日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルチネス」の意味・わかりやすい解説
マルチネス(Pedro Jamie Martinez)
まるちねす
Pedro Jamie Martinez
(1971― )
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のロサンゼルス・ドジャース、モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)、ボストン・レッドソックス、ニューヨーク・メッツで投手としてプレー。時速150キロメートル台後半の速球、高速スライダー、チェンジアップで打者を翻弄(ほんろう)する「現球界最高の右腕」である。
10月25日、ドミニカ共和国のマノグアヤボで生まれる。母国のオハイオ・ドミニカン大から1988年、ドラフト外でドジャースに入団。1992年に大リーグへ初昇格したが、当時のエースは兄ラモン・マルチネスRamon Jaime Martinez(1968― )であった。1993年の途中から大リーグに定着し、中継ぎとして10勝をあげた。そのシーズンオフにエクスポズへトレードされ、1994年からは先発専任となって毎年2桁(けた)勝利をマークするようになった。1997年には17勝8敗、奪三振305の好成績に加えて、防御率1.90で最優秀防御率のタイトルも獲得し、サイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を受賞した。1998年にはふたたびトレードされ、レッドソックスへ移籍。1年目こそ無冠に終わったが、1999年は23勝、防御率2.07、奪三振313で投手三冠王となり、2回目のサイ・ヤング賞に選ばれた。この年、オールスター・ゲームで先発し、先頭打者から4者連続三振という快投もみせた。2000年も最優秀防御率と奪三振王の二冠王となり、2年連続でサイ・ヤング賞を受賞した。2001年は故障で7勝にとどまったが、02年は完投を減らして対処し、最優秀防御率と奪三振王の二冠王に返り咲き、03年にも防御率2.22で最優秀防御率に輝いた。2004年は16勝をマークして、レッドソックス86年ぶりのワールド・シリーズ優勝の立役者の一人となった。同年シーズンオフにFA(フリーエージェント)でメッツに移籍した。
[山下 健]
2005年以降
メッツ移籍1年目の2005年は31試合に先発し、チーム最高の15勝をあげた。また、奪三振208はリーグ3位タイで、4年連続奪三振200以上を記録。2006年は通算200勝を達成するも、右肩の故障などもあり、登板23試合、9勝8敗に終わった。前年の故障から戦列に復帰したのは2007年の9月。最終的には5試合の登板にとどまり、3勝1敗に終わったが、復帰戦となった9月3日の対シンシナティ・レッズ戦で、大リーグ史上15人目の通算3000奪三振を達成した。
2007年までの通算成績は、登板試合447、投球回2673と3分の2、209勝93敗、防御率2.80、奪三振3030、完投46、完封17。獲得したおもなタイトルは、最多勝利1回、最優秀防御率5回、最多奪三振3回、サイ・ヤング賞3回。
[編集部]
マルチネス(Edgar Martinez)
まるちねす
Edgar Martinez
(1963― )
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のシアトル・マリナーズで三塁手、指名打者として18年間プレーした。マリナーズを、弱小球団時代から支え続けた「史上最高の指名打者」である。
1月2日、ニューヨークで生まれる。プエルト・リコのアメリカン短期大学から1982年、ドラフト外でマリナーズに入団、1987年に大リーグへデビューし、89年まではマイナー・リーグとの行き来を繰り返したが、90年にレギュラーへ定着した。その年から3年連続打率3割をマークして、1992年には打率3割4分3厘で初の首位打者となった。翌93年は左足大腿部(だいたいぶ)を痛めて42試合、94年はストの影響もあって89試合の出場にとどまり打率も3割を切ったが、95年に完全復活した。打率3割5分6厘で2回目の首位打者を手にし、ホームラン29本、打点113をマークして、ケン・グリフィー・ジュニア、ランディー・ジョンソンらとともに球団史上初の地区優勝に貢献した。以降、7年連続で打率3割以上とホームラン20本以上を記録し、2000年には自己最多のホームラン37本を放ち、打点145で打点王に輝いた。2002年は古傷を痛めて長期離脱を余儀なくされ、ふたたび打率3割を切った。その後も膝(ひざ)痛などに悩まされ、2004年のシーズンを最後に引退した。また、長年の地域貢献を高く評価され、ロベルト・クレメンテ賞を受賞した。
18年間の通算成績は、出場試合2055、安打2247、打率3割1分2厘、本塁打309、打点1261。獲得したおもなタイトルは、首位打者2回、打点王1回。
[出村義和]