独立前の植民地インドでイギリスの宗主権下に存続を認められた半独立的王侯の領地。統治機構上,イギリス議会が管轄する英領インドと区別された。総督ダルフージーDalhousieの時期(1848-56)には旧封建支配層の領土は英領に吸収する策をとるが,1857-59年のセポイの反乱(インド大反乱)を機にインド内のイギリス統治の忠実な友としてその存続がはかられる。1927年のインド藩王国委員会報告ではその数562,面積は当時のインド全体の45%,人口で24%を占めた。各藩王国の面積,人口,税収額,全般的重要度はそれぞれ異なる。王はヒンドゥーならマハーラージャ,ムスリムならナワーブ(ハイダラーバードではニザーム)と称された。全体として藩王国内の行政は封建的部分が多く,イギリスの指導下ではあるが,近代的統治形態の導入をはかったマイソールや開明君主とよばれる王を出したバローダなどは例外的である。藩王はイギリスとの個別的条約により一定の権限を保証されたが,レジデントなど各級のイギリス人駐在官の監視下にあって,実際には限られた内政権のみが許された。27年に全インド藩王国人民会議が結成され,住民の政治的要求を打ち出す運動が展開された。47年のインド分離独立とともにほとんどの藩王国がインド(一部はパキスタン)に統合されたが,ハイダラーバード,ジュナーガド,カシミールは併合をめぐり紛糾し,結局は前2者はインドに吸収,カシミールはその後もインド・パキスタン両国間の紛争点となる。
執筆者:内藤 雅雄
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植民地時代のインドで,イギリスが間接支配した地域。イギリスは征服した地域の事情によっては,旧来の支配者を残し,その支配者を通じて間接支配する政策をとった。その際条約を結び,軍事・外交の権限をイギリスに委ねさせ,内政を監視するための弁務官を置くことを認めさせた。シパーヒーの反乱まではイギリス領インドへ併合する政策を進めたが,反乱を契機に保護策に転じた。これ以後藩王国は植民地支配の藩屏となった。ハイダラーバード,カシュミール,トランバンコールのように大規模なものから,数カ村程度にすぎないものまで含めて,総数は600前後に上り,そこにインドの人口の4分の1が住んでいた。1947年のインド・パキスタン分離独立時には,大藩王国の帰属が問題になり,ハイダラーバード,カシュミールのように紛争の種を残した例もある。
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…独立とともにインドはただちに二つの重要な問題に直面した。ひとつは藩王国の処理であり,他は分割にともなう混乱の解決である。 藩王国とはインドの国内に存在していた約500の大小さまざまの君主国で,イギリスの一種の保護国であり,その内部では藩王による専制的な体制が維持されていた。…
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