ホイッグ党(読み)ほいっぐとう(英語表記)Whig Party

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホイッグ党」の意味・わかりやすい解説

ホイッグ党(アメリカ)
ほいっぐとう
Whig Party

アメリカ合衆国第7代大統領アンドルー・ジャクソンに反対する諸勢力が結集して形成された政党。合衆国銀行特許延長法案拒否のような強力な行政権限を行使したジャクソンを「アンドルー王」と決めつけ、その支持者をイギリスのトーリー党になぞらえ、これに抵抗するものとして自らを「ホイッグ」と名のった。「国民共和党」と「反メーソン党」という北部に中心拠点をもつ二つの政党が合体して生まれた政党で、ニュー・イングランドウェブスターやアメリカ体制論者ヘンリー・クレイらが指導したが、多数派形成のためカルフーンのような強硬な南部州権論者をも吸収したため、結集力は弱かった。

 最初、党派としては1834年ニューヨーク市選挙で現れ、他の諸州へも勢力を伸ばし、40年ハリソンを大統領に当選させ、議会をも支配した。しかし、ハリソンが就任直後急死し、念願の合衆国銀行再建法は大統領昇任直後の南部州権論者タイラーの拒否権発動によって葬られ、国務長官を除く全与党閣僚が辞任した。ホイッグ立法としてみるべきものは、短期間関税引上げに成功したくらいであった。その後48年の選挙でテーラーを大統領に当選させたが、党内対立を克服できず、50年代の奴隷制反対勢力の台頭に伴う政界再編成のなかで解体し、リンカーン、シュアード、グリーリーのような北部の党員はほとんど共和党に移った。しかし、アメリカ二大政党制度の特徴とされる猟官制スポイルズ・システム)、党大会制度、選挙の際のもろもろの大衆動員戦術等が、このホイッグ党と相手の民主党との競合関係のなかで定着した点は、政党史上画期的なできごとであった。

[安武秀岳]


ホイッグ党(イギリス)
ほいっぐとう

イギリスの政党。自由党前身。1670年代末、カトリック教徒の王弟ジェームズを王位継承者から除こうとした政治家が、スコットランドの反徒を意味する「ホイッグ」Whigという名でよばれたことに由来。対立するトーリー党が王権を尊重したのに対し、ホイッグ党は議会による王権の制限を主張し、名誉革命(1688~89)で議会政治が確立して以後、力を伸ばした。基本的には大地主、貴族の党であったが、商工業階級や非国教徒の支持も受けた。1714年にドイツからハノーバー朝を迎えてからは、同王朝の支持者として半世紀にわたって政権を独占し、ウォルポール以下の首相の下で内閣制度を発展させた。1760年のジョージ3世の即位以後は野党に下ることが多くなったが、この不遇期に、有力貴族を中心とする私的党派から、より近代的な政党に脱皮を遂げた。18世紀末から改革の党としての性格を徐々に強め、19世紀に入って、産業革命期の社会的変化に応じた政策を推進する自由主義的な政党となった。1832年には選挙法改正を実現し、やがて急進派と合流し自由党とよばれるようになるが、それ以後も「ホイッグ」という名が、ホイッグ党の伝統をくむ穏健派の政治家に対して使われた。

[青木 康]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホイッグ党」の意味・わかりやすい解説

ホイッグ党[イギリス]
ホイッグとう[イギリス]
Whig Party

イギリスの政党。 17世紀末に形成され,トーリー党と対立した。もともと馬どろぼうの意で,スコットランドの長老派の反乱者につけられた名称であったが,王位継承排除法案をめぐる議会内の争いで,初代シャフツベリー (伯)の率いる支持派を罵倒する言葉として使用され,定着した。商工業者や非国教徒に支持され,王権制限,議会主権,宗教的寛容,非国教徒擁護を主張。 1688年の名誉革命でホイッグ党の路線が勝利したため,ハノーバー朝成立以降は,R.ウォルポールを代表におよそ半世紀政権を掌握した。 1760年代のジョージ3世の治世にトーリー党に反撃されて分裂し,特にピット (小)内閣の出現以後トーリー政権の時代が続き,19世紀に入っても,フランス革命に対する国民の反作用もあって不振であったが,1830~40年における一連の内政改革,特に選挙法改正 (1832) によって新たな勢力を獲得。自由主義的な政策を主張し,やがて自由党に脱皮した。

ホイッグ党[アメリカ合衆国]
ホイッグとう[アメリカがっしゅうこく]
Whig Party

反ジャクソン派が結成したアメリカの政党。 1829年に大統領に就任した A.ジャクソンは与党である民主党に援護されて革新的な政策を強力に推し進め,これに反対する政治家たちは,国民共和派 National Republicansを組織して対抗し,32年の大統領選挙には H.クレーを候補に立てて争った。しかしこれに敗れたため,34年クレーが中心となりすべての反ジャクソン勢力を呼び集めて,一段と強力なホイッグ党を結成した。このような古びた党名を採用したのは,強大な政府権力に抵抗して自由を擁護したイギリスのホイッグ党のイメージを民衆に植えつけるためであった。 40年の大統領選挙には W.H.ハリソンを候補に立て,勝利したが,ハリソンは就任1ヵ月後に死亡。 44年には再びクレーが大統領候補となったが,民主党の J.K.ポークに敗れた。 48年アメリカ=メキシコ戦争の英雄 Z.テーラー将軍を指名し大統領選挙を勝利に導いたが,50年頃から奴隷問題で分裂し,さらに 52年の大統領選挙でも敗れたため,ついに解散するにいたった。

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