モナルコマキ
もなるこまき
Monarchomachi
16世紀後半のフランスにおける宗教的対立(ことには1572年のサン・バルテルミーの虐殺)のなかで生まれ、暴君放伐論を説きながらヨーロッパ各地にその勢力を伸長していった一群のパンフレッチャー(小論文筆者)の呼称。だれがモナルコマキに属するかは争われる。しかし、カルバンを理論上の始祖とし、アルトゥジウスをその完成者としたうえで、ユニウス・ブルトゥスJunius Brutus、ド・ベーズThéodore de Bèze(1519―1605)、オトマンFrançois Hotoman(1524―1590)、ノックス、マリアナJuan de Mariana(1536―1624)らの名をあげる点では一致する。これらの過半はユグノーであったが、旧教徒・イエズス会士の論客をも含んでいる。彼らは、君主と人民の間で結ぶ統治契約の遵守を強調し、君主に義務違反があればその者は暴君に堕するので、人民にはときにその殺害までも許されると主張した(君権擁護派のW・バークリーWilliam Barclayがこの点をとらえて、自らの論敵を「君主にまで攻撃しかける者ども」と非難したのがモナルコマキという名称の由来である)。確かに彼らの所説は天賦人権思想に基づくものではなかったが、人民主権論あるいは人権観の発展史上、無視しえない。
[佐々木髙雄 2018年1月19日]
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モナルコマキ
monarchomachi
暴君放伐論と訳される。自然法あるいは根本法に依拠して,暴君は抵抗されてしかるべきだとする理論。 1572年のサン=バルテルミの虐殺後,ユグノーの間で反君主制理論が発展したが,これはカルバンの理論を先鋭化させた統治契約論といってよい。それによると,君主と人民との間の統治契約には,よき統治者にはよく従うという条件がついている。したがって君主が正義と法とに反したり,人民を抑圧したりするときには,人民はこれに抵抗する権利をもつというのである。 1600年に W.バークリーはこれらの理論家たちを総括して monarchomachsと呼んだが,これがモナルコマキの語源となった。
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世界大百科事典(旧版)内のモナルコマキの言及
【暗殺】より
…このような事例が古く政治権力の出現にまでさかのぼりうることは王殺害regicideが古今東西をとわず各文化圏に存在することからもわかる。古代ローマのカエサル暗殺のように独裁者・暴君を政治的・宗教的理由から殺害することの可否は,暴君放伐論(モナルコマキ)として,ヨーロッパ政治思想のひとつの論点でもあった。また宗教と政治が未分化な社会では宗教的理由から暗殺が行われたが,特に有名なのは,イスラム教イスマーイール派の[アサッシン]Assassinにより行われた暗殺でありヨーロッパで暗殺assassinationの語源となったほどである。…
【国家】より
…
【国家批判の系譜】
近代国家の最初の形態は絶対王政であったから,国家に対する批判もまず絶対王政に対する批判という形をとった。その一つは信仰の自由を守る立場から暴君の放伐を説いたモナルコマキmonarchomachi(ラテン語)であり,他の一つは封建時代に認められていた特権の回復をめざす立憲主義である。とくに立憲主義の主張はのちに普遍化されて,国家権力に対し基本的人権の保障を求める権利章典の制度化を導いた。…
【抵抗権】より
…有名なマグナ・カルタの61条にも一種の抵抗権が確認されている。近世以前における注目すべき抵抗権思想の発現はサン・バルテルミの虐殺事件(1572)を直接・間接の契機として輩出したモナルコマキ(暴君放伐論者)の一連の著作である。その主張は宗教的,政治的,法的などさまざまであるが,なかでもカルビニズムの流れをくむモナルコマキの思想には,近世以降の抵抗権思想に大きな影響を及ぼす内容が含まれているように思われる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」