百科事典マイペディア 「フランソア」の意味・わかりやすい解説
フランソア[1世]【フランソア】
→関連項目クレメンス[7世]|シャンボール城館|フォンテンブローの宮殿と庭園|フォンテンブロー派|マロ|モナ・リザ|レオ[10世]|レオナルド・ダ・ビンチ
フランソア[2世]【フランソア】
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フランス王(在位1515~47)。王妃は従兄(いとこ)で先王ルイ12世の娘クロード。1519年神聖ローマ皇帝位をスペイン王カルロス1世と争って敗れ、フランスはハプスブルク家によって包囲されるはめに陥った。イタリアの覇権を求め続け、皇帝軍と四次にわたる戦争を繰り広げた。25年パビーアの戦いで敗北し、マドリードで1年間の捕囚の身となった。文学、芸術を愛し、ユマニストの保護者でもあり、コレージュ・ド・フランスを設立し、イタリア・ルネサンスの導入に大きな役割を果たした。16年にはレオナルド・ダ・ビンチをイタリアから招いている。宗教の面では、初めは姉マルグリットの影響で福音(ふくいん)主義者たちには好意的であったが、カトリックのミサを罵倒(ばとう)する檄文(げきぶん)事件(1534)を機にプロテスタント迫害に転じた。フランス語がラテン語にかわって公用語とされたのは、この王の治世期からである。
[志垣嘉夫]
フランス王(在位1559~60)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシス。王妃はスコットランド王女メアリー・スチュアート。王位を継承しても、実権を王妃の伯父たちギーズ公フランソアやロレーヌ公シャルルにゆだねたので、これにプロテスタントの指導者ナバール王アントアーヌや弟のコンデ親王が強く反発し、アンボアーズ城から王を奪回する陰謀にまで発展した。この事件は失敗に終わった(1560)が、王自身は新旧両派の信仰の対立がもたらすフランスの混迷になんらの役割も果たすことなく、同年病死した。子宝に恵まれなかったので、王位は王弟シャルル(9世)に移った。
[志垣嘉夫]
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…58年皇太子と結婚。翌年夫はフランソア2世として即位したが,1年後に病没したため,61年帰国した。当時のスコットランドでは,貴族の派閥間抗争が新教徒と旧教徒,さらには親イングランド派と親フランス派の確執と結びついて激烈をきわめていた。…
※「フランソア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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