日本大百科全書(ニッポニカ) 「シング」の意味・わかりやすい解説
シング(John Millington Synge)
しんぐ
John Millington Synge
(1871―1909)
アイルランド文芸復興運動の生んだ代表的劇作家。4月16日、ダブリン郊外に生まれる。同市のトリニティ・カレッジを終え、大陸へ遊学した。パリで詩人イェーツに会い、その忠告に従って1898年故郷へ帰り、アイルランドの西の離れ島イニシュモア島(アラン諸島)に渡って民衆の間で生活し、その歌や物語を集録した。この島に魅入られた彼は、その後1902年に至るまで五度この地で夏を過ごし、その経験は旅行記『アラン島』(1907)にまとめられている。
そのころ、アイルランドの民族意識に目覚め、イギリスからの独立、文化的自立を目ざす民族的要求のなかから生まれた、イェーツ、グレゴリー夫人Lady Isabella Augusta Gregory(1852―1932)らのアイルランド文芸劇場(1899)の運動は、1902年国民演劇協会となり、1904年以来アベイ劇場によったが、シングは1902年これに加わり、以後7年間に六つの劇を書いた。いずれも祖国の民衆の話で、その人情、風景を描いたものである。『谷の陰』(1903)は、放浪の旅に出る女ノラの哀情ある山間の喜劇、『海へ騎(の)りゆく人々』(1904)は孤島の海の悲劇である。『鋳掛屋(いかけや)の婚礼』(1908)、『聖者の泉』(1905)は、浮浪民衆の夢と現実を扱った喜劇(ないしは悲喜劇)。三幕喜劇『西の国の人気者』(1907)は、アイルランドの西の貧村に飛び込んだ浮浪青年が、民衆の気まぐれから英雄視されるが、その空想がさめると追い出されるという、現実と幻想、ユーモアと哀情の交錯する傑作。もっとも、初演時には、アイルランド人への風刺ととられて暴動に近い大騒ぎになったが、活気ある民衆の生活と人情を描いたシングの代表作である。そして最後に、アイルランドの著名な神話伝説に基づく愛の英雄悲劇『悲しみのディーアドレ』執筆中、1909年3月24日、その優れた才能を惜しまれつつ、38歳の若さで死んだ。「クルミやリンゴのような風味のある」民衆の想像力とそのことばを、散文詩にまで高め、「現実と喜び」を舞台にのせることに成功した天才的劇作家である。
[菅 泰男]
『柿崎正見訳『アラン島』(岩波文庫)』
シング(Richard Laurence Millington Synge)
しんぐ
Richard Laurence Millington Synge
(1914―1994)
イギリスの生化学者。10月28日リバプール生まれ。ケンブリッジ大学で博士号取得(1941)、リーズの羊毛工業研究協会、ロンドンのリスター研究所を経て、ローウェット研究所(アバディーン)のタンパク化学部長(1948)、ノリッジの農業研究会議の食糧研究所に所属(1967~1976)。最大の業績は、A・J・P・マーチンと協力してアセチルアミノ酸を分離する方法を開発中、分配クロマトグラフィーを考案(1941)、さらに濾紙(ろし)クロマトグラフィーを開発した(1944)ことであり、これによって分離困難なタンパク質水解液中のアミノ酸が分析され、生化学に貢献、1952年マーチンとともにノーベル化学賞を受賞した。さらにペプチドの分析方法について研究を発展させ、グラミシジン(ポリペプチド、抗生物質)を分離し、その構造を明らかにした。
[岩田敦子]