ピラミッド(読み)ぴらみっど(英語表記)pyramid

翻訳|pyramid

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピラミッド」の意味・わかりやすい解説

ピラミッド
ぴらみっど
pyramid

石あるいはれんが造りの四角錐(すい)の建造物。エジプトにあるものとラテンアメリカにあるものが著名だが、その建造目的は異なる。

[酒井傳六]

エジプト

名称の由来

語源はたぶんギリシア語のピラミスpyramisである。ギリシア人は紀元前7世紀以来エジプトに定住し、前5世紀には学者、旅行者の来訪も続き、古代エジプトの地名、記念物にギリシア語の呼称を与えた。これが後世の慣習的な呼称となるのだが、ピラミスはギリシアの三角形のパンで、形の類似から大四角錐(すい)の記念物にピラミッドという名称を与えた。古代エジプト人自身はメルとよんでいた。メルは「上昇」または「高所」を意味した。メルは一般的な呼称で、個々のピラミッドはそれぞれの名称をもち、その名称でよばれた。たとえば、クフ王の大ピラミッドの名は「アケト・クフ」(クフの地平)である。

[酒井傳六]

ピラミッド祖形の出現

ピラミッドはまず王墓として、ついで王族の墓として築造された。その形状は一挙に実現されたものではなく、長い前史があった。エジプトの先史時代に、死者を埋葬し、その上に土砂の塚で覆いをつける習慣はすでに生まれている。前3000年ごろから王朝時代に入って、マスタバ(腰掛型墳墓)が王墓の形体として生まれ、日干しれんがでつくられた上部構造の規模は大きくなり、また堅固なものとなった。これは三つの役割をもっていた。地下の埋葬室を保護し、墓の存在を明示(あるいは誇示)し、死者のための定期的祭事を営む場所になる、ということであった。一方、下部構造では、徐々に岩盤の中に室をつくるという方式が生まれ、また墓室に収める飲食物用の石の壺(つぼ)が尊重されたので、石を扱う技術が発達した。

 このような前史を経て、第3王朝(前2700ころ~前2600ころ)2代目の王ジョセルのときに大石造建築物がサッカラに出現した。その設計者・指揮者は宰相イムホテプで、宰相となる前にヘリオポリスの上級祭司を務めていた。イムホテプは、ヘリオポリスの教義、すなわち太陽信仰の教義に基づいて王墓を築造しようと考えた。ヘリオポリスの神聖石「ベンベン石」は発想の第一の源であった。隕石(いんせき)であったはずのこの石は円錐形をしており、太陽信仰の一つの神像であった。次に、王は太陽の子であり、死して昇天し太陽に合体するという教義にとっては、天に向かって伸びる高い王墓という形体が望ましいものであった。

 彼はまず基辺62.9メートル、高さ8.3メートルの方形マスタバを築いた。そのあと、5回の増築工事によって、上段にゆくほど小さくなるマスタバを積み重ね、広がりと高さを加え、東西軸の辺を121メートル、南北軸の辺を109メートルとする長方形の基底の上に、6層の段をなす高さ60メートルの階段ピラミッドを完成した。ピラミッドの祖形がここに出現した。東西軸の辺を長くしたのは、南北軸の辺を長くした初期王朝のマスタバと対照をなすものであり、太陽信仰の教義に従って東西軸を重視したためであった。

 下部構造は、この地上建築物より先につくられた。王のミイラを収める玄室のほか、彫像を収める特別室(セルダブ)、供物・副葬品を収める多くの室、これを結ぶ通廊、王の活動を描く壁面のレリーフ、それらが上部のピラミッドより前に、岩盤の中につくられた。玄室は地下27メートルのところに、7メートル平方の室として掘ってある。下部構造には、王妃をはじめとする王族用の墓も設けられた。

 上部構造では、ピラミッドを中心に南北軸の1辺545メートル、他辺277メートル、高さ10メートルの長方形の囲壁が築かれ、囲壁内に神殿ほか多くの建造物が建てられた。囲壁はエジプト王権のシンボルである蛇の彫像が飾られ、14か所に参入門をしつらえたが、13か所はあかずの門であり、1か所だけが参入用に開閉された。

 ジョセルのあと即位したセケムケトはサッカラに、次の王カバはずっと北のザウィエト・エル・アリアンに、その次の王ネブカは同じ地に、それぞれのピラミッドを、いずれも階段ピラミッドの形で築いた。

[酒井傳六]

純正ピラミッドの出現と発展

第3王朝の最後の王フニは、サッカラから20キロメートル南のメイドムに階段ピラミッドの建造を始めたが、完成をみないで治世を終えた。その子スネフル王は第4王朝(前2600ころ~前2450ころ)を開き、壮大で華麗な純正ピラミッドの創始者となった。まず彼は、未完のメイドムのピラミッドを8段のピラミッドとして築き、ついで段の部分を外装石材によって埋め、滑らかな斜面とした。ここに、高さ92メートル、基辺144メートル、勾配(こうばい)51度53分の、最初の純正ピラミッドが実現した。ただし、メイドムのピラミッドについては、フニ王が起工し完成した、またはスネフル王が起工し完成した、という異説もある。

 スネフル王は、さらにダハシュールに低勾配ピラミッドと屈折ピラミッドを築いた。いずれも他に例をみない独創的なものである。前者は、基辺220メートル、高さ104メートル、勾配43度22分である。後者は、基辺183.5メートル、高さ105メートルであるが、高さ44.9メートルまでの勾配は54度27分であり、それから上は43度22分となっている。二つのピラミッドを合成した形の屈折ピラミッドは、内部に、二つのピラミッドに対応する2組の室、通廊、入口の設備をもっている。これは、上・下エジプトの「二つ」の国からなるエジプトの王の、「二つ」に対する真剣な配慮のためとみられる。

[酒井傳六]

大ピラミッド

スネフルの子クフ王は大ピラミッドの建造者である。造形、天文学幾何学、建築の最高の達成を、この王はピラミッドによって示した。彼はピラミッドの建造敷地をギザ(ギゼー)の丘に選び、基辺230メートル、高さ147メートル、勾配51度50分のピラミッドを、基辺を基本方位に合致させて築いた。平均2.5トンの石を230万個積み上げたと計算されている。建造方法については、ヘロドトスをはじめとしていくつかの説が出されているが、今日では、ピラミッドの1辺に直角に向かう斜道を利用して石材を運んだとする説が一般化している。この斜道跡はメイドムとダハシュールで発見されている。

 大ピラミッドは、北面下部に入口をもち、通廊が下降して地下の室に通ずる。この地下室は未完である。下降通廊の途中で上昇通廊が始まり、やがて水平通廊に結び付く。水平通廊は「王妃の間」とよばれる室に達する。上昇通廊と水平通廊との交点の所から、上に向かって、高さ8.5メートル、長さ48メートルの大通廊が始まる。大通廊の終点から水平通廊となり、4組の落し戸の装置を経て王の間に入る。王の間は幅5.2メートル、奥行10.45メートル、高さ5.8メートルで、天井は9枚の花崗(かこう)岩で覆われている。この花崗岩は、それぞれが50トンの重さをもつと推定されている。王の間の西側に石棺がある。今日では石棺の蓋(ふた)はなくなっている。この室の北と南に外に突き抜ける孔(あな)がつくってある。この孔についてはいくつもの仮説がある。王に殉死する側近と祭司がこの孔から空気を得たとか、この孔を用いて天体観測をしたなどである。後者の説は、ピラミッド全体を天体観測所とみなす説と結び付いている。今日では、この孔は、まだ解明されていない特別の宗教上の意味をもっていたものとする考え方が有力である。王の間の天井の上には、相重なる五つの小室からなる重量拡散装置が設けてある。

 巨大さと美しさを一体化したこの大ピラミッドは、内部の複雑さと不思議さによってもまた、古来、人々をひきつけてきた。1977年にはエジプト・アメリカ合同調査隊が音響測定法によって未知の空洞部(室)を探し、王の間と王妃の間の中間地点にもう一つの室があるとの測定結果を発表した。

 大ピラミッドは付属建造物をもち、それら全体がピラミッド・コンプレックス(ピラミッド複合)をなしていた。第一は5隻の船の溝で、三つは東に、二つは南にある。古くから知られている東の三つは、船形の溝だけで、考古学者の手が及んだときには船はなかった。南の溝の一つは1954年に発見され、そこに解体した木造船が収めてあった。それを組み立てたところ、全長43.4メートル、高さ5.9メートル、排水量45トンの船となった。南の溝のもう一つの船は、保存措置上の問題があるため、まだ掘り出されていない。船の埋葬は太陽信仰と結び付いていたはずである。

 大ピラミッドの東側に上神殿が、ずっと離れて下神殿(河岸神殿)がある。ピラミッドが二つの神殿を備えるのは、この大ピラミッドからである。また、大ピラミッドの東側に、王妃のための小形ピラミッドがある。王妃がピラミッドをもつのは、これが初めてである。

[酒井傳六]

カフラ、メンカウラのピラミッド

クフ王の次の次の王カフラもまた、巨大ピラミッドをギザに築いた。俗に第二ピラミッドとよばれ、基辺214.5メートル、高さ143.5メートル、勾配53度7分である。勾配値が大きいのと、ピラミッドの建設敷地が大ピラミッドの場所よりすこし高いために、外観では第二ピラミッドのほうが大ピラミッドより高い。第二ピラミッドは頂上部に外装石材の一部をいまもとどめている。

 第二ピラミッドは、上・下神殿のほかに大スフィンクスを、ピラミッド・コンプレックスの中に含んでいる。これは石灰岩の丘にじかに彫った人面獅子(しし)像で、組み立てた像ではない。墓地の守護者としてつくられた大スフィンクスは、顔を東に向けている。太陽信仰のもう一つのしるしがここにみられる。

 カフラ王のあとに即位したメンカウラ王もまたギザにピラミッドを築いた。基辺105メートル、高さ65.5メートル、勾配51度20分で、前二者に比べると著しく小規模である。王妃のための三つの小形ピラミッドも築かれた。

[酒井傳六]

ピラミッド・テキスト

第5王朝(前2450ころ~前2360ころ)の王も、第6王朝(前2360ころ~前2200ころ)の王も、ピラミッドを造営した。しかし、その規模は小さく、第4王朝時代のピラミッドに及ぶものは現れなかった。しかし、規模が小さくなったかわりに、信仰上の配慮は以前より入念になった。ピラミッドの墓室に刻む祈祷(きとう)経文、つまりピラミッド・テキストが現れたからである。

 ピラミッド・テキストは、第5王朝の最後の王ウナスのピラミッドに初めて刻まれた。それは、古くからの信仰の集大成であって、ウナス王の時代に全部が突然に生まれたわけではない。ピラミッド・テキストは神々の業績を語り、王のあの世の旅の安全を祈る経文であるが、ここに太陽の子としての王の地位が明文化され、太陽に帰一する昇天の公道として、船と光と階段(梯子(はしご))が示されている。ジョセル王のピラミッド以来発展してきたピラミッドの形体の神学上の根拠がそこに認められる。

[酒井傳六]

中王国時代のピラミッド

第3王朝から第6王朝までを古王国時代またはピラミッド時代とよぶが、ピラミッドは古王国時代固有の墓であったわけではない。第7王朝から第10王朝に至る混乱の第一中間期(前2200ころ~前2160ころ)においても、二つのピラミッドが築かれたことが知られている。ついで全土を統一して興った中王国時代(前2160ころ~前1750ころ)の王は、明らかに古王国時代の王にあこがれて、ピラミッド築造に力を注いだ。第12王朝の6人の王はそれぞれ、かなりの規模のピラミッドをつくった。最大のものは2代目の王センウスレト1世のピラミッドで、これは基辺105メートル、高さ61メートル、勾配49度である。このピラミッドは、周りに王妃、王族のために10基の小形ピラミッドを伴っている。周りに10基も小形ピラミッドを備えているのはこれだけである。

 中王国時代のあと、第13王朝から第17王朝までの混乱の第二中間期(前1750~前1580)の初期に四つの小形ピラミッドがつくられ、ピラミッド建造はこれで終わった。末期王朝時代ヌビアの諸王がピラミッドを築いているが、規模、材質、構造からみて、エジプトのピラミッドとは類を異にする。今日、エジプト全土で知られているピラミッドの総数は81基である。なお、ギゼーからダハシュールまでのピラミッド地帯は1979年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として登録された。また次に述べるアメリカ大陸でも数か所の世界遺産登録地がある。

[酒井傳六]

アメリカ大陸


 北アメリカには、ミシシッピ文化に大きな盛り土のマウンドをつくる習慣があったが、ピラミッドがもっとも多くつくられたのは、メソアメリカ(中央アメリカ)と中央アンデス地域である。一般にアメリカ大陸のピラミッドは、祭祀(さいし)場であり、供儀・礼拝の行われる神殿を支える基壇という性格が強かった。ただしマヤ文化古典期のパレンケの「法律のピラミッド」の例にみられるように、基壇としてのピラミッドの内部に高位の神官や王を埋葬したものもある。

 メソアメリカ地域におけるピラミッドは、メキシコのオルメカ文明の中心地ラベンタその他でつくられたものがいちばん早いと考えられる。ラベンタのピラミッドは80メートル×140メートルの底部の上に、粘土を固めてつくった円錐(えんすい)形の建物である。年代は紀元前10世紀にさかのぼると考えられるが、それよりやや下ると、メキシコの中央高原に石造のクイクイルコのピラミッドが現れ、やがて紀元初頭に開花したテオティワカンの宗教都市においては、太陽、月、ケツァルコアトル神などに捧(ささ)げられた巨大なピラミッドが続々つくられた。この三つのうち最大のものは太陽のピラミッドで、底辺が約225メートル、高さは65メートルある。また、テオティワカンの影響を受けたモンテ・アルバン、カミナルフューなどにもピラミッド群が形成された。カミナルフユー以後のマヤ文化においては、とくにピラミッドは神殿構築の際の重要な部分となった。メキシコ湾地方のエル・タヒンには、多くのニッチ(壁龕(へきがん))で飾られた特異な型のピラミッドがつくられた。

 ピラミッドは、その後トルテカ文化、アステカ文化にも引き継がれ、とくに後者の中心地テノチティトラン(現、メキシコ・シティ)やトラテロルコ、チョルラなどに建設された大ピラミッドは、征服者のスペイン人たちを驚嘆させたという。

 アンデス地方においては、初期農耕期に早くもアドベれんがを積んだピラミッドが、ペルー海岸でかなりつくられた。しかし本格的な大ピラミッドの構築は、モチェ文化を中心としたペルー北海岸の多くの谷の文化開花期に盛んになった。同じころ、南アンデスのティアワナコ文化にも盛り土のピラミッドが現れている。ペルーにおいては、石造のピラミッドはほとんどみられない。また最後のインカ期には、ピラミッドはあまりつくられず、わずかに海岸地方のパチャカマクの大神殿があげられる程度である。アンデスのピラミッドも、その頂上で供儀・礼拝の行われる場所であったらしい。

[増田義郎]

『J・P・ロエール著、酒井傳六訳『ピラミッドの謎』(1973・法政大学出版局)』『コットレル著、矢島文夫訳『ピラミッドの謎』(1957・みすず書房)』『クルト・メンデルスゾーン著、酒井傳六訳『ピラミッドの謎』(1976・文化放送開発センター出版部)』『石田英一郎編『マヤの神殿』(『世界の文化史蹟 第9巻』1968・講談社)』『L・G・ルンブレラス著、増田義郎訳『アンデス文明』(1977・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピラミッド」の意味・わかりやすい解説

ピラミッド
pyramid

古代エジプトの王墓の1種。正四角錐で東西南北の方位に合せて置かれる。古王国第3~6王朝時代は,主要なピラミッドが集中して造られたのでピラミッド時代とも呼ばれている。第1,2王朝の王墓はマスタバ,第3王朝ではマスタバを積重ねた階段式ピラミッド,第4王朝以後に本格的ピラミッドが築造された。特にギザにあるクフ,カフラー,メンカウラーの三大ピラミッドが有名で,史上最大のクフ王のものは,高さ 146m,側面 227m,容積約 250万m3である。それ以後は小規模化した。ピラミッドは,王の勢力の反映というよりも,むしろエジプト人の王や死者崇拝の思想に結びついたものである。

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