ウォルポール(英語表記)Robert Walpole

デジタル大辞泉 「ウォルポール」の意味・読み・例文・類語

ウォルポール(Robert Walpole)

[1676~1745]英国の政治家ホイッグ党指導者ジョージ1世時代の1721年、史上初の責任内閣の首相となり、1742年に引退するまで平和外交の推進、財政の健全化に尽力。

ウォルポール(Walpole)

オーストラリア、西オーストラリア州南西部の町。周辺には、樹高数十メートルの大木に成長するカリーやレッドティングルの森があり、ウォルポールノーナラップ国立公園内に、樹冠付近を見学できる歩道橋が設置されている。

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精選版 日本国語大辞典 「ウォルポール」の意味・読み・例文・類語

ウォルポール

  1. ( Sir Robert Walpole サー=ロバート━ ) イギリスの政治家。ホイッグ党の指導者。責任内閣制の最初の首相(在職一七二一‐四二)。健全財政と平和外交により、イギリスの繁栄に貢献した。(一六七六‐一七四五

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改訂新版 世界大百科事典 「ウォルポール」の意味・わかりやすい解説

ウォルポール
Robert Walpole
生没年:1676-1745

イギリスの政治家。最初の〈首相〉といわれる。ノーフォーク州の古い家柄の地主の家に生まれ,ケンブリッジ大学中退後,1701年に庶民院議員,08年陸軍長官,10年海軍財務長官となったが,12年に収賄罪で罷免,投獄された。14年ジョージ1世が即位してトーリー党が没落すると,ウォルポールは急速に勢力を伸ばし,15年には大蔵卿となったが,外交政策をめぐる意見の対立から17年閣外へ去った。しかし20年に南海泡沫事件がおこると,その財政手腕を買われて事後処理にあたり,翌年ふたたび大蔵卿に就任,閣内の第一人者として〈首相〉とよばれるようになり,42年まで長期政権の座にあった。ウォルポールは対外的には平和政策をとり,1713年から39年までイギリスは18世紀中でもっとも長期にわたる平和の期間を経験した。これを〈ウォルポールの平和〉とよぶ。対内的にはウォルポールの最大の功績は政府負債の整理であり,この平和と安定のなかで産業革命の準備がととのえられていった。政治的にはトーリー党のみでなくホイッグ党内部の反対派をも容赦なく政権の座から追放し,選挙にあたっては大がかりな買収をおこない,言論による政府批判も封殺した。このため反対派の攻撃もしだいに強まり,33年には彼の提案した消費税計画が世論の猛反対をうけて挫折するという敗北を喫した。以後なお10年近く政権を維持したものの,39年にウォルポールの反対をおしきってスペインとの開戦が決定されたときに,その退陣はもはや時間の問題となっていた。42年2月,オーフォード伯という爵位をうけて引退し,その後も政界に影響力をもちつづけたが,45年死去した。
執筆者:


ウォルポール
Horace Walpole
生没年:1717-97

イギリスの文人,政治家。首相ロバート・ウォルポールの末子として生まれる。イートン校ケンブリッジ大学に学ぶ。その間詩人トマス・グレーなどと親しくし,同じ趣味を培う。グレーとともに大陸旅行に行き,帰国後国会議員として父同様ホイッグ党の伝統を受け継ぐが,彼自身は決して政治的ではなかった。1747年ロンドン郊外トウィックナムにゴシック風の家ストローベリー・ヒルを作る。こうした趣味からイギリス最初のゴシック・ロマンスオトラント城奇譚》(1764)が生まれ,また近親相姦の悲劇《なぞの母親》(1768)が作られた。さらに屋敷内に印刷所を設け,グレーをはじめ多くの文人の詩を印刷した。またロンドンの上流社交界の様子を詳細に語った膨大な量の書簡を残している。91年には4代目のオーフォード伯爵を継いだ。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ウォルポール」の意味・わかりやすい解説

ウォルポール

英国の政治家。〈最初の総理大臣〉として知られる。ノーフォーク州の地主の古い家柄に生まれ,1701年下院議員になり,ホイッグ党に所属。順調な出世街道を歩んだが,収賄罪に問われて罷免された。1715年第一大蔵卿に就任したが,外交政策の対立から閣外に去る。1721年南海泡沫事件後の混乱期に再度第一大蔵卿に就任,事実上の首相として1742年まで長期政権を維持した。対外的には平和政策をとり,対内的には財政の再建に全力をあげ,議員を買収して議会の支持を取りつけたところにその長期政権の秘密があった。総選挙の結果,与野党の差が僅少になったことを理由に1742年辞職。
→関連項目ウォルポール議院内閣制ジョージ[1世]ジョージ[2世]ニューカッスル公ピット[大]ペラムホイッグ党ボーリングブルック

ウォルポール

英国の文筆家。首相も務めた政治家R.ウォルポールの四男として生まれ,自身も下院に議席をもった。《オトラント城奇譚》(1764年)はゴシック・ロマンスの先駆として重要。膨大な《書簡集》がある。
→関連項目ゴシック・リバイバルブルーストッキング

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォルポール」の意味・わかりやすい解説

ウォルポール(Sir Robert Walpole, 1st Earl of Orford)
うぉるぽーる
Sir Robert Walpole, 1st Earl of Orford
(1676―1745)

イギリスの政治家。ノーフォーク州の地主の家に生まれ、1701年庶民院議員に初選出。政界入り直後から海軍長官、海軍大臣などを歴任、敏腕なホイッグ党員として活躍した。ジョージ1世即位後は大蔵省主計長官の要職についたが、ホイッグ党内の内紛により一時下野した。しかし、1720年の南海泡沫(ほうまつ)事件を機に大蔵大臣兼財務長官に任ぜられ、その事後処理にあたって信頼を集め、以後1742年まで20余年間この職にあって事実上の首相として政権を担当した。

 対外的には一貫して平和政策をとり、国内では健全財政を維持したため、当時の経済的繁栄と相まって社会は安定した。議会運営、人事、財政いずれにも卓抜した手腕を振るい、通説では責任内閣制の創始者とされるが、議会に対する閣僚の連帯責任という慣例は当時は定着しておらず、大臣は個人として国王にのみ責任を負うにすぎなかった。むしろ大規模な買収、腐敗行為も政権維持のためにはあえていとわず、その非難の表明として「首相」とよばれたほどであった。

[大久保桂子]


ウォルポール(Sir Hugh Seymour Walpole)
うぉるぽーる
Sir Hugh Seymour Walpole
(1884―1941)

イギリスの小説家、批評家。3月13日、ニュージーランドの牧師の子として生まれる。カンタベリーのキングズ・スクール、ケンブリッジのエマニュエル・カレッジに学んだ。大学時代から小説を書き始め、卒業後一時牧師代理や学校教師を経験するが飽き足らず、1909年ロンドンに出て処女作『木馬』により作家となった。ヘンリー・ジェームズを敬慕し、またA・トロロープに傾倒して、トロロープ風の写実的な小説から出発し、しだいにロマンチックな作風に変わり、ときには無気味な残酷趣味を発揮することもある。巧みな語り口により流行作家としての名声を博し、小説作品だけでも40冊を超える。『ペリン氏とトレイル氏』(1911)、『大寺院』(1922)、『赤毛の男の肖像』(1925)、『ジョン・コーニーリアス』(1937)などがある。また大衆の人気をよんだ『ヘリー家物語』四部作(1930~33)、少年期の自伝的要素の濃い『ジェレミー』三部作(1919~27)もある。大の読書家で本好きの彼は、古今のイギリス小説に通じ、その談論は英米の読者層に歓迎され、ロンドン文壇の中心的存在だった。またW・スコットの手稿をはじめ、本の収集でも名高い。37年ナイトに叙せられ、生涯独身で、41年6月1日、湖水地方ケズウィックの隠棲(いんせい)地で死去。

[佐野 晃]

『西田琴訳『ジェレミー 幼児の生い立ち』(1937・岩波書店)』


ウォルポール(Horace Walpole)
うぉるぽーる
Horace Walpole
(1717―1797)

イギリスの文人。政治家サー・ロバート・ウォルポールの四男。第4代オーフォード伯。ケンブリッジ大学卒業。審美眼に優れたディレッタントで、古典主義の時代にありながらロンドン西郊にストロベリー・ヒルとよぶゴシック風の城を建てて印刷所を置き、友人トマス・グレーの『頌歌(しょうか)集』をはじめ自著を含む多数の出版を行った。膨大な書簡と、ゴシック小説の先駆けとなった『オトラントの城』(1764)によって有名。

[小野寺健]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウォルポール」の意味・わかりやすい解説

ウォルポール
Walpole, Sir Robert, 1st Earl of Orford

[生]1676.8.26. ノーフォークシャー,ホートンホール
[没]1745.3.18. ロンドン
初代首相とされるイギリスの政治家。ケンブリッジ大学で教育を受けたあと,1700年父の死により,多額の債務を負う所領と,同家の選挙区を相続。同年この選挙区から議員に選出され,01年ホイッグ党の議員になった。 08年より陸軍長官その他の職を経て,15年大蔵総裁兼大蔵大臣になったが,イギリスの外交政策をめぐって約2年で辞職。ほどなく軍事支払総監として政府に復帰。 21年南海泡沫事件後の政局混乱に際して政治的手腕を発揮し,名声を高め再び大蔵総裁に就任。 42年まで 20年以上在職し,政府を指導。その間,対外平和政策を推進するとともに,国内的には買収による下院ホイッグ党勢力の安定を基礎に,責任内閣制の発達を促した。 37年以降政治的立場が弱まりはじめ,対スペイン戦争,オーストリア継承戦争 (1740~48) における戦況の不利からウォルポールに対する不満が高まり,41年の総選挙では勝利を収めたものの,翌年辞職した。辞任後,初代オーフォード伯に叙せられた。

ウォルポール
Walpole, Sir Hugh (Seymour)

[生]1884.3.13. ニュージーランド,オークランド
[没]1941.6.1. カンバーランド,ケジック
イギリスの小説家。ケンブリッジ大学卒業。 1909年に処女作『木馬』 The Wooden Horseを発表。『ペリン氏とトレイル氏』 Mr. Perrin and Mr. Traill (1911) は学校生活を主題とする小説で,続く『不屈の勇気』 Fortitude (13) で大成功を収めた。『秘密都市』 The Secret City (19) によってジェームズ・テート・ブラック賞を得,晩年は歴史小説に新境地を開いた。ほかに,コンラッド,トロロープに関する評論など。

ウォルポール
Walpole, Horace, 4th Earl of Oxford

[生]1717.9.24. ロンドン
[没]1797.3.2. ロンドン
イギリスの小説家,政治家。首相 R.ウォルポールの子で,国会議員。ロンドン近郊ストロベリー・ヒルにゴシック風の大邸宅を構え美術品を集め,ゴシック小説『オトラントーの城』 The Castle of Otranto (1764) を書いて,いわゆる恐怖小説の流行をもたらした。 1732年から 97年の間に書かれた書簡も有名で,自伝的な記述のほか当時の社会,政治に関する観察や意見がみられ,資料としても重要である。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウォルポール」の解説

ウォルポール
Robert Walpole, 1st Earl of Orford

1676~1745

イギリスの政治家。ホイッグ党の下院議員,陸軍長官などをへて南海泡沫事件後の混乱期に政権を掌握,1721年以降第一大蔵卿を務めた彼が最初の首相(在任1721~42)として長期政権を維持し,責任内閣制の発達に貢献した。健全財政と平和政策によって,産業革命を準備した18世紀前半のイギリスの繁栄を支えたが,ピット(大)らの批判を受けて退陣。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウォルポール」の解説

ウォルポール
Robert Walpole

1676〜1745
イギリスの政治家で,責任内閣制度の確立者
ジェントリ(郷紳)出身。1701年ホイッグ党下院議員となり,ハノーヴァー家の始祖ジョージ1世の下で1715〜17年首相兼蔵相をつとめた。国王が政治に無関心のため,初めて議会に責任を負う責任内閣制度を確立。1720年の南海泡沫事件の処理で信望を得,1721〜42年の長きにわたって首相の地位にあった。平和外交に徹したが,オーストリア継承戦争には参加。平和外交政策がピット(大)らに批判され,総選挙でトーリー党に敗れて下野した。

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世界大百科事典(旧版)内のウォルポールの言及

【イギリス美術】より

…18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W.ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717‐97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。一時バリーの協力者であったA.W.N.ピュージンも当時のゴシック的な傾向を代表する。…

【イギリス美術】より

…18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W.ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717‐97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。一時バリーの協力者であったA.W.N.ピュージンも当時のゴシック的な傾向を代表する。…

【オトラント城奇譚】より

…イギリスの文人H.ウォルポールの小説。1764年刊。…

【ゴシック・リバイバル】より

…18世紀の風景式庭園の流行,ピクチュアレスクの美学をひとつの基盤としてイギリスを中心に発生し,19世紀に最盛期を迎え,ヨーロッパ大陸,アメリカにも盛行を見た。中世に対する賛美の念はイギリスに根強く存在し,18世紀中葉には政治家H.ウォルポールが自邸ストローベリー・ヒルをゴシック様式で建築し,この機運の先駆となった。19世紀に入るまで,ゴシック様式は廃墟を賛美するロマン主義の気風のもとで用いられていたが,ラスキンがゴシックを中世の倫理的な価値観の体現と称揚するにいたって,ゴシック復興の機運は建築を中心とする芸術一般に及んだ。…

【推理小説】より


[歴史――外国]
 なぞ解きを扱った文学作品といえば,古くは旧約聖書にまでさかのぼることができるが,一般に推理小説の起源と考えられているのは,イギリスで18世紀後半に流行した〈ゴシック・ロマンス〉である。H.ウォルポールの《オトラント城奇譚》(1764)や,A.ラドクリフの《ユードルフォの秘密》(1794)などでは,超自然現象的な不思議な現象が,結末で論理的に解明され,人間の恐怖心理が分析され,今日の〈スリラー小説〉の先駆となっている。W.ゴドウィンの《ケーリブ・ウィリアムズ》(1794)は殺人事件を一個人が究明し犯人を自白に追いつめる物語である。…

【トウィックナム】より

…イギリス,ロンドンの西,テムズ河畔の地区。19世紀ころまでは高級な別荘地であり,たとえば18世紀を代表する文人A.ポープの庭園と邸宅,またH.ウォルポールが建てたゴシック風の邸宅ストローベリー・ヒルで有名であった。現在は大ロンドン市の一部としてのリッチモンド自治区に入っている。…

【イギリス】より

…両派の名称が,互いに相手をアイルランドの追剝(Tory)や狂信的反徒(Whig)になぞらえ非難する蔑称として用いられた事実が示すように,パーティは私益や熱狂を国王,王国に対する忠誠に優越させる悪徳の現れとみられがちで,反対党と反逆との境界は時としてあいまいになった。近代の首相prime ministerの起源はこれらに多少遅れ,18世紀前半の有力政治家R.ウォルポールに求められることが多い。もっともこの語にもフランスからの影響が強く,国王の正当な権能を僭取し臣下が分を越えて国政を牛耳ることへの非難や嘲笑の意がこめられていたし,ウォルポール自身も公式にはこの呼称を否認した。…

【ウォルポール】より

…イギリスの文人,政治家。首相ロバート・ウォルポールの末子として生まれる。イートン校,ケンブリッジ大学に学ぶ。…

【ジョージ[1世]】より

…ホイッグ党が議会と行政府の実権を掌握しているイギリスの政治に,54歳で招かれて即位した王はあまり関心を抱かず,国政をみずから任命した大臣たちに一任するようになった。R.ウォルポールを首相とする責任内閣制度の発足は,そのような状況によっていっそう助長されたとみることができよう。【松浦 高嶺】。…

【内閣総理大臣】より

…元来首相prime ministerという語はフランスから借用され,当初は国王の寵愛をたてに大権を私議する臣下という非難の意味で用いられることが多かった。18世紀前半長く政府中枢にいたR.ウォルポールは最初の近代的首相とされる場合が多いが,その成功は議会の支持に劣らず国王や宮廷の支援に負う面が強く,みずからは首相の呼称を公式に否認した。18世紀には呼称も一定せず,だれがどのような意味で〈首相〉なのか当事者にすら不明確な例が少なくない。…

【南海泡沫事件】より

…この事件で多くの地主や商人がその資産を失ったため,政治的にも大問題となり,多くの大臣が故意の陰謀の疑いをかけられた。逆に,事件の処理に手腕を振るったR.ウォルポールが,以後のイギリス政界を牛耳ることにもなる。議会も,事件後〈泡沫禁止法Bubble Act〉を可決して,特殊な例外を除いて株式会社の設立を禁じたために,以後のイギリスの経済発展に深刻な影響を与えた。…

※「ウォルポール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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