マーチン(読み)まーちん(英語表記)Alfred Manuel Martin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーチン」の意味・わかりやすい解説

マーチン(Alfred Manuel Martin)
まーちん
Alfred Manuel Martin
(1928―1989)

アメリカのプロ野球選手(右投右打)、監督。大リーグ(メジャー・リーグ)のニューヨークヤンキース、カンザスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)、デトロイト・タイガースクリーブランド・インディアンスシンシナティ・レッズ、ミルウォーキー・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)、ミネソタ・ツインズでおもに二塁手としてプレー。1969年からはツインズ、タイガース、テキサス・レンジャーズ、ヤンキース、オークランド・アスレチックスで監督も務めた。「喧嘩(けんか)屋」とよばれ、選手、監督時代ともに強烈な個性でファンから愛された。

 5月16日、カリフォルニア州バークリーで生まれる。1950年、ヤンキースに初昇格。好守備と、勝負強い打撃で脇役として当時の黄金時代に貢献した。とくに、1953年のワールド・シリーズでは優勝を決めた第6戦でのサヨナラヒットを含めて打率5割を打ち、シリーズ制覇の立役者となった。しかし喧嘩沙汰(ざた)が絶えず、バーでの乱闘騒ぎが発端で、1957年途中でアスレチックスへトレードされた。以降はチームを転々とし、1961年限りで引退した。1969年にツインズの監督に就任、地区優勝を果たしながら解任された。1971年にはタイガースの監督に就任し、72年には地区優勝しながら、73年の途中で解任された。1973年の途中からはレンジャーズに監督として迎えられ、74年には2位へチームを引き上げながら、75年途中にはまたも解任された。フロントとの対立など、いつもトラブルを引き起こしていたためであった。1975年の途中からはヤンキースの監督に就任。かつての名門球団を復活させ、1976年リーグ優勝、77年にはワールド・シリーズを制した。しかし、オーナーのジョージ・スタインブレナーや主砲レジー・ジャクソンとはでに対立する無軌道ぶりは変わらず、1978年もチームはワールド・シリーズに勝ったものの、シーズン途中で解任された。翌79年途中に復帰したが、シーズン終了後にふたたび解任された。1980年から82年まではアスレチックスで監督を務め、83年にヤンキースへ再復帰。その後も、1985年の途中からシーズン終了まで、88年のシーズン開始から途中までと復帰を繰り返した。

 選手としての11年間の通算成績は、出場試合1021、安打877、打率2割5分7厘、本塁打64、打点333。監督としての通算成績(16年)は、1253勝1013敗、リーグ優勝2回、ワールド・シリーズ優勝1回。

[山下 健]

『モーリー・アレン著、鈴木美嶺訳『"戦う男"ビリー・マーチン 不死身のヤンキー ビリー・マーチン伝』(1981・ベースボール・マガジン社)』


マーチン(Archer John Porter Martin)
まーちん
Archer John Porter Martin
(1910―2002)

イギリスの生化学者。3月1日ロンドンに生まれる。ケンブリッジ大学で博士号取得(1936)。リーズの羊毛工業研究協会勤務(1938~1946)、最初リスター研究所にあった医学研究会議のスタッフ(1948~1959)などを経て、アボッツバリー研究会社の取締役(1959~1970)。おもな業績は、シングと共同研究した分配クロマトグラフィーおよびペーパークロマトグラフィーの開発であり、アセチルアミノ酸を分離しようとして二つの液相間の平衡の確立によって溶質分子を二相の間に分配する方法(1941)を考案し、さらにこの方法を発展させ1944年には濾紙(ろし)によるアミノ酸の分離法を開発、生化学に貢献、これにより1952年シングとともにノーベル化学賞を受賞。また同年にはジェームズAnthony T. James(1922―2006)とともに分配ガスクロマトグラフィーの実験に成功、今日のガスクロマトグラフィーの基礎を築いた。その後もローザンヌの国立工科大学客員教授(1980~1983)などを歴任、多くの賞を得た。日本の勲二等旭日重光章受章。

[岩田敦子]


マーチン(Kenneth Martin)
まーちん
Kenneth Martin
(1905―1984)

イギリスの画家、彫刻家。シェフィールドに生まれる。1923年からデザイナーとして働き始めたが、27~29年にシェフィールド美術学校で、さらに29~32年ロンドンの王立美術学校で絵画を学ぶ。1940年代末、抽象絵画を制作し始める。50年代に入りモビールを手がけ、60年代には野外彫刻としてステンレスによる噴水を制作。70年代には、直線の構成からなる「偶然と秩序Chance and Order」のシリーズを制作した。彼の作品は、絵画、彫刻ともに構成的傾向が強く、イギリスにおける構成主義美術の源泉の一つと目されている。

[斉藤泰嘉]

『Kenneth Martin ; Tate Gallery, 1975(1975, Tate Gallery, London)』『Andrew Forge(introduction and notes)Kenneth Martin(1979, Yale Center for British Art, New Haven)』


マーチン(John Martin)
まーちん
John Martin
(1789―1854)

イギリスの画家。ノーサンバーランドのヘイドン・ブリッジに生まれる。初めロンドンでガラス器や磁器の絵付師として働いていたが、1811年からロイヤル・アカデミーに風景画を出品し始めた。『ベルシャザルの饗宴(きょうえん)』(1821)や『大洪水』(1828)など大画面に壮大な終末論的情景を描いた作品は、当時流行した「崇高」の美学にのっとったものとして広く人気を集めた。彼の作品は、メゾチントによって複製され、ミルトンの『失楽園』や聖書の挿絵とともにヨーロッパ中に広く流布し、ユゴーやゴーチエなどフランス・ロマン派の文人に大きな影響を与えた。マン島で没。

[谷田博行]


マーチン(Dean Martin)
まーちん
Dean Martin
(1917―1995)

アメリカのポピュラー歌手、映画俳優。オハイオ州生まれ。工員やボクサーなどを経て1945年サム・ワトキンス楽団の歌手になった。翌年ジェリー・ルイスJerry Lewis(1926―2017)とコンビを組んで人気をよび、1949年から2人で14本の映画に主演し、1957年に独立した。歌手としてはビング・クロスビーの影響を受け、くつろいだ軽妙な歌い回しで『思い出はかくのごとく』『誰(だれ)かが誰かを愛してる』ほかのヒットを出した。主演映画は『リオ・ブラボー』(1958)、『ジェリコ』(1967)など。フランク・シナトラの親友。

[青木 啓]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

化学辞典 第2版 「マーチン」の解説

マーチン
マーチン
Martin, Archer John Porter

イギリスの生化学者.ロンドンに生まれる.1932年ケンブリッジ大学卒業後,同大学の栄養研究所でビタミンEの抽出分離を研究.1938年リーズの羊毛工業研究所に移り,R.L.M. Synge(シング)と共同してアミノ酸の分離法を研究し,1941年に水を飽和させたシリカゲルカラムにクロロホルムを流下させる分配クロマトグラフィーを考案した.さらに1944年には,セルロース(沪紙)を担体とし,ニンヒドリンでアミノ酸を発色させるペーパークロマトグラフィーを完成させた.これらはきわめて有効な微量分析法として,生化学をはじめとする多くの分野で活用され,1952年Syngeとともにノーベル化学賞を受賞.1946年ブーツ製薬会社,1948年国立医学研究所に移り,1952年10年前に予言した分配ガスクロマトグラフィーをA.T. Jamesと協力して実現し,今日の微量分析法の基礎を築いた.アボッツベリ研究所,ウェルカム研究所,サセックス大学,ヒューストン大学教授などを歴任した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

20世紀西洋人名事典 「マーチン」の解説

マーチン


マーティンを見よ。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

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