主義王制と時期的にも発想的にも軌を一にする側面をもち、それはすなわちギリシア・ローマの古典を普遍的な永遠の美の典型として疑わないという確信であったが、1680年代中葉から、当代の作家・詩人は古代人に十分匹敵しうるという歴史的相対主義の考え方がおこってこれと衝突し、この「新旧論争」(1687~1716)を契機に古典主義は内部崩壊して凋落期に入る。そして文学史上は、1830年、ユゴーの『エルナニ』の上演で鉄槌(てっつい)が下ったとされる。確かにこのとき、古典主義は時代の流れとしての主流の座をロマン主義に明け渡した。しかしそれは、かならずしも古典主義が完全にこの世から葬り去られたことを意味しない。ロマン主義は相対主義、多極主義である。正しくいうなら、このとき、古典主義はむしろ逆に文学の二大潮流の一つとしての生命を得たのであった。そして、古典主義全盛期の栄光もまた万古不滅のものとなった。このことは、文学よりも絵画や音楽における古典主義の栄光をみればよくわかる。
[小林路易]
一方、端正・崇高なものへの志向、そしてそれが最高の水準に達した古代へのあこがれという意味での広義の古典主義は、フランスのそれと、あるいは有縁に、あるいは無縁にさらに広く分布し、一見相反するロマン主義文学のなかにさえ、抜きがたい文芸基盤を提供している。ロマン主義から古典主義へ回帰したドイツのゲーテ、シラーをはじめ、フランスではボルテールを経てルコント・ド・リール、アナトール・フランス、クローデル、ジッド、ラディゲらに、イギリスではB・ジョンソン、ドライデン、ポープからS・ジョンソン、アーノルドを経て、T・E・ヒューム、T・S・エリオットらに、そして、西洋古典を東洋の古典に置き直せば、日本や中国の文学についても、その至る所に、われわれはこうした美学的理念としての古典主義が揺曳(ようえい)しているのをみることができる。
[小林路易]
古代ギリシア美術の古典期は紀元前480~前330年をいい、ヘレニズム末期のギリシアおよびキリスト降誕前後1世紀のローマに、すでに古典回帰の傾向が認められる。またイタリアの建築家アンドレア・パッラディオは、古代ローマ建築を研究して古典復古の先駆をなした。しかし特定の歴史現象としては、18世紀後半から19世紀前半にかけてヨーロッパに展開された芸術理念および様式をさしていうのが普通である。その特色は、秩序ある簡素な形式と、調和と均衡にたつ冷静で明確な表現の尊重、対象の類型的本質を強調することによる現実の浄化にあり、劇的な表現を重んじるバロックや、装飾に富むロココ様式に対抗し、個性尊重を軸とするロマン主義に鋭く対立してその反対概念をなした。造形芸術では、とくに明晰(めいせき)な輪郭、形象の立体的肉づけ、均整のとれたコンポジションなどによって人間性の尊厳を示すことが重視された。
[野村太郎]
建築では、18世紀中葉のポンペイ、ヘルクラネウム、パエストゥムなどの発掘が刺激となり、ルネサンスの建築書に頼らず古代建築を直接手本にしようとする傾向が、フランスとイギリスの建築家や考古学者によってローマを中心に推進された。サント・ジュヌビエーブ聖堂(パンテオン)を設計したフランスのジャック・G・スーフロー、その弟子ジャン・B・ロンドレJean Baptiste Rondelet(1743―1829)、イギリスのロバート・スマークらはこの傾向を代表する。またベルリン宮、サン・スーシー宮の各室を設計したドイツのフリードリヒ・W・v・エルトマンスドルフFriedrich Willhelm von Erdmansdorf(1736―1800)、「国立劇場プランニング」で名高いフリードリヒ・ギリーFriedrich Gilly(1722―1800)は古典主義の先駆者で、その理念はカール・F・シンケル、ミュンヘンのピナコテークを設計したレオ・v・クレンツェLeo von Klenze(1784―1864)によって継承された。またデンマーク生まれでウィーンに活躍したテオフィラス・E・ハンゼンTheophilus Edvard Hansen(1813―1891)の名も逸することができない。
[野村太郎]
彫刻では、イタリアのアントニオ・カノーバ、デンマーク出身ながらローマ生まれを自称したベルテル・トルバルセンを筆頭に、北ドイツ生まれでローマに死んだアスムス・J・カルステンスAsmus Jakob Carstens(1754―1798)、ドイツのヨハン・H・ダンネッカー、ゴットフリード・シャドーらがいる。
[野村太郎]
絵画では、17世紀にローマにあって古典主義を先取したニコラ・プサンがいるが、思潮としてはフランス革命に続くナポレオンの出現をまたなければならなかった。ルイ王朝の優雅・放逸にかわって厳粛・荘重を求める時代の空気、ヨハン・J・ウィンケルマンの鼓吹した古典美学の影響、ナポレオンの古代ローマへのあこがれを背景として、古典主義絵画はフランスで全盛を迎えるが、その代表的な画家はジャック・L・ダビッドであった。その門下からアンヌ・L・ジロデ、フランソア・P・ジェラールFrançois Pascas Gérard(1770―1837)、アントアーヌ・J・グロを出したが、彼らは同時代の彫刻家ジャン・A・ウードン、オーガスタン・パジューAugustin Pajou(1730―1809)と同様、当初の精神を失った擬古典主義pseudoclassicismを形成したにとどまった。ダビッドの真の後継者はドミニック・アングルで、彼は古典主義絵画の完成者として、若いウージェーヌ・ドラクロワのロマン主義と鋭く対立しつつ、フランス絵画の一潮流を形づくった。ダビッド以後の古典主義を、プサンの時代と区別して新古典主義Neoclassicismとよぶこともある。
なお、同時期のドイツ絵画では、アントン・R・メングスおよびアンジェリカ・カウフマンAngelika Kauffmann(1728―1779)がいるが、2人とも制作の実り多い時期をローマで過ごし、祖国への影響は弱い。
[野村太郎]
『ボワロー著、丸山和馬訳『詩学』(1934・岩波文庫)』▽『小場瀬卓三著『古典主義』(1957・三一書房)』▽『吉江喬松著『仏蘭西古典劇研究』(1931・新潮社)』▽『太宰施門著『仏蘭西古典悲劇の形成』(1942・甲鳥書林)』▽『小場瀬卓三著『仏蘭西古典喜劇成立史』(1948・生活社)』▽『ソーニエ著、小林善彦訳『十七世紀フランス文学』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ヴェルフリン著、守谷謙二訳『古典主義美術――イタリア・ルネサンス序説』(1962・美術出版社)』▽『パリゼ著、田中英道訳『美術名著選書19 古典主義美術』(1972・岩崎美術社)』▽『サマーソン著、鈴木博之訳『古典主義建築の系譜』(1976・中央公論美術出版)』
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ギリシア・ローマの文化を理想とし,その完全な形式美,調和美,格調の高さを再現しようとする芸術上の傾向。文学上ではフランスにおいては17世紀,イギリスでは17世紀末から18世紀中期前半,ドイツでは18世紀中期から19世紀初めに盛んであった。美術上ではこの古代憧憬の風潮を受けて,18世紀末から19世紀初頭にかけ,華麗なロココ様式を退けて明快,簡素な美が追求された。音楽上の古典主義は古代への復帰を意味せず,ハイドン,モーツァルト,バッハを音楽史上の古典と考えて古典派と呼ぶ。
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…これ以降イタリアは,古典古代と人文主義の記念碑的存在となった。新古典主義,ロマン主義のいずれもが,西欧・ラテン文明の象徴としてイタリアを一個の博物館と見るようになったのである。イタリア自身もアカデミー発祥の地として,過去の権威を守るアカデミズムの伝統を保つこととなる。…
…特にイタリア・ルネサンスは絵画や彫刻のモティーフに古代美術の理想化されたアポロンやビーナス像を好んで取り上げたばかりでなく,ミケロッツォやL.B.アルベルティ,さらに16世紀のパラディオらの建築においても古代建築の復活が見られる。このような古典古代への志向は17,18世紀ヨーロッパにおいて著しい発展をみ,いわゆる古典主義を生んだ。絵画ではJ.L.ダビッド,プリュードン,アングル,彫刻ではカノーバやトルバルセン,建築ではシンケルらが出て,古代ギリシアやローマ美術を模した優雅で気品のある作品を残した。…
… しかし17世紀を全体としてみれば,三十年戦争の戦場になったことで,ドイツの文化的な発展はひじょうに遅れた。フランスで古典主義演劇の確立されたこの時期に,ドイツでは旅回り劇団が存在するにすぎず,ウィーンではシュトラニツキーを祖とする道化を中心とした民衆劇やハウプト・ウント・シュターツアクツィオーネンHaupt und Staatsaktionen(道化入りの国事劇)が盛んになったが,文学的な価値をもつものとしては,比較的戦乱の災禍をうけなかったシュレジエンの劇作家A.グリューフィウスの作品と,M.オーピッツの詩論が挙げられるにすぎない。
[18世紀]
18世紀に入っても,西欧各国のなかでドイツ演劇の後進性は明らかであったが,啓蒙時代の風潮のなかでライプチヒの大学教授J.ゴットシェートが,ノイバー夫人一座の協力で,演劇改良運動にのりだした。…
…当時のパリの唯一の常設劇場で受難劇組合の所有だったブルゴーニュ館劇場(日本では〈ブルゴーニュ座〉と通称)の笑劇トリオ(ゴーティエ・ガルギーユGaultier‐Garguille(1572?‐1633),グロ・ギヨームGros‐Guillaume(?‐1634),チュルリュパンTurlupin(1587?‐1637))の成功や,ポン・ヌフ広場のタバラン兄弟の滑稽(こつけい)寸劇に代表される大道芸にそれはうかがえる。
【17世紀――古典主義の成立と展開】
しかし17世紀初頭にアルディAlexandre Hardy(1570ころ‐1632ころ)がブルゴーニュ座座付作者として成功したことは,筋の展開も豊かで劇的葛藤に富む〈悲喜劇(トラジ・コメディ)〉や〈田園劇(パストラル)〉といった新しい〈戯曲の上演〉が時代の好みとなったことを示している。1634年には,マレー地区の掌球場(ジュー・ド・ポーム)を改装したもう一つの劇場がマレー座として常設小屋となる。…
…そのほか近代の散文の確立に寄与したといわれるカルバン,イタリア風の物語の形式のもとで愛のかたちを探ったマルグリット・ド・ナバールの名も,それぞれ16世紀文学のある側面を示すものとして記しておくことにしたい。
[古典主義の開花とモラリストの文学]
17世紀の初めは動乱の時代の延長であり,かつて宗教戦争の渦中で戦ったドービニェが,風刺,幻想を盛りこんだ詩を書いたりした時代である。ドービニェのなかにも,奔放な感情の高揚,変幻変動するものの重視,劇的な誇張の偏愛などで特徴づけられる〈バロック〉の詩人は少なくない。…
…それと同時に,もしセザンヌの晩年の作品とティツィアーノの晩年の作品との間にある共通する表現上の特色が認められるとすれば,時代,地域,個人を超えて,芸術家の〈晩年の様式〉について語ることも可能である。ギリシア美術についても,ルネサンス美術についても,あるいはセザンヌの作品についても〈古典主義的様式〉が問題となるのはそのためである。 もともと西欧語において,スタイルstyle(英語),シュティールStil(ドイツ語),スティールstyle(フランス語)は,〈鉄筆〉を意味するラテン語stilusに由来し,それゆえに,鉄筆で書かれた文章の表現上の特色,すなわち〈文体〉を意味するようになった。…
…
[ドイツにおけるロマン派演劇]
演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテ,シラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。…
※「古典主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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