百科事典マイペディア 「ボーリングブルック」の意味・わかりやすい解説
ボーリングブルック
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イギリスの政治家,著述家。1701年下院議員となり,スペイン継承戦争の最中にまず陸相(1704-08)に就任。ついで国務相(1710-14)としてユトレヒト対仏講和条約の締結(1713)に尽力。その間に子爵の位を授けられるが(1712),大蔵卿ハーリー(オックスフォード伯)とトーリー党内における主導権を争い,ジョージ1世の即位前後に両者とも失脚。彼はフランス政府への内通,あるいはジャコバイトへの荷担の嫌疑をかけられて官位・財産を剝奪され,1715年フランスへ亡命した。恩赦により帰国(1725)後はおもに雑誌《クラフツマン》によってウォルポール政権批判の論戦を展開し,行政府からの議会の自立と,トーリー党およびホイッグ党の反ウォルポール派の連合による国民的政党の創設を訴えた。志を得ずに35-44年再度フランスへ移り,晩年は政治,宗教,哲学,歴史の多方面にわたる著述に専念した。
執筆者:松浦 高嶺
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…トリーペルHeinrich Triepel(1868‐1946)は《憲法と政党Staatsrecht und Politik》(1927)において,国家対政党の関係の変化を,(1)国家が政党を敵視した時代,(2)国家が政党を無視した時代,(3)法律上で政党が容認される時代,(4)政党が憲法秩序の中に編入される時代,の4段階に分けている。イギリスの政治家H.St.J.ボーリングブルックが《政党論Dissertation on Parties》(1734)で政党を政治機構の一部とするような制度を〈腐敗的〉なものとして反対し,ルソーが《社会契約論》(1762)で一般意志の十分な機能にとって徒党や部分的団体の存在は望ましくないと説き,さらにアメリカの初代大統領ワシントンが有名な〈告別演説〉(1796)の一節で,国家の存続にとっての党派精神の有害さについて強く警告したなどの例にみられるように,18世紀から19世紀初頭の思想家,政治家の多くは〈反政党主義〉的態度をとっていたのである。
[イギリス]
しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。…
…イギリスの政治家,雄弁家,政治哲学者。プロテスタントの父とカトリックの母の間にダブリンで生まれ,この地のトリニティ・カレッジを卒業。法律家の資格を得ようとロンドンに出たが,やがて文筆の世界に転じてボーリンブルック卿の抽象的社会理論を風刺した《自然社会の擁護》と,美的感覚を心理的に解剖した《崇高と美の観念の起源》(1757)で文壇に登場し,ドズリー書店から《年鑑》を創刊して単独で編集に従った。まもなく穏健なホイッグ貴族ロッキンガムの秘書,65年には下院議員となり,アメリカでの印紙法の騒擾について処女演説して一躍名演説家たる声望を得た。…
※「ボーリングブルック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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