インド南東部,コロマンデル海岸に面する旧フランス領インドの主都。地名は現地名のプドゥッチェリーPuduchcheriに由来し,〈新しい村〉の意。人口22万0749(2001),大都市域人口50万5715(2001)。チェンナイ(旧マドラス)の南南西約150kmにあり,タミル・ナードゥ州の南アルコット県に囲まれているが,連邦直轄領に属する。連邦直轄領としてのポンディシェリーは,コロマンデル海岸では同市のほか,南方約70kmのカーベーリ河口部のカーライカールKaraikal,アーンドラ・プラデーシュ州内東端部にあるヤーナムYanam,またマラバル海岸ではケーララ州内北部のマーヒーMaheの計四つの飛地状の旧フランス領港市からなり,合わせて面積480km2,人口81万(1991)となっている。
市はコロマンデル海岸沿いに延びる砂丘上にあり,その南には潟湖をもつ。南方約3kmのアリカメドゥはこの潟湖の周辺にあり,前1~後2世紀にローマ帝国と南インドとの交易拠点として栄え,ローマ貨幣などが出土している。1664年にフランスは東インド会社を再発足させ,インドへの進出を図った。73年同会社のフランソア・マルタンがここを取得し,83年には恒久的な居留地の建設に着手した。以後,シャンデルナゴル(現,チャンダンナガル。1673取得)とともに同会社の根拠地となった。93-99年にはオランダに占領されたが,イギリスとの間には1730年代までは友好的な関係が維持されていた。しかし42年にJ.F.デュプレックスが総督として着任するに及んで,インドのフランス領化を目ざす彼はイギリスと対立し,カルナータカ戦争をはじめとする諸戦争を南インドで繰り返し戦った。ポンディシェリーはその際のフランス陸海軍の根拠地となった。作戦期の南西モンスーン季には,イギリスの根拠地マドラスに対して風上にあたるという帆船にとって有利な条件を占めていた。しかし1761-63,1778-83,1793-1802年,1803-16年にはイギリスにより占領され,16年最終的にフランス領として確定した。インドにおけるフランス勢力の後退をうけて,以後一港市として存続した。インド独立後1954年の行政権のインドへの移管,62年のインド領への正式編入をうけて連邦直轄領として今日にいたったが,タミル・ナードゥ州への編入を主張する声も強い。
市街は周囲をブールバールで囲まれ,その海岸沿いの東辺は大遊歩道となっている。市中は街路樹の並ぶ直交状の街路網をもち,フランス風の都市景観を残す。海岸に平行して水路が掘られ,それ以東の約3分の1の地区がかつて〈白い街〉と呼ばれたヨーロッパ人地区で,以西は〈黒い街〉と呼ばれたインド人地区であった。〈白い街〉の中央には長方形状の公園(シャルル・ド・ゴール広場)があり,それを取り巻いて諸官庁,博物館,銀行,病院などが並ぶ。市の南東端の鉄道終着駅に接して埠頭が設けられているが,港市としての機能は衰えている。周辺からの米,サトウキビなどを集散するほか,紡績・綿布工場が立地する。市の北方には東西の知恵を総合した新宗教を唱道したオーロビンド・ゴーシュの道場(アシュラム)にちなむ都市オーロビルが1960年代より建設されつつある。
執筆者:応地 利明
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