スペインにおけるハプスブルク朝(ハプスブルク家)の断絶にともない,その王位と領土の継承をめぐって,フランスとイギリス,オランダ,オーストリアなど対仏連合諸国との間で行われた戦争(1701-14)。1700年の秋に病身で嗣子のないカルロス2世が没すると,遺言によりスペインの全領土は,フランス王ルイ14世(第1王妃がスペイン王女であった)の孫フィリップ(フェリペ5世)に譲られた。オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド1世(在位1657-1705)はこれを認めず,直ちにフランスと国交断絶したが,この遺贈にはフィリップがフランス王位への要求権をいっさい放棄するという条件がついていたので,かねがねスペイン領土の継承に関心をもっていたイギリスとオランダは,当面これを黙認する態度をとった。しかるに翌01年,ルイ14世がさきの遺言に反してフェリペ5世のフランス王位要求権を主張,さらにスペイン植民地におけるフランス商人の特権をフェリペに認めさせたことから,イギリスとオランダは硬化し,皇帝レオポルト1世と結んでフランス,スペインと戦端を開くにいたった。まもなくプロイセン,ハノーファーなどのドイツ諸邦もこの対仏連合に加わり,バイエルンはサボイア家とともにフランス側についた。
戦場はスペイン,北イタリア,南ドイツ,スペイン領ネーデルラント,そして北海,地中海から大西洋にまで拡大した。フランスは,緒戦の勝利にもかかわらず,03年いらい,サボイア家の寝返りや,ポルトガルがイギリスと結んで連合国のイベリア作戦を助けたことなどから守勢に追い込まれ,連合国側が対立王に擁した皇帝の次子カール(スペイン名カルロス,のちのカール6世)は,05年スペインに上陸して,一時は首都マドリードを制圧する。陸戦では,皇帝軍の将サボイ(サボイア)公オイゲンとイギリスの将軍マールバラ公がしばしば勝利を収め,海上では互いに敵側の通商破壊をめざす私拿捕(しだほ)船のゲリラ活動がめざましく展開された。
しかし10年,イギリスのアン女王がマールバラ公と衝突し,政権が主戦派のホイッグ党から和平主義のトーリー党へ移ったのに加えて,翌11年,皇帝ヨーゼフ1世(在位1705-11)が嗣子なく没し,弟のカールが新皇帝に選ばれるにおよんで,イギリスは講和を急いだ。12年の夏にフランスがスペイン領ネーデルラントで皇帝・オランダ連合軍に大勝すると,オランダも和平に踏み切り,その結果,13年4月のユトレヒト条約で,皇帝を除く連合国とフランスの間に講和が成立,翌年3月には皇帝もラシュタットRastattでフランスと和し(ラシュタットの和),戦争は終結した。この戦争でフランスのルイ14世の覇権政策はついえ,他方イギリスは,仏領アメリカ植民地の一部,ジブラルタル,ミノルカなどのほか,通商の上ではオランダを抑えて,スペイン植民地における最恵国待遇をかちとり,海外発展を一段と進めた。
執筆者:成瀬 治
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1701~14年にかけてのフランス、スペインとイギリス、オーストリア、オランダとの間の戦争。1700年にスペイン王カルロス2世が没したが、王には子がなかったので、フランス王ルイ14世の孫フィリップ・ダンジューを後継者に指名し、彼がフェリペ5世として即位した。これに対し海上貿易、とくに新大陸貿易確保の観点から、フランスとスペインとの提携に反対する、イギリス、オランダ、およびスペイン王位継承権を主張するオーストリアの三国は、同盟を結んで対抗し、宣戦した。開戦当初は、フランスが優勢であったが、オーストリアのオイゲン公がイタリアでフランス軍を破ったのち、04年同公とイギリスのマールバラ公が、ブレナムの戦いでフランス・バイエルン連合軍を撃破し、戦局を転換した。イベリア半島に上陸したオーストリアのカール大公の軍も、06年マドリードに入城した。さらに、オイゲン公とマールバラ公は同年それぞれイタリアとネーデルラントで勝利を収めたのち、08年にはウーデナルドの戦いでフランスに大打撃を与えた。一方、海上でも、イギリス、オランダ艦隊はポルトガル沿海でフランス、スペイン艦隊を破り、04年ジブラルタルを占領した。
こうした同盟軍の優勢をみて、ルイ14世も講和を決意したが、その条件について妥協がならなかったため決裂し、戦争は続行された。その後もフランスは、一時戦勢を回復したものの一般的には振るわず、守勢であった。しかし、イギリスでホイッグ党内閣にかわってトーリー党内閣が成立し、オーストリアではヨーゼフ1世が死去してカール6世が即位するなどの同盟諸国の国内情勢の変化により、戦争終結への機運が兆し、1711年イギリスとフランスの交渉をきっかけに、13年ユトレヒト条約の締結となった。その後もオーストリアは戦争を継続したが、これも翌年のラスタット条約で終わりを告げた。なお、この戦争と並行して新大陸ではアン女王戦争が戦われた。
[松村 赳]
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1701~14年フランス,スペイン対イギリス(開戦時はイングランド),オーストリア,オランダ間の戦争。スペイン王カルロス2世が王位をルイ14世の孫フィリップ(フェリペ5世)に遺して1700年に没すると,イングランドら3国は同盟を結んでフィリップの王位継承に反対,開戦した。オーストリアのオイゲン公,イングランドのマールバラらが活躍し,また,海戦の勝利でジブラルタルを占領するなど,戦況は同盟側に有利であった。しかし後半に同盟諸国の国内事情が変化したことで戦争終結の機運が生じ,ユトレヒト条約,ラシュタット条約により終結した。なお,この戦争に並行して北アメリカ植民地ではアン女王戦争が戦われた。
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…このとき,フランスはカタルニャを支援し,オリバレス伯公爵の政策は失敗に帰したが,カスティリャとフランス王国の間で結ばれたピレネー条約(1659)により,ルーシヨン(ピレネー山脈の東端にあったカタルニャ領土)はフランスに奪い取られてしまった。外国の介入を招いたスペイン人同士の戦いは,続く18世紀初頭のスペイン継承戦争においても展開された。この戦争でカタルニャは,カスティリャを援助したフランス・ブルボン王朝の中央集権主義を恐れ,ハプスブルク朝の戦列についたが,1714年9月11日バルセロナが陥落し,敗北を喫した。…
…とくに,カルロス2世が1679年に再婚した後も子供に恵まれなかったことから,スペイン王位継承問題は,その遺産もからんでヨーロッパ全体の一大関心事となった。スペイン王位への候補者としては,最終的に,ブルボン家はフランス王ルイ14世の孫にあたるアンジュー公フィリップ,ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子カール大公をおのおの擁立したが,カルロス2世は遺言で前者を指名したことから,彼の死後,ヨーロッパを二分するスペイン継承戦争が勃発した。その結果,スペインはヨーロッパに所有していた領土のほとんどすべてを失った。…
…イギリスの守備隊と海軍ドックがジブラルタル経済の重要な部分を占めるが,自由港として仲介貿易も盛んであり,観光客も増えている。 ジブラルタルは,1704年8月4日,スペイン継承戦争のときに,王位請求者のオーストリア大公カールを支持するイギリス・オランダ連合艦隊に征服された。しかしスペイン軍はイギリスにではなく,ヘッセン王子ゲオルゲに指揮されたオーストリア大公軍に降伏したため,イギリス軍のルク提督は一方的に大公の旗を下ろし,イギリスの旗を掲げた。…
…皇帝レオポルト1世Leopold I(在位1658‐1705)が83年再びウィーンを包囲したトルコ軍を撃退,全ハンガリーを確保してから,ウィーンはハプスブルク・ドナウ帝国の中心となり,芸術を愛好するバロックの君主たちを生んだ。スペイン系がカルロス2世(在位1665‐1700)で断絶し,スペイン継承戦争が勃発すると,レオポルト1世の次子カール6世も継承権を要求する。兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝,在位1705‐11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711‐40)になると,ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び,スペイン王位はハプスブルク家を離れ,ブルボン家に移った。…
… 17世紀になると,それまで国王が諸都市の自治を承認した上で維持されていた国王と諸都市との協調関係を突き崩す二つの危機が訪れ,ひいては19世紀末からのカタルニャ地方とマドリードの中央政府との対立を生じさせる起因となった。最初の危機はオリバレス伯公爵の中央集権化政策に反対した1640年のカタルニャの反乱であり,2番目はスペイン継承戦争(1700‐14)である。継承戦争に勝利してスペイン国王となったブルボン家のフィリップ(フェリペ5世)は1716年に〈国家基本令〉を発布して,バルセロナの自治制度を否定した。…
…地名はドイツのバイエルン州南西部,ドナウ河畔にあるブレンハイムBlenheim(現在はブリントハイムBlindheim)村に由来する。スペイン継承戦争中の1704年,初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル指揮下のイギリス軍は,ブレンハイム村付近でフランスとバイエルンの連合軍を破った。その功績により時のアン女王からマールバラ公に下賜された領地がこの村である。…
※「スペイン継承戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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