日本大百科全書(ニッポニカ) 「マヤ美術」の意味・わかりやすい解説
マヤ美術
まやびじゅつ
マヤ文化と同様、その美術も古典期と後古典期の二つに分かれる。
[深作光貞]
古典期
200~900年ごろまでのこの期の美術では、まず建築があげられる。建物それ自体は擬似アーチであり、入口も窓も部屋も小さいが、屋根の上に屏風(びょうぶ)のような石の飾り塀をのせて建物を荘重にみせたり、建物の前面を彫刻した石や化粧漆食(しっくい)で飾りたてたりして、建物装飾の極限をみせている。棟上装飾塀の代表的なものはパレンケの神殿であり、ファサード(前面)装飾の華麗なものはサイル宮殿やウシュマルの亀(かめ)の神殿、およびカバーやラブナーの遺跡のそれである。ピラミッド墳墓で代表的なものはパレンケの「法律の神殿」で、ここの墓室から発見されたストゥッコ(化粧漆食)製の高貴で知的な表情の首は、マヤ彫刻の傑作である。彫刻では、この首のほか、前述のファサード装飾のなかから単独で取り出しても美しいものが多く、なかでもウシュマルの「女王」、クンピチュの「男子石像」が代表的である。時の運行を記念するステラ(石碑)の彫刻では、ホヌタの「オウムと神官」、ヤシュチラン出土の「楣24号」が有名。このほか土偶ではカンペチェやタバスコ地方のもの、ハイナ島の墓地から出土するものが知られている。絵画はあまり残っていない。しかし1946年チアパス州の密林の中から発見されたボナンパクの壁画は優れ、とくに「捕虜審判」は、水色をバックにして、裁く者と裁かれる者との切迫した雰囲気のみなぎる傑作である。
[深作光貞]
後古典期
9~10世紀ごろからメキシコは各地とも軍国時代に入り、戦闘的集団の南下大移動があった。なかでもトルテカ人は強力で、その影響を強く受けたタバスコ地方のマヤ集団がユカタン半島に侵入し、ユカタン半島のチチェン・イツァーを根城に、トルテカ文化をマヤ文化に合体させた。美術にもトルテカの首都トゥーラにみられた「翼ある蛇」や人身供犠(くぎ)のモチーフが導入され、建築にしても神殿建築より宮殿建築が重要視された。チチェン・イツァーの建物はトルテカ化して柱も戸口も部屋も大きくなる。「ククルカンのピラミッド」(ピラミッド)には、全体の階段数を1年の日数と同じ365段にするなど、いろいろなマヤ暦の具体的数が建物に組み込まれている。またトルテカ的モチーフの仰臥(ぎょうが)人像チャクモルの巨大石彫もある。
この地に残る祭儀的球戯場の石塀浮彫りには、正装の神官や支配者たちの姿とともに、生贄(いけにえ)の首がはねられ血が蛇となって飛び散る光景が彫り込まれ怪奇である。生贄を投げ入れて祈祷(きとう)したセノーテ(泉水)の水底からは金や銅の工芸品が発見された。祭場であった洞窟(どうくつ)から土器や香炉が出土しているが、文様にはトルテカ的なものとマヤ的なものとが共存している。
このように後古典期のマヤ文化は、トルテカ文化との複合によって新味を出したが、チチェン・イツァーの王室が倒れると、美術も退行の一途をたどっていった。
[深作光貞]
『高山智博解説『グランド世界美術7 マヤとインカの美術』(1975・講談社)』