マイソール王国(読み)マイソールおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「マイソール王国」の意味・わかりやすい解説

マイソール王国 (マイソールおうこく)

南インドのカルナータカマイソール)地方を中心とするヒンドゥー王国衰退しつつあったビジャヤナガル王国のなかから,1610年ハディナードゥの一領主チャーマ・ラージャ4世Chāma Rāja Ⅳによって王権が確立された。国王は代々ウダイヤールUdaiyār (Wodeyār)の称号をもつ。1672-1704年に統治したチッカ・デーバ・ラージャChikka Dēva Rājaは通信制度や18部門からなる行政組織を確立し,またマドゥライにいたる南インド南部への進出によって王国の繁栄を導いた。しかし,1760-99年の約40年間,王国はハイダル・アーリーティプ・スルターン父子のムスリム(イスラム教徒)支配下におかれた。1799年第4次マイソール戦争イギリスがティプ・スルターンに勝利するやただちに王国を復活し,5歳の幼帝クリシュナ・ラージャKrishna Rājaを立てたが,実質上はイギリスの傀儡かいらい)王国であった。1831年には王権を廃してイギリスの直轄支配領となったが,81年にチャマラージェンドラChamarājendraを擁して再びマイソール藩王国を樹立した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マイソール王国」の解説

マイソール王国(マイソールおうこく)
Mysore

インドの南部,カルナータカ地方に興った王国。王はヒンドゥー教徒で,「オデヤ」の称号を持つ。1610年,ラージャヴィジャヤナガル王国から分かれて即位し,王朝を樹立した。初め在地有力者層の連合政権としての性格を持っていたが,チッカ・デーヴァ・ラージャ(在位1673~1704)の時代に内政・軍事改革が行われ,集権的政治体制が構築された。しかし1760年頃,家臣だったムスリムの軍人ハイダル・アリー実権を奪われた。99年,アリーの子ティプー・スルタンマイソール戦争に敗れて死ぬと,イギリスはヒンドゥー王権を復活させた。その後イギリス領インドに編入されたが,1881年,再び王権が復活させられて藩王国となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マイソール王国」の解説

マイソール王国
マイソールおうこく
Mysore

南インドのカルナータカ(マイソール)地方を中心とするヒンドゥー王国
ヴィジャヤナガル王国の衰退の中から1610年に領主チャーマ=ラージャ4世が同王国を建設した。首都はマイソールの郊外セーリンガパタム。17世紀末には南インド南部への勢力拡大により最盛期を現出した。しかし,王国は1760年から約40年間,家臣のハイダル=アリー父子によって簒奪され,イスラーム教徒の支配下に置かれた。この間,4回のマイソール戦争でイギリスに敗北し,1799年以降はイギリスの従属下に置かれ,傀儡王国となった。

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世界大百科事典(旧版)内のマイソール王国の言及

【カルナータカ[州]】より

…カンナダ語圏の西海岸への拡大もこのような歴史的基盤にもとづいている。18世紀にはヒンドゥー王家を倒したムスリム王家のマイソール王国が成立した。同王国は4次にわたってイギリスとマイソール戦争を戦ったが,1799年のティプ・スルターンの戦死により崩壊した。…

※「マイソール王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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