イギリスの政治家。最初の〈首相〉といわれる。ノーフォーク州の古い家柄の地主の家に生まれ,ケンブリッジ大学中退後,1701年に庶民院議員,08年陸軍長官,10年海軍財務長官となったが,12年に収賄罪で罷免,投獄された。14年ジョージ1世が即位してトーリー党が没落すると,ウォルポールは急速に勢力を伸ばし,15年には大蔵卿となったが,外交政策をめぐる意見の対立から17年閣外へ去った。しかし20年に南海泡沫事件がおこると,その財政手腕を買われて事後処理にあたり,翌年ふたたび大蔵卿に就任,閣内の第一人者として〈首相〉とよばれるようになり,42年まで長期政権の座にあった。ウォルポールは対外的には平和政策をとり,1713年から39年までイギリスは18世紀中でもっとも長期にわたる平和の期間を経験した。これを〈ウォルポールの平和〉とよぶ。対内的にはウォルポールの最大の功績は政府負債の整理であり,この平和と安定のなかで産業革命の準備がととのえられていった。政治的にはトーリー党のみでなくホイッグ党内部の反対派をも容赦なく政権の座から追放し,選挙にあたっては大がかりな買収をおこない,言論による政府批判も封殺した。このため反対派の攻撃もしだいに強まり,33年には彼の提案した消費税計画が世論の猛反対をうけて挫折するという敗北を喫した。以後なお10年近く政権を維持したものの,39年にウォルポールの反対をおしきってスペインとの開戦が決定されたときに,その退陣はもはや時間の問題となっていた。42年2月,オーフォード伯という爵位をうけて引退し,その後も政界に影響力をもちつづけたが,45年死去した。
執筆者:浜林 正夫
イギリスの文人,政治家。首相ロバート・ウォルポールの末子として生まれる。イートン校,ケンブリッジ大学に学ぶ。その間詩人トマス・グレーなどと親しくし,同じ趣味を培う。グレーとともに大陸旅行に行き,帰国後国会議員として父同様ホイッグ党の伝統を受け継ぐが,彼自身は決して政治的ではなかった。1747年ロンドン郊外トウィックナムにゴシック風の家ストローベリー・ヒルを作る。こうした趣味からイギリス最初のゴシック・ロマンス《オトラント城奇譚》(1764)が生まれ,また近親相姦の悲劇《なぞの母親》(1768)が作られた。さらに屋敷内に印刷所を設け,グレーをはじめ多くの文人の詩を印刷した。またロンドンの上流社交界の様子を詳細に語った膨大な量の書簡を残している。91年には4代目のオーフォード伯爵を継いだ。
執筆者:榎本 太
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イギリスの政治家。ノーフォーク州の地主の家に生まれ、1701年庶民院議員に初選出。政界入り直後から海軍長官、海軍大臣などを歴任、敏腕なホイッグ党員として活躍した。ジョージ1世即位後は大蔵省主計長官の要職についたが、ホイッグ党内の内紛により一時下野した。しかし、1720年の南海泡沫(ほうまつ)事件を機に大蔵大臣兼財務長官に任ぜられ、その事後処理にあたって信頼を集め、以後1742年まで20余年間この職にあって事実上の首相として政権を担当した。
対外的には一貫して平和政策をとり、国内では健全財政を維持したため、当時の経済的繁栄と相まって社会は安定した。議会運営、人事、財政いずれにも卓抜した手腕を振るい、通説では責任内閣制の創始者とされるが、議会に対する閣僚の連帯責任という慣例は当時は定着しておらず、大臣は個人として国王にのみ責任を負うにすぎなかった。むしろ大規模な買収、腐敗行為も政権維持のためにはあえていとわず、その非難の表明として「首相」とよばれたほどであった。
[大久保桂子]
イギリスの小説家、批評家。3月13日、ニュージーランドの牧師の子として生まれる。カンタベリーのキングズ・スクール、ケンブリッジのエマニュエル・カレッジに学んだ。大学時代から小説を書き始め、卒業後一時牧師代理や学校教師を経験するが飽き足らず、1909年ロンドンに出て処女作『木馬』により作家となった。ヘンリー・ジェームズを敬慕し、またA・トロロープに傾倒して、トロロープ風の写実的な小説から出発し、しだいにロマンチックな作風に変わり、ときには無気味な残酷趣味を発揮することもある。巧みな語り口により流行作家としての名声を博し、小説作品だけでも40冊を超える。『ペリン氏とトレイル氏』(1911)、『大寺院』(1922)、『赤毛の男の肖像』(1925)、『ジョン・コーニーリアス』(1937)などがある。また大衆の人気をよんだ『ヘリー家物語』四部作(1930~33)、少年期の自伝的要素の濃い『ジェレミー』三部作(1919~27)もある。大の読書家で本好きの彼は、古今のイギリス小説に通じ、その談論は英米の読者層に歓迎され、ロンドン文壇の中心的存在だった。またW・スコットの手稿をはじめ、本の収集でも名高い。37年ナイトに叙せられ、生涯独身で、41年6月1日、湖水地方ケズウィックの隠棲(いんせい)地で死去。
[佐野 晃]
『西田琴訳『ジェレミー 幼児の生い立ち』(1937・岩波書店)』
イギリスの文人。政治家サー・ロバート・ウォルポールの四男。第4代オーフォード伯。ケンブリッジ大学卒業。審美眼に優れたディレッタントで、古典主義の時代にありながらロンドン西郊にストロベリー・ヒルとよぶゴシック風の城を建てて印刷所を置き、友人トマス・グレーの『頌歌(しょうか)集』をはじめ自著を含む多数の出版を行った。膨大な書簡と、ゴシック小説の先駆けとなった『オトラントの城』(1764)によって有名。
[小野寺健]
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1676~1745
イギリスの政治家。ホイッグ党の下院議員,陸軍長官などをへて南海泡沫事件後の混乱期に政権を掌握,1721年以降第一大蔵卿を務めた彼が最初の首相(在任1721~42)として長期政権を維持し,責任内閣制の発達に貢献した。健全財政と平和政策によって,産業革命を準備した18世紀前半のイギリスの繁栄を支えたが,ピット(大)らの批判を受けて退陣。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W.ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717‐97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。一時バリーの協力者であったA.W.N.ピュージンも当時のゴシック的な傾向を代表する。…
…18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W.ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717‐97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。一時バリーの協力者であったA.W.N.ピュージンも当時のゴシック的な傾向を代表する。…
…イギリスの文人H.ウォルポールの小説。1764年刊。…
…18世紀の風景式庭園の流行,ピクチュアレスクの美学をひとつの基盤としてイギリスを中心に発生し,19世紀に最盛期を迎え,ヨーロッパ大陸,アメリカにも盛行を見た。中世に対する賛美の念はイギリスに根強く存在し,18世紀中葉には政治家H.ウォルポールが自邸ストローベリー・ヒルをゴシック様式で建築し,この機運の先駆となった。19世紀に入るまで,ゴシック様式は廃墟を賛美するロマン主義の気風のもとで用いられていたが,ラスキンがゴシックを中世の倫理的な価値観の体現と称揚するにいたって,ゴシック復興の機運は建築を中心とする芸術一般に及んだ。…
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[歴史――外国]
なぞ解きを扱った文学作品といえば,古くは旧約聖書にまでさかのぼることができるが,一般に推理小説の起源と考えられているのは,イギリスで18世紀後半に流行した〈ゴシック・ロマンス〉である。H.ウォルポールの《オトラント城奇譚》(1764)や,A.ラドクリフの《ユードルフォの秘密》(1794)などでは,超自然現象的な不思議な現象が,結末で論理的に解明され,人間の恐怖心理が分析され,今日の〈スリラー小説〉の先駆となっている。W.ゴドウィンの《ケーリブ・ウィリアムズ》(1794)は殺人事件を一個人が究明し犯人を自白に追いつめる物語である。…
…イギリス,ロンドンの西,テムズ河畔の地区。19世紀ころまでは高級な別荘地であり,たとえば18世紀を代表する文人A.ポープの庭園と邸宅,またH.ウォルポールが建てたゴシック風の邸宅ストローベリー・ヒルで有名であった。現在は大ロンドン市の一部としてのリッチモンド自治区に入っている。…
…両派の名称が,互いに相手をアイルランドの追剝(Tory)や狂信的反徒(Whig)になぞらえ非難する蔑称として用いられた事実が示すように,パーティは私益や熱狂を国王,王国に対する忠誠に優越させる悪徳の現れとみられがちで,反対党と反逆との境界は時としてあいまいになった。近代の首相prime ministerの起源はこれらに多少遅れ,18世紀前半の有力政治家R.ウォルポールに求められることが多い。もっともこの語にもフランスからの影響が強く,国王の正当な権能を僭取し臣下が分を越えて国政を牛耳ることへの非難や嘲笑の意がこめられていたし,ウォルポール自身も公式にはこの呼称を否認した。…
…イギリスの文人,政治家。首相ロバート・ウォルポールの末子として生まれる。イートン校,ケンブリッジ大学に学ぶ。…
…ホイッグ党が議会と行政府の実権を掌握しているイギリスの政治に,54歳で招かれて即位した王はあまり関心を抱かず,国政をみずから任命した大臣たちに一任するようになった。R.ウォルポールを首相とする責任内閣制度の発足は,そのような状況によっていっそう助長されたとみることができよう。【松浦 高嶺】。…
…元来首相prime ministerという語はフランスから借用され,当初は国王の寵愛をたてに大権を私議する臣下という非難の意味で用いられることが多かった。18世紀前半長く政府中枢にいたR.ウォルポールは最初の近代的首相とされる場合が多いが,その成功は議会の支持に劣らず国王や宮廷の支援に負う面が強く,みずからは首相の呼称を公式に否認した。18世紀には呼称も一定せず,だれがどのような意味で〈首相〉なのか当事者にすら不明確な例が少なくない。…
…この事件で多くの地主や商人がその資産を失ったため,政治的にも大問題となり,多くの大臣が故意の陰謀の疑いをかけられた。逆に,事件の処理に手腕を振るったR.ウォルポールが,以後のイギリス政界を牛耳ることにもなる。議会も,事件後〈泡沫禁止法Bubble Act〉を可決して,特殊な例外を除いて株式会社の設立を禁じたために,以後のイギリスの経済発展に深刻な影響を与えた。…
※「ウォルポール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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