改訂新版 世界大百科事典 「メフメト2世」の意味・わかりやすい解説
メフメト[2世]
Mehmet Ⅱ
生没年:1432-81
オスマン朝第7代スルタン。在位1451-81年。ファーティヒ(征服者)とも呼ばれる。1444年父ムラト2世は一時メフメトを王位につけて隠退したが,すぐに復位したため,メフメトの治世は51年の父の死により始まる。53年のコンスタンティノープル(イスタンブール)征服は,ビザンティン帝国を消滅させて外患の種を除く一方,内にはトルコ貴族の勢力を弱め,スルタンの権力を増大させた。メフメト2世はイエニチェリに代表されるカプクル(宮廷奴隷)を重用し,専制君主を戴く官僚制国家の体制を確立した。対外的にはアナトリアとバルカンの両方面に征服活動を続行し,セルビアを併合,ボスニアを服属させ,ペロポネソス半島の大部分を占領し,アドリア海の支配をめぐってベネチアと戦った。またジェノバを黒海から駆逐してトレビゾンド,カッファその他の要衝を奪い,クリム・ハーン国を臣従させた。アナトリアでは宿敵カラマン侯国を併合し,さらに東方へ向かう遠征の途上で陣没した。ロードス島とベオグラードの攻略はついに成功しなかった。度重なる戦役,新首都イスタンブールの建設などは財政を圧迫し,貨幣の改鋳はいっそう状況を悪化させた。カプクルとトルコ貴族の派閥抗争も激化し,メフメト治世の末年は多くの難問に直面していた。
メフメトは激しい気性と合理主義精神に発する決断力,学問・芸術に対する理解の深さ,異質の文明に対する寛容さにおいて,比類のないスルタンであった。
執筆者:小山 皓一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報