改訂新版 世界大百科事典 「カルナータカ戦争」の意味・わかりやすい解説
カルナータカ戦争 (カルナータカせんそう)
1744-61年の間,英仏東インド会社の対立を中心に,インド各地の諸政治勢力をまじえて南インド(カルナータカKarnātaka地方)を舞台に行われた3次にわたる戦争。それまで,英仏各東インド会社は,マドラスとポンディシェリーをそれぞれ拠点に商業活動に専念していた。しかし,1744年に伝えられたヨーロッパでの英仏交戦(オーストリア継承戦争)の知らせは事態を急変させ,46年にデュプレックスを総督とするフランス側はマドラスを攻略した。その前後,イギリス側がナワーブ(太守)に保護を要請していたため,これ以降,英仏間の抗争はインドの政治諸勢力を巻き込むものとなった。この抗争は48年の協定によるマドラス返還で一時停止した(以上第1次)が,その後も南インドの最高権力者であるニザーム位やナワーブ位の地位継承争いに英仏がおのおの対立する人物を推して介入したため,混乱が続き戦闘が繰り返された。その間,フランスが広く領土を支配しえた時期もあったが,泥沼化したティルチラパリ攻略戦で疲弊し,そのため54年に休戦協定が結ばれ,デュプレックスは本国に送還された(以上第2次)。56年,再びヨーロッパでの英仏交戦(七年戦争)の知らせが入り,インドでも戦闘が再開された。しかし,ベンガルでプラッシーの戦に勝利したイギリス側は次第に勢力を増し,61年にポンディシェリーを攻略してフランスの命脈を断った(以上第3次)。これにより,イギリスは残された唯一の海外勢力となり,その後のインド植民地化完成への基盤をつくった。
執筆者:水島 司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報