ブラジル南東部,サン・パウロ州の州都。南米最大の都市で,西半球三大都市の一つである。人口1102万(2005)。〈世界一急成長する都市〉〈南米のシカゴ〉と称される。南緯23°32′,西経46°38′,南回帰線に近い熱帯圏に位置するが,パウリスターノ高原の平均標高750mの高台にあり,気候は温暖湿潤である。年間の気温差は少なく,年平均気温17~18℃,平均年間降雨量1300mm。首都ブラジリアから1151km,旧首都リオ・デ・ジャネイロから435km離れている。大西洋沿岸に近く,海岸山脈(セラ・ド・マール)を60km下れば,国内最大の港サントスがある。
市の中心は,元来セー聖堂を基点としたトリアングロ(三角地帯)を核として商業街,銀行街があり,すべての交通機関が都心に集中してきていたが,近年商業街の中心はアニャンガバウ谷間の向い側に移り,バスの発着所や中央市場も都心を離れたし,かつては〈コーヒー貴族〉の大邸宅街であったパウリスタ大通り方面への銀行・商社の移動も進行して,副都心の発達が目だちだした。住民は世界のおもな民族が集まっている。初めコーヒー労働者として入国したイタリア人,ポルトガル人,スペイン人,ドイツ系人,日本人らが多数流入し,市内に民族的集中地区がモザイクをなしていたが,その特色はしだいに薄れてきている。そのなかでリベルダーデ区における日系人,中国人,韓国人の集中性はまだ顕著である。
一帯は昔ピラティニンガと呼ばれ,原住民グアイアナ族の居住地であった。1554年1月,マヌエル・ダ・ノブレガの命でJ.deアンシエタらイエズス会士らが原住民教化の拠点を置いたのが市の発祥である。最初のミサの行われた日にちなみ,初めはサン・パウロ・デ・ピラティニンガと呼ばれた。やがて金,銀,ダイヤモンドの探索とインディオ奴隷狩りを目的とした植民者による奥地探検隊バンデイラの本拠地として,一帯の中心地となった。1683年には沿岸のサン・ビセンテに代わってカピタニアの主都となり,1711年には市に昇格した。だが19世紀中葉までの3世紀間は,国内でも辺境の地にあり,特別な産業のない貧しい田舎町であった。1822年にはこの地のイピランガの丘でドン・ペドロが独立宣言を発した。サン・パウロが急激な成長を始めるのはコーヒー産業が興ってからで,ことに奴隷制に基づいたパライバ川流域のコーヒー栽培から,賃金労働に基礎をおく州北部・中央部での栽培に転じた19世紀後半からである。70年代からは奥地生産地からサントス港に通じる〈コーヒー鉄道〉網が広く張り巡らされ,コーヒー集散地としてのサン・パウロ市は急激な膨張を始めた。19世紀最後の10年間に人口が6万4934から23万9934の約4倍になり,以後もこの異常な成長を止めていない。
〈コーヒーが工業を生み落とした〉といわれ,ブラジル工業勃興の担い手はコーヒー農場主たちから出てきたのである。彼らはコーヒー産業とその輸出をめぐり,金融界,輸出入業,鉄道,発電等企業経営に乗り出し,しだいに工業家に転身していった。初めは繊維工業,食品加工等の軽工業が主体であったが,急速に多角化していった。1907年に326企業だったものが,20年には4154企業に飛躍した。第1次,第2次大戦および1929年の世界恐慌で先進国からの工業製品輸入が途絶するたびに躍進を遂げ,第2次大戦以後は重工業部門が発展してラテン・アメリカ最大の工業都市となった。
サン・パウロ首都圏は人口1641万7000(1991)で,数多くの衛星都市が発達している。特に市の南東方向に展開する,俗にABCDと呼ばれる4市(サント・アンドレ,サン・ベルナルド・ド・カンポ,サン・カエタノ・ド・スル,ジアデーマ)は重要な工業地区を構成しているが,70年代からはさらにズトラ街道沿いの東部方面への拡大が目だっている。約2万の企業に130万の工業労働者(1974)が就労し,自動車工業,金属・機械・繊維・化学薬品工業,電気製品その他の全部門にわたり,これら製品の海外,ことにラテン・アメリカ諸国への輸出も活発に行われている。工業化の初期には海岸山脈の落差を利用したクバトン発電所の電力が大きな役割を果たしたが,現在では南マト・グロッソ州境パラナ川のウルブプンガ発電所からの遠距離送電が行われ,さらに82年からより大規模なイタイプ発電所(完成時発電設備容量1070万kW)の操業が開始された。大企業には外国資本との合弁のものが多く,多国籍企業の問題は大きい。また,急激な都市化,工業化に伴う交通と公害の問題解決が大きな課題となっている。高速道路が次々に建設され,1974年からは地下鉄の南北線も開通し,ビラ・コッポス国際空港も郊外に建設されたが,総合的解決にはいたらず,今は政府によって工業の地方分散政策が推進されている。
リオ・デ・ジャネイロが政治,観光,消費,民俗情緒の都市であるのに対して,サン・パウロは産業,労働,生産,現実の都市といわれるが,サン・パウロの文化・政治面への貢献度はリオ・デ・ジャネイロに優るとも劣らない。かつてはサン・パウロ市長になれば大統領は目前だといわれた。雄大な規模を誇る大学都市をもつサン・パウロ総合大学は名実ともにブラジル学界をリードする最高の教育研究機関である。同大学付属の,毒蛇研究のブータンタン研究所,歴史・民族資料を擁するパウリスタ博物館,ルネサンスから20世紀初めにかけての西欧の名品を収蔵するサン・パウロ美術館(1947創設)は世界に有名である。サン・パウロ市は〈バンデイランテ首都〉の異名があり,市民はパウリスターノと呼ばれる。
執筆者:前山 隆
サン・パウロ市内南東部にある一地区。1822年9月7日ポルトガルのブラガンサ家の王子ペドロ(ペドロ1世)が,ブラジルの独立を宣言(〈イピランガの叫び〉)した土地として知られる。記念博物館があり,歴史的場面を表す彫刻群が展示されている。
執筆者:山田 睦男
ブラジル南東部にあり,工業化,都市化,近代化が最も進んだ州。面積24万7320km2。人口はブラジル最大で3703万2000(2000)。州都はサン・パウロ市。沿岸近くに高い海岸山脈(セラ・ド・マール)があり,州の85%は標高300~900mで,内陸に向かって傾斜するブラジル高原にある。河川はおもに奥地へと流れる。人口の半数が大都市に集中しており,都市人口は88.6%で,発展途上国としては例外的に中都市がよく発達している。
かつてはトゥピ・グアラニー族,カインガング族などの居住地帯だった。16世紀からポルトガル入植者がサトウキビ栽培,牧畜,奴隷狩りなどを行ったが,目だった産業のない貧困地帯だった。19世紀中葉よりコーヒー産業が発展しだしてからこの地帯は急成長を始め,大量の外国移民が契約労働者として入り,鉄道網が発達し,各地に都市が勃興した。1936年までの100年間に約300万人の外国移民(おもにイタリア人,ポルトガル人,スペイン人,日本人,ドイツ人など)が流入して,州内は人種と文化のるつぼと化し,急速に多人種社会が形成された。1908年以来日本人移民も約20万人来航し,現在では州内571のムニシピオ(行政区)で日系人の居住しない所は一つもない。
サン・パウロ工業地帯は今日ラテン・アメリカ最大のものである。初期の工業化はコーヒー生産を母体として大土地所有者である伝統的支配者層の手で推進されたが,1929年の世界恐慌後その多くは移民やその子孫の手に移った。二つの世界大戦と世界恐慌の時期にサン・パウロ工業は輸入代替で飛躍的に発展し,〈サン・パウロはブラジルの機関車である〉といわれた。50年代以降,重工業,自動車産業の発達が目覚ましい。サン・パウロ1州で総国民所得の40%,総工業生産の50%を占める。それらの6割は大都市圏に集中している。農業では今日でもコーヒーが主で,全国の4割を生産し,砂糖産業も伸びている。他州に比べて小土地所有の独立自営農の発達が顕著で,農村・都市ともに中産階級の層が厚い。州内には舗装した高速道路が縦横に走り,交通機関としての鉄道の役割は衰微し,長距離バス,自家用車によるものが多い。州出身者はパウリスタPaulistaと呼ばれる。
執筆者:前山 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブラジル南東部にある同国第一の都市。南アメリカ最大の都市でもある。サン・パウロ州(面積24万8808.8キロメートル、1996。人口3703万2403、2000)の州都。リオ・デ・ジャネイロの西南西約500キロメートル、大西洋岸より80キロメートル離れた標高800メートルの高原に位置する。人口1043万4252(2000)。20余りの衛星都市を含む大サン・パウロの人口は1600万に及ぶ。亜熱帯地域に属するが夏も涼しく、年間を通じてほぼ15~25℃で快適な気候の地である。
住民はポルトガル系、スペイン系、ドイツ系、イタリア系、東ヨーロッパ系(ポーランド、ラトビアなど)、日系、レバノン系など世界中のさまざまな人種系統からなり、それぞれがかなりはっきりした居住区をつくっている。パウリスタPaulistaとよばれるサン・パウロ市民は精力的な実務家で、経済活動に励むので町は非常に活気がある。自動車がひしめき、喧噪(けんそう)に満ちた都会である。
サン・パウロはブラジル最大の商工業の中心地で、19世紀後半にコーヒー栽培が盛んになるのと並行して、コーヒーの集荷と輸出業務を中核として発展した。ブラジル南東部の交通網の中心に位置し、その商圏は同国の南東部から中央部、西部に広がる。第二次世界大戦中から工業が目覚ましく発展し、戦後はアメリカ、西ヨーロッパ、日本など外国の諸企業がサン・パウロ市内と近郊衛星都市に進出し、日系企業だけでも500社を超えている。とくに外港サントスと結ぶハイウェー沿線、リオ・デ・ジャネイロに向かう幹線道路沿いなどで工業化が盛んである。自動車、織物、家具、化学工業製品、衣服、セメント、食品など各種の工業が立地し、サン・パウロの工業生産額はブラジル全体の3分の1を超える。商業、金融業でもリオ・デ・ジャネイロとともにブラジルの主導的地位にある。また、リオ・デ・ジャネイロと並ぶブラジル文化の中心地でもあり、サン・パウロ大学などブラジルの代表的な大学があり、中世以降の西欧美術を集めたサン・パウロ美術館をはじめ、美術館、博物館、図書館なども多い。ブラジルのモダン・アートの発祥地で、ここで催されるビエンナーレは、この分野の世界的行事である。また、市西部にあるブタンタン研究所は、毒ヘビの研究によって世界的に知られる。
サン・パウロの都心は、日系人が「お茶の水橋」とよぶ高速道路に架かる陸橋付近で、その周辺のセントロ地区は高層ビルが林立する商業地区である。パウリスタ街は、もとはコーヒーで産をなした人々の大邸宅の並ぶ地区であったが、高層ビル街にかわった。日系人は、都心部に接するガルボン・ブエノ街付近に多く集まり、日本食の店、土産(みやげ)物店など日本語の看板と日系人があふれる町をつくっている。サン・パウロには美しい公園が多く、レプブリカ公園、イピランガ公園、イビラプエラ公園、イピランガ水源州立公園などは市民の憩いの場となっている。
[山本正三]
現在のサン・パウロ付近は、かつてピラティニンガとよばれ、先住民グアイアナ人の居住地であった。1554年ポルトガル人のイエズス会士マヌエル・ダ・ノブレガらによって、この地に先住民(インディオ)教化のための教会と学校が建てられた。これがサン・パウロの起源である。町名の由来は、町の建設記念の第1回のミサが、聖徒パウロがキリスト教に改宗した記念日に施行されたことによる。植民地時代を通じて同市の人口は2000人程度で、住民の生活は貧しかった。やがてブラジル奥地の金、銀、ダイヤモンドの発見と、先住民を北東部の砂糖業に奴隷として売却する「インディオ狩り」を目的とするバンデイラ(植民者による奥地探検隊)の拠点となった。19世紀後半、この地方がコーヒー生産の中心地となると、サン・パウロは商業・金融のセンターとして急速に発展し、20世紀初頭には人口も24万人に達した。さらに1930年代以後、全国の工業センターとなり、他地方からの人口を吸引し、大都市に成長している。
[山田睦男]
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ブラジル南東部サンパウロ州の首都。16世紀半ば,イエズス会が布教の拠点としたが,やがてバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)の根拠地となり,1711年に市に昇格した。19世紀後半からコーヒー産業で栄え,20世紀には,経済の中心としてブラジル最大の都市となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…トゥピ語はイエズス会宣教師によって体系化され,初期にはリングア・ジェラルlingua geralと呼ばれる共通語として植民者,現地生れの混血層,非トゥピ語族間にも広く使用された。アフリカからは主としてサトウキビ栽培の奴隷労働力として約360万人の黒人(おもにバントゥー族,ヨルバ族)が強制移住させられ,ことにサン・パウロからマラニョンに至る沿岸地帯では人口の圧倒的多数を占めたが,死亡率が高く,また混血も進行した。 独立後の19,20世紀では移入人口の比重は圧倒的にヨーロッパからの白人系に移り,全ブラジル人口の白人化傾向が進んだ。…
…エントラーダentradaともいい,その参加者をバンデイランテbandeiranteという。当時の沿岸主要都市から出発したが,とりわけサン・パウロ市のものが有名で,今日に至るまで,サン・パウロ人はバンデイランテ精神を称揚している。元来は中世ポルトガルの軍隊組織の名称で,36人の小隊を指したが,16世紀にはより大きな組織をも意味した。…
※「サンパウロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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