イギリスの哲学者。ロック,D.ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピesse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。
執筆者:黒田 亘
アメリカ合衆国カリフォルニア州西部,サンフランシスコ湾東岸の大学都市。人口10万0744(2005)。湾と丘陵の間に住宅街が多い。車や湾の下を走る高速鉄道BARTで通えるため対岸のサンフランシスコのベッドタウンでもあるが,カリフォルニア大学の中心キャンパスがここにあるので有名。サンフランシスコ湾周辺地域Bay Areaは自由で解放的な空気が強く,学生たちは1964年政治活動を禁止する大学当局の方針に反抗して〈言論の自由運動Free Speech Movement〉(フリースピーチ運動)を開始した。バークリー・キャンパスのこの運動がその後全米に続発した大学紛争の発端となった。このキャンパスには各国からの学生も多く,国際的な雰囲気をもっている。市名はイギリスの哲学者G.バークリーにちなむ。
執筆者:猿谷 要
アメリカのミュージカル(舞台および映画)の振付師,映画監督。1930年,ブロードウェーからハリウッドへ招かれ,メリー・ピックフォードの唯一のミュージカル《キキ》(1931)などの振付を担当。ワーナー・ブラザースのレビュー映画《四十二番街》(1933),《ゴールド・ディガース》シリーズ(1934-36)などで舞台の制約を超えて空間を映画的に拡大し,モノレールやクレーンにのせたカメラを自由自在に駆使し,とくに真上(トップ)から大俯瞰でとらえたショットは〈バークリー・トップ・ショット〉とよばれ,コーラスガールの群舞のシーンをまるで幾何学模様のように,あるいは万華鏡のように撮って,華麗でリズミカルな場面に構成した独創的で大胆なカメラワークは,ミュージカル映画史上もっとも視覚的な効果を生み出した画期的な映画技法とみなされる。
執筆者:柏倉 昌美
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ロックとヒュームを結び、17~18世紀イギリス古典経験論を代表する哲学者。アイルランドのキルケニーに生まれ、ダブリンのトリニティー・カレッジに学ぶ。卒業後は同大学のフェロー(研究員)になり、初期の重要な作品を世に問うた。1713年ロンドンに出、大陸に遊んだのち帰国、母校の学監となった。公共心・宗教心の衰退を憂え、また、アメリカのバーミューダに理想のキリスト教社会とその精神的拠点となる大学の建設を計画して渡米したが計画の挫折(ざせつ)で帰国、以後著述に専念し、1734年アイルランドのクロインの司教に任ぜられて地方教化に尽くした。晩年はオックスフォードに行き、病没した。「存在するとは知覚されること」Esse est percipiという根本命題に要約されるように、バークリーの哲学は、一方ではロックを継いで知覚される観念を人知の唯一の対象とし、他方ではこの無力な観念とは対照的に能動的で、観念を知覚する精神だけを唯一の実体と認める。後者は「欲し」「行動する」実践的主体でもある。また、彼は『視覚新論』(1709)で、視覚と触覚の別を強調していたが、主著『人知原理論』で、知覚されない抽象観念の存在を否定し、抽象的普遍観念とは複数の個物を代表する機能を与えられた個別的観念だと説く。また、知覚される観念を唯一の対象とする基準から、第一性質の実在性を主張するロックの立場を否定し、さらに物体的実体の存在を悪(あ)しき抽象の極みとして否定する。だが、知覚される観念だけが存在するのであれば、知覚されない対象は存在しないおそれが生じる。バークリーは「世界」と「自我」の認識の範囲とを同一視する「独我論」的帰結を避けるために、「他我」や「主観一般」の知覚によって、個我によって知覚されない観念の存在を保証しようとするが、ついには内在的現象論の立場を超えて、人間の主観を超越した神の心に宿る観念の存在を仮定し、万有を神の心のなかにみるという、マルブランシュに近く、新プラトン主義の色彩をもつ万有在神論へと発展した。この傾向は晩年の著作『アルシフロン』(1732)や『サイリス』(1744)に著しいが、彼の意図は、新興の自然科学の唯物論や同時代の無神論・理神論・自由思想に対して、キリスト教を弁護する護教論にあったといえよう。主著にはほかに『ハイラスとフィロナウスの三対話』(1713)、『視覚論の弁護』(1733)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
『大槻春彦訳『人知原理論』(岩波文庫)』▽『名越悦著『バークリ研究』(1965・刀江書院)』
アメリカ合衆国、カリフォルニア州西部、サンフランシスコ湾に臨む住宅・大学都市。人口10万2743(2000)。州立大学としては合衆国最大の規模を誇るカリフォルニア大学(1868創立)バークリー校の所在地として知られる。学生数3万人、教員数約1500人を擁する同大学は、規模だけでなく、優秀な教授陣と施設をそろえ、合衆国でもっとも優れた大学の一つとして高く評価される。その自由な校風は1960年代の学生運動の原動力となり、自由闊達(かったつ)な学生町として現在も受け継がれている。平均気温14℃と温暖な気候にも恵まれ、東部の丘陵地を中心に美しい住宅地が広がるが、湾周辺を軸とした西部地域には、食品加工、金属、薬品、せっけんといった工業の発達がみられる。1853年オーシャン・ビューとして町が開かれたが、カリフォルニア大学用地として66年バークリーと改名、1909年より市制が施行された。市名は、18世紀の哲学者ジョージ・バークリーにちなむ。
[作野和世]
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…そのなかにあって,キング・ビダー(ビドア)監督のオール・ニグロ・キャストによる《ハレルヤ》(1929),エルンスト・ルビッチ監督で,モーリス・シュバリエとジャネット・マクドナルドのコンビによる《ラヴ・パレィド》(1930),同じコンビでルーベン・マムーリアン監督の《今晩は愛して頂戴ナ》(1932)が〈音〉の処理をめぐるトーキーの技法とともに,ミュージカル映画のスタイルそのものを前進させた。 そしてワーナー・ブラザースでバスビー・バークリー(バークレイ)の振付による《四十二番街》(1934)が,奔放なカメラワークによって音楽と視覚的イメージを華麗に結びつけ,〈フィルム・レビュー〉とか〈シネ・オペレッタ〉と呼ばれるものとは一線を画する新しいスタイルをつくりあげ,続いて〈ジャズ・ビート〉を持ち込んでタップ・ダンスを踊りの基礎にした《ゴールド・ディガース》(1933),《フットライト・パレード》(1933)によってバークリーならではの特色を示した。一方,RKOのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズGinger Rogers(1911‐95)のコンビが,《空中レヴュー時代》(1933)でデビューし,《コンチネンタル》(1934),《トップ・ハット》(1935),《有頂天時代》(1936),《踊らん哉》(1937)等々でジョージ・ガーシュウィン,コール・ポーター,ジェローム・カーン,アービング・バーリンの音楽に乗った〈キャリオカ〉と呼ばれる踊りとともに人気を博した。…
…多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G.バークリー,D.ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者T.リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。…
…sensualisme(感覚論)という用語は19世紀初頭以来,フランスで使われており,フランスの《アカデミー辞典》には,1878年版から採録されている。イギリスでは,sensualistという語は,すでに18世紀以来使用されていたが,この語は語源どおり〈快楽主義的〉〈肉欲主義的〉という軽蔑的意味しかもっていなかった(バークリー《アルシフロン》第2巻,16章)。したがってとくにフランスでは感覚論をあらわすには,sensualismeではなく,正しい語源に由来するsensationnismeという語を使うべきである,とする意見も少なくない。…
…だが経験的観念の理論によって,実体などの観念もさまざまな経験的単純観念の複合体以外には考えられなくなり,それらの背後にあって統一を与える基体といった伝統的実体概念は批判されるに至る。 ロックの観念の用法や考え方は,概念の意味は除いてバークリーにも継承された。バークリーは能動的作用としての精神とその唯一の対象である観念のみを認めて抽象観念を批判し,とりわけロックでは妥協的に許容された物体的実体を徹底的に排除した。…
…この型の観念論は形相主義,イデア主義としての客観的観念論であり,実在論と言いうるが,イデアの認識に関しては主観なしにはありえない。他方,17世紀以来の英仏哲学では,主観ないし心の表象,意識内容としてのアイディア,イデーが観念と呼ばれ,〈在るということは知覚されることであり心は知覚の束である〉と説くG.バークリーの主観的観念論が成立する。この型の観念論は主観内の観念の外部の事物を扱わぬ傾向があり,実在論や唯物論の非難の対象になる。…
※「バークリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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