ジュネーブの宗教改革者。スイス改革派教会の創始者の一人。
1509年7月10日、パリ北部のノワイヨンで弁護士の子として生まれ、早くから優れた教育を受けた。パリ大学のマルシュ学寮およびモンテーギュ学寮で、カトリックの聖職者を目ざしてスコラ学を修めたが、のちに父親の意向に添って法学に転じ、ブールジュ、オルレアン両大学で学ぶ。このころ人文主義を基盤とするフランス国内の教会改革運動に触れ、父親の死後はパリに戻って古典研究に没頭、1533年には処女作としてセネカの『寛容論注解(ちゅうかい)』を出版した。
カルバン自身が「突然の回心」とよぶ福音主義(ふくいんしゅぎ)(プロテスタント)への転向が、いつどのような経過で生起したのかは、いまなお論議の余地があるとしても、1533年秋には明らかに信仰上の理由で、フランスからの亡命を余儀なくされ、各地を転ずる間にチューリヒやストラスブールなどの改革者たちと知り合った。1535年からスイスのバーゼル滞在中に、福音主義弁証の目的をもって執筆された著述は、『キリスト教綱要』Institutio Christianae Religionisの題名のもとに、フランス王への献呈の辞を付して翌1536年春に公刊された。本書は1559年の最終版までラテン語版、フランス語版ともに繰り返し拡張・充実され、プロテスタント神学の集大成として現代に至るもなお古典の地位を保つ。数種類の邦訳を含め各国語訳が多い。
[出村 彰 2018年1月19日]
カルバン自身は学究の道を志したようであるが、ほとんど偶然の事情からG・ファレルに請われてジュネーブの教会改革にかかわり、それ以後没年に至るまで同市の宗教と政治、さらに市民生活全般の福音主義的改変に献身する。一方では当時のカトリック教会の悪弊と誤謬(ごびゅう)を正すとともに、世俗権力(具体的には市参事会)の支配・干渉から独立した自律的教会の形成を目ざしたが、彼の企図は市民の強力な反発を招き、1538年春にはストラスブールに亡命を強いられた。
この地の改革者ブツァーMartin Bucer(1491―1551)との交友によって多くを学んだカルバンは、情勢の変化によって3年半ののちにジュネーブに呼び戻され、サン・ピエール教会の牧師およびジュネーブ学院神学教授として、年間数百回の説教と講義を続け、福音主義の教理と倫理を明らかにする努力を重ねた。前掲の主著のほか、旧・新約聖書注解や各種の論争文、説教、書簡など膨大な著述は『宗教改革著作集』Corpus Reformatorum中に『カルバン著作全集』Calvini Opera Omniaとして収められている。
カルバンは教会権の自律性を確保し、規律ある教会訓練を実施するため独自な教会政治の形態として、平信徒代表も加わる長老制を事実上創始した。それは、専断に傾きがちな監督制でもなく、無秩序に陥るおそれなしとしない会衆制でもない第三の道、すなわち代表制の意思決定手段として、やがて政治の局面にも転用され、近代民主主義の形成にも資するところ少なくなかったと評される。
もちろん、このような企図が一度に実現されたわけではなく、外部からはカトリック諸国の圧力、内部では旧来の市民階層の批判や不満が渦巻き、ことに1553年のセルベトゥス(セルベト)事件はカルバンの指導力への重大な挑戦とも解される。三位一体論(さんみいったいろん)に反対し汎神論(はんしんろん)的な言動をなすセルベトゥスを、カルバンは火刑に処したが、この処置に対して激しい非難がおこった。しかし、20年にわたる努力はしだいに実を結び、1560年ごろからのジュネーブは文字どおり福音主義の牙城(がじょう)として、ヨーロッパ各地から同信の徒を集めた。
[出村 彰 2018年1月19日]
神学思想としては、福音主義の「信仰のみ」「聖書のみ」の二大原理を堅持し、人間の救いが善行という功績ではなく、ただキリストにおける神の恵みへの信頼であることを強調するため予定論を唱えた。このような信仰を保証しているのは聖書であり、その注解に際しては、本文に即して批判的姿勢を保ちつつ、そこから中心的な意味を読み出そうとするのが特色である。この教理から、この世の職業を神の召命として受け止めて、これにこたえる積極的な生き方という新しい倫理が生じた。それと資本主義の精神、ひいては近代世界の形成とのかかわりは、いまなお論じられている。
彼の教えはフランス(ユグノー派)、オランダ、スコットランド、ドイツなどから、さらに新大陸へと広がり、現代に至るも長老・改革派教会としてプロテスタントの有力な一翼を形づくっている。
1564年5月27日、カルバンは同労の牧師や市参事会員に惜別の辞を残して世を去ったが、「ただ神にのみ栄光あれ」Soli Deo Gloriaを暗示するかのごとく、今はただJ. C. の頭文字の刻まれた小さな石がジュネーブ公共墓地に残るのみである。
[出村 彰 2018年1月19日]
『渡辺信夫訳『キリスト教綱要』4巻6冊・別巻1(1962~1965・カルヴァン著作集刊行会/改訳版・全3冊・2007~2009・新教出版社)』▽『波木居斎二訳『カルヴァン小論集』(岩波文庫)』▽『ドゥメルグ著、益田健次・山永武雄訳『ジャン・カルヴァン』(1941・長崎書店)』▽『小平尚道著『カルヴィン』(1963・日本基督教団出版局)』▽『渡辺信夫著『カルヴァン』(1968/新装版・2016・清水書院)』▽『R・ストーフェール著、森川甫訳『人間カルヴァン』(1977・すぐ書房)』▽『久米あつみ著『人類の知的遺産28 カルヴァン』(1980・講談社)』▽『田中剛二著『カルヴァン』(1984・新教出版社)』▽『W・ニーゼル著、渡辺信夫訳『カルヴァンの神学』(1960/オンデマンド版・2004・新教出版社)』▽『出村彰著『スイス宗教改革史研究』(1971・日本基督教団出版局)』▽『渡辺信夫著『カルヴァンとともに』(1973・国際日本研究所)』▽『渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』(1976・改革社/増補改訂版・2009・一麦出版社)』▽『E・W・モンター著、中村賢二郎・砂原教男訳『カルヴァン時代のジュネーヴ――宗教改革と都市国家』(1978・ヨルダン社)』
フランス出身の宗教改革者。姓はもとコーバンCauvin,当時の教養人の例にならってラテン語化してカルウィヌスCalvinus,さらにフランス読みにしてカルバンという。
ピカルディーの中産階級の出。若年でパリ大学に入り,オルレアン,ブールジュの大学で法学と人文主義の学問を修めた。ルターの書物から感化を受けたが,宗教改革への決断は久しくためらっていた。回心を経験して福音主義者のうちに身を投じ,古典学者としての道を捨て,フランス宗教改革の地下活動に服務しながら,主著《キリスト教綱要》を書く。学者で宗教改革の実践に走るのは,フランスでほとんど前例を見ない挙であった。1536年にファレルの強い要請を受けてジュネーブの宗教改革に携わるが,教会の自立の思想を持つ彼らは市当局の教会政策と衝突して追放され,カルバンは38年から41年までシュトラスブルクにいて神学教授と亡命フランス人教会の牧師を兼ね,この市の改革者M.ブツァーたちから多くを学んだ。妻を迎えたがプロテスタントにおける家庭の理念は,カルバンによって基礎づけられた。3年後ジュネーブから再度招かれ,ファレルのたっての勧めに従ってそれを受けた。以後十数年にわたり教会の自立のための戦いをし,そののちヨーロッパ全域の宗教改革に貢献すべく大学を設立し(1559),特にフランス,ネーデルラント,スコットランドの宗教改革を助けた。生来の病弱と肉体の酷使により55歳で死んだ。遺志によって墓碑は作られなかった。後継者はベーズである。
激しい戦いの中で意志を貫徹したため,しばしば中傷され,戯画化されているが,人文主義の教養を積み,人間性豊かであったことは彼の文章から知られる。16世紀フランス語の代表的文章家である。詩文と音楽に関する造詣は《ジュネーブ詩篇歌》を生んで賛美歌史に新時期を画し,幅広い交友関係は諸国の人文主義者,ドイツにおけるメランヒトン系の人々,また英国国教会の人々をも引きつけた。彼の著作では《キリスト教綱要》が宗教改革の神学を体系化した代表作として定評を得たほか,聖書の大半を覆う注解書は,人文主義的聖書釈義を大成するとともに神学的解釈において傑出している。〈綱要〉における体系化と注解書におけるテキストに即した読み取りは,彼の神学的方法の双輪である。説教の速記録が残されているが,これはカルバンの神学を理解する上で重要な資料となる。
古代教会の著作家には深く学び,アウグスティヌス,I.クリュソストモスを好んで読んだが,神学としてはルターのそれを基本的には継承する。ルターが人間の主体的体験に重心を置き,ために教理の体系的展開にあたって支障を生じたのにひきかえ,カルバンは客観的に神の啓示から神学を展開し,論述は緻密かつ柔軟であった。思考は客観的であるが思弁的ではなく,聖霊によってキリストと一つとされ,キリストのすべての祝福にあずかることに中心を置く。恵みとはキリストと一つになる結合によってキリストのものを共有することにほかならない。しかしキリストと一つになるとは,キリストにおいて神の所有となることである。それは救いに安らうことでなく,神と隣人のために仕える歩みとなる。この奉仕の規範として律法が必要である。しばしばカルバンの思想の特色と見られる預定論は,重視されてはいるが,特色ととられるほどには中心的位置を与えられていない。むしろ彼以前の神学者の中に預定論を神学の中心点と見る主張があった。カルバンは宗教改革の原理を確定するために神の永遠の預定(選び)を信じ,救いにかかわる人間の側のいっさいの要因を否定する必要を考える。神と人あるいは民との関係を〈契約〉として把握するのはカルバン派の特色である。旧き契約(旧約)と福音による契約(新約)とが本質において一貫したものととらえられ,旧契約も同一の仲保者キリストによって成立していたと見る。キリストは永遠の同一者である。教会は今の時における契約の民であるから,ふさわしく秩序づけられねばならないとする点も特色の一つである。彼は多くの肢体からなる一つの生命体として教会を見,一致と多様性が重要であると考えた。したがって階級制度としての教会を否定し,信徒の位置を強化する。教会の秩序を統率するのはキリストであるが,その代理人は特定の個人でなく会議である。このような教会についての厳密な思考は,国家権力およびそれとの関係を考察させた。カルバンはローマ・カトリック教会の聖俗両領域にわたって権威であろうとする理論,急進派の無政府主義的傾向,マキアベリにある国家権力を無制約的に肯定する考えをとらない。彼自身は圧制に対する抵抗を積極的には説かなかったが,次の世代の王制廃止論者たちはみずからをカルバンの継承者と見,そこに抵抗理論の源泉を求めた。
→改革派教会 →カルビニズム →宗教改革
執筆者:渡辺 信夫
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…プロテスタント諸教会の総称として使われる場合もあるが,正確にはとくにルター派に対してカルバン派の教会を指す呼称。スイスと南ドイツの諸都市は,ルター主義と若干の隔りをおく宗教改革をした(ツウィングリ,ブツァー,エコランパディウスら)。…
…1559年フランス改革派を一つの組織に統合したパリの第1回大会(全国会議)において《教会規則》とともに採択された。告白も規則も草案はカルバンが書き,門弟たちが加筆した。信仰告白草案は既存の《パリ信仰告白》(1557)18ヵ条を改訂した35条からなっていたが,決定した本文は40条である。…
…広義においてはカルバンの思想,あるいはカルバンの影響を受けた思想を意味し,したがって改革派教会の信仰と思想をさすが,しばしば狭義において17世紀に特にイギリスで厳格な〈預定論〉を奉じた神学思想をいう。すなわちアルミニウス主義の反対概念である。…
…少なくともルターには政教一致の意図がなく,その条件もなかったからである。ツウィングリはやがて戦死し,改革事業はファレルとカルバンにうけつがれた。カルバンは1536年,ファレルの懇請に負けてジュネーブの改革に加わり,いったんストラスブールに赴いて《キリスト教綱要》を書き改め,41年にもどって最後までこの地で改革に没頭した。…
…カルバンの主著。宗教改革の神学を代表する体系的書物。…
…ここでは教会が赦罪権を持つという考えや功徳説は排除される。カルバンはこの〈職〉という概念を重視し,キリストにおける両性の一致は仲保者に与えられた預言者・祭司・王の三つの職の遂行にあるとした。これはルターの状況的な考え方に残るあいまいさを除去してはいるが,ロゴスは受肉にもかかわらずその外にとどまるとされ(いわゆるカルバン的外部extra calvinisticum),これをめぐってルター派との間に長い論争が生じた。…
…宗教改革によってこの状態が一転した。とくにカルバンは現世の生活を重視し,貨幣制度や利子を全体の福祉を促進するものとして許容した。こうして利子をとること自体は合法的であるという考えが初めて確立することになった。…
…プロテスタントの主権者がその領域内の教会財産・修道院領を接収し,教会統治権を掌握する,このような国教会体制は,ドイツのほか,ルター主義を受け入れた北欧の諸王国においても実現された。
[カルビニズムの登場]
アウクスブルクの宗教和議とほぼ同じころ,スイスのジュネーブでは,カルバンによる宗教改革が最終的に勝利していた。人文主義者として出発し,ルフェーブル・デタープルらの福音的ヒューマニズムの影響下に信仰を形成したカルバンは,1530年代に本格化したフランス王権による福音主義への弾圧を前にスイスへ亡命し,《キリスト教綱要》(1536)いらいプロテスタンティズムの第2世代を指導する地位へと押し上げられた。…
… 宗教改革は,司教がジュネーブを捨て,サボイア家と結託してジュネーブに対峙する政治状況の中で導入された。1534年ベルンの強力なてこ入れで宗教改革者G.ファレルが送り込まれ,次いで36年カルバンの登場とともに宗教改革は政治革命と手を携えて進展を見た。一時,カルバンは追放されたが,41年再び都市内の地位を確立し,ジュネーブをプロテスタントの本山にすることに成功した。…
…カルバンによる教理問答。彼は1541年シュトラスブルクからジュネーブに帰り宗教改革を続行したとき,教会規則とともに教理問答を書きなおした。…
…この時代,北ヨーロッパの商業はロンドン,アントワープを中心に展開していた。宗教改革の過程でカルバンが勤労と禁欲を勧めると同時に利子付貸借を容認したことは,プロテスタント諸国における商人の活動を促進させる契機となった。 16世紀末から次の世紀にかけて,〈17世紀の危機〉と呼ばれる深刻な不況がヨーロッパを襲うようになると,国際間の競争はきわめて激化した。…
…哲学的思弁から神学を解放して,ひたすら〈神の言〉に基礎づけるキリスト論的神学が主張された。カルバンは《キリスト教綱要》においてプロテスタント神学の基本的な見取図を提示した。ローマ・カトリック教会と東方教会の神学が伝統をよく保持したのに対して,プロテスタント神学は近代の諸潮流によって大きな影響をこうむった。…
…しかし,宗教改革家ルターは,性に対する人間の欲望をきわめて自然で強いものとみ,独身主義をむしろ危険なものと考えた。一方カルバンは,夫婦の関係を神聖視し,その他の不倫な性行動を罪とみなした。 キリスト教による性の抑圧は,西欧社会の性に大きな影響を与えたが,キリスト教の支配がゆるんだルネサンス期には文学,美術に性や肉体の復権をうたったものが現れた。…
…他方,ツウィングリは聖餐の象徴説を唱えてルターと対立し,これがプロテスタント教会統一の妨げとなった。カルバンは,ルターとツウィングリの中間的な立場をとり,聖変化は否認したものの,聖餐によって信者はキリストの体と血の効力にあずかれると主張した。なおアングリカン・チャーチ(英国国教会)はこの問題に関する統一的見解を欠いている。…
…1532年ワルド派をアルプス山中に訪ねて同派をスイスの宗教改革に結びつけた。35年ジュネーブの宗教改革を決断させ翌年カルバンを協力者に迎えた。38年以後はヌシャテルで改革を遂行しその地で死んだ。…
…穏健な理論と豊かな学識をもつ当代一流の神学者であった。49年にはジュネーブ教会を代表するカルバンとの間に〈チューリヒ協定〉を結んで改革派の聖餐論を統一した。62年に個人的確認また神学的遺言として一つの信仰告白文を書くがこれは《第2スイス信仰告白》の名で公的に採用され,改革派でもっとも広く用いられる信仰告白となった。…
…人文学者また詩人として世に出たが,大病によって人生の危機を経験し,福音主義を告白する。1549年ローザンヌのギリシア語教授となり,ジュネーブに移って,59年にカルバンが大学を創設したとき,その初代学長。カルバンの死後は後任の牧師となり,改革派を代表する神学者また教会政治家として,全ヨーロッパとくにフランスの教会を指導し宗教改革の権利を擁護した。…
…これは自由意志による救いをとなえるペラギウスに対し,神の絶対の主権性を強調したものである。カルバンはある者は救いに,ある者は滅びに預定されているとの〈二重預定〉を説いたが,これは神の全知と摂理を語るスコラ神学が自然神学に堕するのを防ぐものであった。しかしK.バルトは,預定の神をたんに隠れた恐るべき神とするこの考えを批判し,キリスト自身選ぶ神であり,選びの原理はその死と復活のうちに現れていると述べる。…
…教会財政の紊乱(びんらん),聖職者の退廃を原因として教会の勢力が衰退しだし,これに代わって絶対王政が確立されはじめる。ルターやカルバンなどの宗教改革の指導者が,婚姻=サクラメント理論に対して批判を加え,離婚を認めるべきことを説き,婚姻事件につき教会裁判所には管轄権限がないことを主張した。 このように,教会婚姻法に対する批判が勢力を拡大するに伴い,婚姻事件についての教会裁判所の独占的管轄権に対しても世俗裁判所によって異論が唱えられ,教会裁判所と世俗裁判所との管轄権争いの事件が増加した。…
…以上のような徴利禁止の原則は,宗教改革によってくつがえされた。カルバンは利子取得を容認し,サルマシウスClaudius Salmasius(1588‐1653)が徴利禁止の理論的基礎を批判した。イギリスではヘンリー8世が1545年に年10%以内の利子取得を認める法令を発布した。…
※「カルバン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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