トルテカ文化 (トルテカぶんか)
メソアメリカ古典期後期(600-1000)の代表的な文化。メキシコ中央高原地方に,テオティワカン(テオティワカン文化)の没落に伴って形成され,メソアメリカ全域に普及した文化の総称。その特徴は,ケツァルコアトル信仰と,この神に関係するシンボル,たとえば羽毛を持つ蛇,金星,天下る神,蛇の口から出現する神,時のシンボル,四つの足などのモティーフが石彫や壁画などにみられること,平面I字形石輪付球技場,防御施設を備えた都市などである。また,その指標となる土器型式は,メキシコ中央高原,西部地方,オアハカ地方に広がるコヨトラテルコ式土器,そしてマヤ地方のテペウ式土器などが代表的なものである。
トルテカToltecaとは〈すぐれた工人〉〈賢者〉を意味し,ある特定の部族を指すのではなく,この時期の文化を担ったメソアメリカ各地の指導者階級をトルテカとしたほうが理解しやすい。その意味でのトルテカたちは,テオティワカンの衰退期に,各地からメキシコ中央高原に集まり,テオティワカンに代わる勢力をつくった。そしてテオティワカンを没落させた後,再び各地へ散っていき,各地方で盛んに建設,芸術活動を行い,地方文化の隆盛をもたらした。そして,各地の中心的都市へ異なった言語集団が集まり散っていくという動きがみられ,都市間の抗争も激しかった。その中で,ケツァルコアトル信仰という統一思想は広まったものの,ついに強力な統一勢力を生むことはなかった。やがて,10世紀の終りころからメキシコ北部の乾燥地帯のチチメカ族のメソアメリカへの侵入と破壊が始まり,トルテカ文化はチチメカ族に影響を与えながらも大きく変容していく。なお,トゥーラ遺跡をトルテカ〈帝国〉の都とする通説には否定的材料が多い。少なくともトルテカ〈帝国〉の指標とされるマサパ式土器とトゥーラの最盛期とは結びつかず,トゥーラでもまたトルテカ文化の中心であった考古学的証拠は見つからない。
執筆者:大井 邦明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「トルテカ文化」の意味・わかりやすい解説
トルテカ文化【トルテカぶんか】
メソアメリカの古典後期(600年―1000年)を代表する文化。テオティワカン文化の没落とともにメキシコ中央高原に形成され,メソアメリカ全域に広まった。トルテカToltekaは〈すぐれた人〉を意味し,単一の部族ではなく,テオティワカンを没落させた各地の指導者階級であり,彼らによって地方文化が隆盛したが,強力な統一勢力は生まれなかった。ケツァルコアトル信仰を一つの特徴とし,すぐれた石造建築や美術・工芸品を各地に残したが,10世紀末ころからメキシコ北部からのチチメカ族の侵入と破壊によって大きく変容していった。現メキシコ市北方のトゥーラ遺跡がトルテカの王国の中心とされてきたが,否定的な見方をする学者も多い。→アステカ
→関連項目アメリカ・インディアン|チチェン・イッツァ|マヤ
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トルテカ文化
とるてかぶんか
テオティワカン文化の滅亡後、10~12世紀にメキシコ中央高原とその隣接地方に覇を唱えたトルテカTolteca人の文化。彼らが一つの民族を構成していたかどうかについては絵文書その他の歴史伝承間に矛盾があり、研究者間でも異説がある。トルテカ文化の中心地はトゥーラ遺跡であるが、そのほかにもトゥーラの名を冠する遺跡(トゥーラ・ショチカルコ、トゥーラ・テオテナンゴなど)があり、テオティワカン滅亡後各地にいくつもの民族集団が中心地を築き、トルテカを自称したものらしい。いずれも10~11世紀が最盛期で、その後、北方からのチチメカ諸族の侵入により滅亡した。ケツァルコアトル信仰、三脚付き彩色土器(コヨトラテルコ式、マサパン式)、階段状ピラミッド形基壇、石柱、チャクモルとよぶ石彫、大規模な人身供儀(ひとみくぎ)、球戯場、銅細工などが特徴的要素で、冶金(やきん)術はトルテカ文化の時代にメキシコ高原に広まったと考えられている。
[大貫良夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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トルテカ文化
トルテカぶんか
Toltec culture
10~12世紀にかけてメキシコ中央高原に栄えたトルテカ族の文化。トルテカ王国の首都トゥラにはケツァルコアトルに捧げられた神殿が建ち,その壁画にジャガーやへびなどの浮彫がみられる。また,この神殿の廃虚から高さ 4.6mもある巨石戦士像が発見されている。トゥラには球戯場もあった。またユカタンではマヤ文明を合併して,トルテカ=マヤという特殊な混合文化をつくり上げた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のトルテカ文化の言及
【アメリカ・インディアン】より
…政治,宗教,工芸,商業での専門分化が進み,社会は階層区分が明確になり,石造の大神殿や宮殿,石彫,壁画,硬玉細工,金銀細工,美しい土器や織物が作られた。中央高原ではテオティワカンのあと,トゥーラを中心とした[トルテカ文化],そのあとの混乱から生まれて諸民族の平定を図った[アステカ文化]など,支配民族とその王国の交替がはげしかった。今日,高原では,[オトミ],[タラスコ],[サポテコ],ミヘなどインディオが存続するが,スペイン人との混血が多い。…
【メソアメリカ】より
…次の〈古典期〉(前期は前100‐後600年,後期は600‐1000年)は大都市の出現をみ,最も華やかで完成された文化が創設された時期である。[テオティワカン文化]が前期の代表であり,後期は史上最も多彩な文化を開花させた活気に満ちた時期で,[トルテカ文化],[マヤ文化]が代表的である。続く〈後古典期〉(前期は1000‐1350年,後期は1350‐1521年)はメキシコ北部乾燥地帯から侵入するチチメカ族の起こす混乱と,そのなかから生まれてくる文化を特色とし,メシカ文化が代表的である。…
※「トルテカ文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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